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15 May 2014 14:43
2006 11月 21 , 13:13

ロシアの考古学について

今回は、 三重県四日市市にお住まいの、 伊藤卓也さんのからのご要望にお答えして、 「ロシアの考古学について」お答えします。 なお、 今回のテキスト作成は、 ロシアの声・日本語課の、オリガ・ザルバイーロヴァオーリャさんです。なお、 アナウンス担当は、 真野佳名子、 菅聡史でおおくりします。 今回、 ご質問をお寄せくださった三重県四日市市にお住まいの、 伊藤卓也さんは、お便りの中でつぎのようにかかれています。   「シベリア地域の考古学にはとても関心があります。 シベリアといえば、 冷凍マンモスがよく知られていますが、 それよりも人間がどう暮らしていたかに興味があります。 特にロシアという国家ができる以前、

今回は、 三重県四日市市にお住まいの、 伊藤卓也さんのからのご要望にお答えして、 「ロシアの考古学について」お答えします。

なお、 今回のテキスト作成は、 ロシアの声・日本語課の、オリガ・ザルバイーロヴァオーリャさんです。なお、 アナウンス担当は、 真野佳名子、 菅聡史でおおくりします。
今回、 ご質問をお寄せくださった三重県四日市市にお住まいの、 伊藤卓也さんは、お便りの中でつぎのようにかかれています。
 
「シベリア地域の考古学にはとても関心があります。 シベリアといえば、 冷凍マンモスがよく知られていますが、 それよりも人間がどう暮らしていたかに興味があります。 特にロシアという国家ができる以前、 どんな集落を営み、 どうやって生きていたかを知りたいと思います。
機会がありましたら、 考古学の話題をぜひ取り上げていただきたいと思います。 またシベリアのみならず、 広大なロシアにおいては地域により相当異なった様相があることと思います。 ロシアの考古学の現状など、お聞かせいただければ幸いです」
三重県四日市市にお住まいの、 伊藤卓也は、このようなご質問をお寄せくださいました。
 
伊藤さん、私たちにも大変興味深いご質問をお寄せくださり、ありがとうございました。伊藤さんもお書きになっていますように、ロシアは広大な領土を有する国です。ですから、まだまだ手が入っていない、研究のすすんでいない土地はたくさんあります。
たとえば、行けども行けども果てしないタイガは、ほとんどが未踏の地で、まだまだ多くの謎を秘めています。タイガで、ときたま考古学上の大きな発見がなされることがありますが、これはほとんど偶然が幸いして私たちの目に明らかになった、というもので、タイガ全体に眠る秘密の宝庫の、ほんの一片が表にでたものにすぎません。
その一例として、お話できるのは、昨年2005年に、ハバーロフスク地方のタイガに大きな竜巻が発生したときのことです。この竜巻によって、樹齢何百年にもなる樹木が地面から根こそぎ引き抜かれてしまいました。そして、その引き抜かれた根元の土から、地元の人々は、古代人が細工をほどこした大きな石の塊が地元住民によって発見され、研究者たちがいっせいに現地に駆けつけました。
このように、タイガ一帯には、私たちの文明社会とはまったく異なる世界、文化を呼吸していたものの痕跡がいたるところにあります。発見はつぎつぎなされていきますが、それがなにであるのかを物語る資料は、あまりありません。ところが、大発見はこれだけには終わりませんでした。この大きな石の塊が発見された場所の近くで、研究者たちは、なんと、地下に隠された謎の都市につながる迷宮の入り口を見つけたのです。緩やかな傾斜となっている、この入り口は、地面にぽっかりとあいた大きなじょうごを思わせるものでした。
このように、考古学者たちは、タイガに眠る秘密が、思わぬタイミングで発見されることを大いに期待しています。専門家の話では、こうした発見はエジプトのピラミッドや、シュリーマンのトロイの遺跡に負けずとも劣らない考古学的価値の高いものだそうです。エジプトやトロイについては、叙事詩や伝説などの書物が残っていますから、そうした文献を頼りに、どんなものであったか想像することもできますが、タイガにあった文明社会については、資料らしいものがなにもなく、まったく明らかになっていないのです。
 
タイガではなく、村であった面白い発見としては、おなじくハバーロフスク地方で、こんな例があります。その村では、雨が降ると、地面が洗われて、地中に眠っていた古い時代のものが顔を出すのだそうです。ただし、そうしたものを不法に発掘し、持ち去る人がいるため、盗掘を恐れる研究者たちは、いまだに村の名前を公表していません。
 村人からの知らせを受けて駆けつけた考古学者たちは、砂地が傾斜した場所に、いままでにない、変わったビーズを見つけたそうです。現在、そうした発掘品については、ハバーロフスクで研究調査がなされており、粘土で作られたものの復元作業が行われています。このような陶器は、2500年以上前につくられたことがわかっているそうです。また同じ場所で、やはり2500年前のものと見られる人骨が見つかっていますが、アムール川河畔地域の、このような湿った場所では、骨は200年から300年の間にぼろぼろに溶けてしまって、跡形もなくなるのが普通なので、非常に価値の高い発掘品として評価されています。
 
さて、シベリアではなく、今度はモスクワから西へ目を転じて見ましょう。
ロシアのヨーロッパ地域の北西にあるノヴゴロドは、モスクワよりも歴史が古く、ロシア古代文化の揺籃の地として有名な場所です。年代記にその名が初めて登場するのは、859年という古い町、ノヴゴロドでは、もう何年にもわたって遺跡の発掘作業が行われています。古い地層からは金属などではなく、多くの有機物が発見され、そのおかげで昔この土地に暮らしていた人々の生活の様子がかなりわかっています。
 たとえば、白樺文書といわれる、白樺の樹皮に刻まれた手紙からは、年代記などに記されている当時の人々の姿がよみがえり、今まで、「古代ルーシの人々は読み書きができない」と考えられてきた認識がくつがえされています。こうした遺跡からは、生活の中で使われてきた道具がたくさん見つかりました。
このノヴゴロドに、程近い場所で、あっと驚く発見がありました。今から3年前の2003年のこと、北アフリカに生息するキヌザルの頭蓋骨が見つかったのです。
北西ロシアにとっては、あまりにも珍しい、こうした動物が12世紀のノヴゴロドに運ばれたのは、きっと当時、一番重要な交易の道「ヴァリャーグ(今のスウェーデン)からギリシャへ」つづく川のルートをとおってきたのだろうと、考古学者たちは推測しています。このキヌザルは、ノヴゴロドの公の家族たちのために、なぐさみものとして連れてこられたに違いありません。
また、その一年後の2004年、今度は1000年前に、土地の人が食べていたギリシャくるみの殻が見つかりました。こうしたくるみはロシアでは育たない食物です。
そして、昨年、2005年、今度は、かわった言葉が書き付けてある3つの白樺文書が発見されました。こうした言葉は、「タタールの頚木」を受ける前のロシアで使われていた「ののしり言葉」です。これにより、今までは、「ロシア語における罵り言葉は、タタール=モンゴルの支配をうけた時代にロシア語にはいったものだ」とされていた学説が、くつがえされました。
 
このように、過去半世紀の間に、950以上の白樺文書が見つかったおかげで、年代記や、教会の文献にはかかれていない庶民の暮らしについて、多くのことがわかりました。白樺文書にかきつけられた手紙は、いわゆる「書き言葉」ではなく、当時の人々が普段の生活のなかで使っていた言葉だったからです。
人々の生活のようすを鮮やかに伝えてくれる白樺文書は、まだまだたくさん、ノヴゴロドの地面の中に眠っており、一説によりますと、その数は2万を越すとされています。学者たちは、ノヴゴロドの地層のなかで、いわゆる「文化層」といわれる、生活のようすが残されている層について、まだその全体の1・8%しか調査されていない、と語っています。今、現在、考古学が手にしているメソッドで研究を続けた場合、ノヴゴロドの発掘、調査が完了するには、あと2800年かかるのだそうです。
ノヴゴロド近郊では今年、2006年になってからも、夏に大きな発見がありました。紀元前1世紀に使われていたとされる、粘土製の器が2つ見つかったのです。
文様が刻まれたそのうちひとつの器は、どこもかけることなく、完全な形で掘り出され、学者たちの間でセンセーションを巻き起こしました。この容器が発見されたことで、ノヴゴロド付近には、先史時代にすでに人間が暮らしていたことがわかったからです。
 
さて、今度は東の端に目を転じましょう。
ロシア極東の沿海地方、中央部では、1878年に古代の都市のあとが発見されています。町の地層を研究した結果、5つの時代の地層が見つかり、そのうち3つが鉄器時代のもの、あとの2つが中世のものだとわかりました。この地層から発見されたものは、沿海地方、中央部において、時代がどのように移り変わっていくかを伝える、具体的な資料となるもので、実に多くのことを伝えてくれる貴重な遺跡です。
南北の長さが230メートル、東西、190メートルの広さのなかにおさまったこの町は、5角形のかたちをしており、物見の塔を配置した、2メートルの土塁の上に築かれています。またおもしろいことに、人工的に作られた、24段の段丘が東西に横切っています。段丘の幅は5メートルから15メートル。丘の上にむかって、大きな階段が続くように作られています。
この町の構図は、13世紀初頭に山の上に作られた、チジュルチジェンスク城砦のものとまったく同じで、それより後の時代に建設されたものとされています。
 
さいわいなことに、アムール川付近に暮らした古代人、チジュルチジェンスキイ人については、中国の古い文献に多く記載されており、この歴史資料のおかげで、考古学者たちは、チジュルチジェンスキイ人の生活の様子については、確証的な帰結をむすぶことが可能です。ですから、今日のこの番組では、この研究結果にもとづいて、極東地方に暮らした古代の人々について、みなさんにご紹介したいと思います。
チジュルチジェンスキイ人たちは、はじめ、スンガリ川(松花江)とアムール川(黒竜江)の2つの河の流域に集落を形成していました。
チジュルチジェンスキイ人は、半地下型、地上型と、2つの異なるタイプの住居をたてて暮らしていました。半地下型の住居は4角形の木造で、地面を数センチ分掘り下げた上に建てられています。暖を取るには、「カン」と呼ばれる一種の床暖房が用いられています。
この「カン」は、極東地方に住んだ古代人が用いていた暖房で、中国の文献には、
「部屋の周りに土を盛り、その下に火を焚いている。この盛り土の上で眠り、食事を取り、暮らしている」
と、このように記述されています。
チジュルチジェンスキイ人は、じつに多面的な経済を営んでいました。豚をかい、馬、牛、犬を飼育し、畑も耕していたほか、こうした畜産業、農業のほかに、狩猟生活も行っていました。狩の対象となったのは、アオシカ、ヘラジカ、ヤギ、熊、トラ、いのしし、狼にキジです。
また、骨や陶器で作られた釣り針などが発見されており、このことから漁業も営んでいたことがわかっています。
それだけではありません。蜂蜜を集め、金の採集をおこない、川から淡水パール、真珠をとっていました。また、鉄や非鉄金属、貴金属を加工することに関しても、わりあい高い技術を誇っていたのです。
 
チジュルチジェンスキイ人は、居住していた地域のあちこちで、近隣の民と戦いを繰り広げていました。中国の文献には、「生死をかけて戦う」人々だと記述されていることから、その戦いの激しさがうかがえます。
チジュルチジェンスキイ人の戦法は、主に馬に乗って戦う騎馬戦法でした。兵士たちは、薄い鉄の破片をうろこのように加工し、重ねた鎧(よろい)をつけ、長い剣を用いて戦いました。またときには、突き刺す戦法用の刀や、ナイフ、斧、槍を使うこともありました
それでもチジュルチジェンスキイ人の用いた武器で、特に注目すべきなのは、弓矢の先のやじり部分が回転するものでしょう。こうした矢は一度からだに突き刺さると、引き抜くことはできないという恐ろしいものでした。
戦いで死んだ兵士たちを、チジュルチジェンスキイ人は埋葬しました。こうした埋葬場所は、古墳型のものと、地面を掘って埋めるタイプとふたつに分類されています。そうした埋葬場所のひとつで、考古学者たちは青銅の重い鋳物に金箔の貼られた、立ち姿の仏像を発見されました。このことから、チジュルチジェンスキイ人は仏教と出会っていたことがわかっています。
また仏教のほかにも、チジュルチジェンスキイ人の間では自然を信仰の対象として崇拝するシャーマニズムも盛んだったです。それは、動物を表現したものや、動物が人格化された飾りなどが発見されていることからわかっています。
 
チジュルチジェンスキイ人は11世紀から国家を形成し始めました。まさにこの時期から、大きな領土を占め、多民族国家として有名になった「金」国が勃興を開始しています。この金国は、1234年にモンゴル軍によって倒されています。
この金のあとの、中世の時代については、アムール川沿岸地方の歴史は、明らかにされていません。この時期だけが空白状態なのは、この地域一帯に暮らした民族たちが姿を消したり、凋落の時代を迎えたからとされています。
12世紀まで、アムール川沿岸地域一帯にあんなに封建軍事大国として名声を誇った、あのチジュルチジェンスキイ人の国家でさえ、まったく跡形もなく滅亡してしまいました。いったい何が起きたのでしょうか? 大きな自然災害があったのでしょうか? この問いに対する答えはまだ解明されていません。
 
このようにロシアの広大な大地は、全体に大きな謎を秘めたままです。そして時に、大掛かりな建設工事が行われたときだけ、隠されたなぞの一部が地中からひょっこり顔を現すことがあるのです。
たとえば、1987年夏、南ウラルのアルカイムで大きな貯水池を作るため、大きく土地を削った時がそうでした。
このときも、考古学者たちは、いつものように、建設工事が開始されるまでに短い時間のなかで、大急ぎで遺跡の調査を行っていました。こうした建設が行われれば、遺跡は二度と再び日の目を見ることはないため、後世の人々に資料を残すため、最初で最後の発掘チャンスを逃さないよう、学者たちは精力的に調査を行っていたのです。その遺跡のなかに、変わった土塁が見つかり、研究者たちの注目を集めていました。
土塁は珍しいタイプの集落を囲んでおり、こうした土塁がステップ地帯で見つかった例はいまだなかったのです。
話題を呼んでいたのは、直径150メートルになる円形の土塁で、そのなかには、半地下型の何十もの住居跡があり、それぞれには囲炉裏や鉄製の炉がきってあり、地下室、井戸がありました。そして調査のなかで、この集落跡自体が紀元前17世紀から16世紀のものであることがわかったのです。
それからいくらもたたないうちに、考古学者たちは、チェリャービンスク州、オレンブルグ州、そしてバシコルトスタンや北カフカスでも、同じように円形または四角形のかたちをした集落を20以上見つけました。こうしたすべてが、紀元前18世紀から16世紀に形成されたもので、現在、これらは「都市国家」と呼ばれています。
 
こうした驚くべき発見がなされたために、アルカイムでは貯水池の建設工事が中止されることになりました。現在この場所は、史跡・景観自然保護区博物館に指定され、気候や環境の変化の歴史を研究したり、何万年もの間に南ウラルに住む人々の経済活動がどのように変わっていったかを学ぶ学術センターになっています。
この地域に住む人々に主な経済活動は、放牧による畜産と農業です。また、発掘物によって、鉄や金属の加工についても、大変高度な技術を要していたことがわかりました。このほか、陶器でもおもしろい発見があり、表面には現在のピクトグラムのように、象形文字のはじまりが見つかっています。
アルカイムは祈りの場であり、城砦でもあり、また工芸の中心でありながら、集落でもありました。またこのほかにも、場所全体が、星や惑星など、天体の動きをはかる、ひとつの大きな観測装置とみなすこともできます。アルカイムはストーンヘンジに似た、古代の天文台のひとつに数えられる存在なのです。
 
さて、こんにち、建設ラッシュに沸くモスクワでも、考古学上の発見は、ほぼ毎日のように行われています。今のモスクワで建物を建てる場合、比較的時代の若い、18世紀、19世紀、20世紀に建てられた建築物を壊したり、建て直したりして、新たな建物を建てるわけですが、そうした若い建築物を取り除いたあとに、それよりずっと前の時代の、建物の跡が顔を出してくるのです。
地面に眠るそういった古い建物を建て直すことはできませんが、それでも単に埋めなおすには、あまりに価値の高いものが発見されることはよくあります。というより、正確に言えば、モスクワの中心部は、たいていどこを掘っても、考古学上の大きなセンセーションを呼ぶほどの大発見があるといえるでしょう。
たとえば、私たちの放送局の真向かいにある、オフチーニコフスキイ横丁からは、ロマノフ王朝、最初のツァーリ、ミハイル帝の時代、つまり17世紀初頭の銀貨が、なんと9700枚も発見され、大きな話題を呼びました。
また、放送局のある、このピャートニツカヤ通りでは、今度は金貨が見つかっています。
それと、リスナーの多くの方々が、現在ボリショイ劇場で修復工事が行われているのをご存知でしょうが、その工事の過程で地面を掘ったとき、18世紀のものと見られる。非常に凝った彫刻をほどこした、チェスの大様の駒がでてきています。           
 
ロシアでは、まさにその18世紀のはじめに、考古学がひとつの学問として誕生しています。
当時、西シベリアのイルトゥィシ川沿岸や、カザフスタンのルードヌィ、モンゴルとの国境のアルタイでは、古い時代の古墳の発掘がすすんでおり、その埋蔵品をみて大いに感激したピョートル1世は、ロシアで初めての博物館となる、発掘物の保管・陳列庫を創設しようと決めました。
そうした上で、ピョートル大帝は、遺跡から発見された古代の発掘物を収集し、シベリアに学術調査団を派遣する勅令を出したのです。このシベリア探検における、課題のひとつは、「珍しいお宝」を集め、その研究を行うことにありました。
その後、19世紀半ばから20世紀の1930年代までは、考古学団体が誕生し、さまざまな地方博物館が開設され、学術文献が発行されてゆきます。
黄金の環で知られる古い町の、ウラジーミルからスーズダリにかけての土地では、初めて大掛かりな発掘調査が行われ、あわせて7729箇所もの古墳が発見されました。ここからは旧石器時代、新石器時代、青銅器時代のものが多く見つかっています。
 
そして、こんにちのロシアの考古学では、新たなメソッド上の問題が生じるとともに、自然科学のメソッドを応用して、実験的考古学が誕生しています。また、歴史研究の方法論も徐々に変わりつつあって、これが考古学の分野にも影響を与えています。
考古学というのは、他の、じつにさまざまな学問と密接なかかわりをもつ科学です。人類学、民族学、古生物学、言語学、地質学、物理、化学、植物学、動物学、土壌学などと交差し、広い分野を網羅するため、それぞれの変化や発達がお互いに影響しあうのです。
 
その一方、考古学を学問として打ち立てたピョートル大帝の時代、つまり18世紀初頭に存在していた問題は、皮肉なことに、今もなお健在です。それは「盗掘」の問題です。
法律では、盗掘を行った者には、55万ルーブルの罰金が科せられるか、2年の禁固刑に処せられる、と定めてあるのですが、この罰則にもかかわらず、盗掘行為も跡を絶ちませんし、古物商、骨董品店もいくら罰せられても、古い時代の盗品と疑わしいものを受け付けています。
というのも、考古学上にいくら大きな価値があっても、こうして違法に墓を暴き、盗品を売り買いするのは、非常に「おいしい」ビジネスだからです。
20世紀は、盗掘行為が行われたのは、南ロシアやウクライナ地方に限定されていました。古いお金、スキタイ人の美しい装飾品、騎馬民族の甲冑など、古物商のブラックマーケットでは高い値がついたものです。たとえば、スキタイ人の女性が身に着けた、金の下げ飾りなどは、1万ドルもの値がついて、売り買いされていました。こうしたブラックマーケットの存在は、残念ながら今も健在です。
 
さて、番組のしめくくりとして、最後に、考古学上の発見の最高峰に位置するといえる、シベリアのマルタ遺跡についてお話したいと思います。
マルタ遺跡は、イルクーツクから西に85キロメートルの場所に位置しています。ベーラヤ川が流れる川岸の、小高い段丘の上にあり、1928年に発見されました。
遺跡は、約2万3000年前の集落で、半地下型、地上型、またパオのような略式型など、さまざまな住居からなりたっています。そして、こうした住居の骨組みとして主に使われていたのが、マルタの住人たちが狩でしとめたマンモスの骨や、サイの頭蓋骨、トナカイの角でした。
この遺跡で、考古学者たちは石器の武器や、骨から作られた道具、装飾品を見つけたほか、おびただしい数の女性の像、鴨やアヒル、白鳥、サイ、マンモス、へびなどの動物などをかたどった、一種の芸術品を発見しています。
そんななかでも、ユニークなのは、フードのついた、毛皮のつなぎズボンのようなものをはいた、女性の像でしょう。また、死んだ小さな子どもを埋葬した場所からは、たくさんの副葬品が発見されました。
また古生物学的に価値のある、石や骨などから作られた道具のほかに、サイ、マンモス、トナカイ、絶滅した野生の牛、ズーブル、そして氷河期以前にこの土地に生息していた動物たちの骨が見つかっています。
このマルタ遺跡の発掘は、今も続けられています。マルタは何層にもなる、幅広い時代の層を内包した遺跡です。ですから、考古学者たちは、さらなる発見を期待して、熱い視線を注ぎ、発掘を見守っています。
このように、発掘が行われるたびに、今まで分からなかった時代のことが明るみにでます。これにより従来の解釈が覆されることもしばしばあります。
ですから、このテーマに関しては、お話してもつきることがありません。まだまだ発掘がすすんでいない場所は多く、世間を揺るがすような発見はこれから先も出てくるに違いないからです。そうした発掘がなされたときには、またこの番組の続きとして、みなさまにご紹介いたしましょう。
 
以上、今日の「お答えします」は、今回は、三重県四日市市にお住まいの、伊藤卓也さんのからのご要望にお答えして、「ロシアの考古学について」お送りしました。テキスト作成は、日本語課のオリガ・ザルバイーロヴァ、オーリャさんでした。
オリガ・ザルバイーロヴァオーリャ
2006年11月16日
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