ピケティ:「21世紀の資本」イントロダクション

フランスの経済学者トマ・ピケティの富と所得の不平等についての本Capital in the Twenty First Centuryがアメリカの経済系ブログにおいて話題になっています*1。で、この本のキンドル版ではイントロ部分を無料サンプルとして読めるのですよね。シルヴァーバーグのエッセイと違い、この本はそのうちに翻訳が出るはずですが、それまでの間の応援としてイントロのうち、データについての説明などを除いた部分を訳してみる事にしました。でもキンドル版は安いですし、文章も分かりやすいので、英語問題ない人は今の時点で買ってください。俺も買いました。でも、イントロ翻訳の為、5章でストップという本末転倒...

なお、文章中の脚注は全部、訳中です。本当は原文に注がついているのですが、それは無料サンプル部分には入っていないので訳してません。

「社会的差別は、公共の利益に基づくのでなければ、存在することはできない。」

      1789年8月26日の人及び市民の権 利宣言(フランス人権宣言)

訳:ミネソタ大学人権図書館

富の分配は今日、もっとも議論され、論争を呼ぶ問題の一つだ。しかしその長期的な変遷について、どの程度われわれは知っているだろうか?民間の資本の集積のダイナミクスは、19世紀にカール・マルクスが信じたように必然的により少数への富の集中をもたらすのだろうか?あるいは成長、競争、そして技術進歩によるバランスを保とうとする力が発展の後期の段階においては不平等を減らして、20世紀のサイモン・クズネッツが考えたように階級間でのより大きな調和へとつながるのだろうか?。18世紀以来の富と所得の変遷について実際のところわれわれは何を知っていて、そしてその知識から現下の世紀においてどういう教訓を引き出すことができるだろうか?

これらが、この本においてわたしが答えようと試みている質問だ。収められている答えが不完全・不十分なものだということは今のうちに述べておこう。しかしそれでもこれまで研究者に利用可能だったものよりもはるかに長い期間に渡る、比較可能なデータに基づいたものである。データは3世紀、20か国以上をカバーしているし、働いているメカニズムをより深く理解する為の新しい理論的フレームワークも備えている。現代の経済成長と知識の伝播はマルクス主義的破局を回避する事を可能にしてきた。しかし資本と不平等の深い構造を変更する事はなかった。あるいは、少なくとも第二次世界大戦後の楽観的な時期において想像されたほどではなかった。19世紀、そしておそらくは21世紀のように、資本の収益率が生産と所得の成長率を上回る場合、資本主義は、民主的社会がその基礎を置く能力主義の価値を大きく損なうきまぐれかつ維持不可能な不平等を自動的に生み出してしまう。それでも、民主主義が資本主義に対するコントロールを取り戻して、経済的なオープンさを維持しつつ、保護主義国家主義的な反動を避けながらも全体の利益を私的な利益の前におくことを保障する方策はある。この本の後半で私が述べる政策提言は、その方向を目指したものだ。これらは歴史の経験から導き出された教訓に基づいたものであり、これから述べるのは本質的にそれを言葉で語ったものである。

データなしの議論?

富の分配についての知的、政治的議論はこれまで長く、多くの偏見とわずかの事実に基づいて行われてきた。

確かに、理論的なフレームワークや統計的分析が欠如していたとしても、時代の富と所得のレベルについて誰もが持つような直感的な知識の重要性を過小評価するのは間違いだろう。映画や文学、とくに19世紀の小説には、異なる社会グループの相対的な富と生活水準について、特に不平等の深い構造、その正当化の方法、そして個々人の人生への影響について詳細な情報が詰まっている。実際、ジェーン・オースティンやオノレ・ド・バルザックの小説は1790年から1830年におけるイギリスとフランスでの富の分配の素晴らしいポートレートを描いている。この二人の小説家たちはそれぞれの社会での富のヒエラルキーを肌で知っていた。かれらは富の隠されたありようと、結婚の戦略や個人的な希望そして失望を含めた男たちと女たちの人生へのその避けられない影響を理解していた。かれらやほかの小説家たちは、どんな統計や理論的分析も太刀打ちできない迫真さと訴える力を持って不平等の影響を描写した。

実際、富の分配は経済学者、社会学者、歴史家、そして哲学者に任せておくにはあまりに大事すぎる問題だ。誰もが興味を持つことだし、そしてそれは良いことだ。不平等の具体的、物質的な現実は肉眼でとらえられるし、鋭いがしかし相反する政策的判断を自然にもたらす。小作農と貴族、労働者と工場所有者、ウェイターと銀行家。それぞれがかれなりかれ女なりの独自の視点をもち、他の人々がどう生き、社会グループ間でどういう権力と支配の関係があるかを目撃するし、その目撃したことがそれぞれの人物の何が正しく、何が正しくないかの判断を形作る。よって、不平等には本質的に主観的で心理的な側面が常にあり、それらが科学的であることを意図した分析ではどうにもできない政治的な対立へと必然的につながってしまう。民主主義はけっして専門家たちの共和国によって置き換えられることはないし、そしてこれは非常に善いことだ。

ではあるが、分配についての疑問はまた、組織的そして秩序立ったやり方で研究されるに値する。きちんと定義された情報源、手法、コンセプトなしでは、どんなものも、そしてその真逆も見出すことは可能だ。ある人達は、不平等は常に増加しており、よって世界は常により不正義なものへと向かっていると信じている。また別の人々は、不平等は自然に減少していっている、あるいは調和が自動的に実現されて、この幸せな均衡を崩しかねないようなことは一切行われるべきではないと信じている。この問答、耳を貸そうとはしない人達による他者の怠慢をあげつらう事で己の知的怠慢を正当化する問答のなか、完全に科学的とはいかなくても、少なくともシステマチックで秩序だった研究には役割がある。専門家の分析は不平等が避けがたく引き起こす激しい政治的争いに終止符を打つことは決してない。社会科学の研究とは一時の不完全なものであり、そしてこれからも常にそういうものでしかない。それは経済学や社会学、そして歴史学を厳密なる科学とすることを目指したりするものではないのだ。しかし、事実やパターンを根気強く探し求め、それらを説明できる経済的、社会的、そして政治的なメカニズムを落ち着いて分析することにより、民主的な議論に情報を伝え、正しい疑問へと注意をひかせることができる。議論の枠組みを再定義し、ある種の先入観や誤った概念を暴き、すべての立場を常に批判的な吟味にかける助けとなる。わたしの思うところ、これが社会科学者を含むインテレクチュアルが、他の誰もと同じだがしかし研究に身を費やす時間がよりある(さらにはそれでもってお金も貰えるという、素晴らしい特権まである)者として果たすべき役割だ。

しかし、富の分配についての社会科学の研究は長きに渡って、かなり少ない確認された事実と共に、とても多くの完全に理論だけの憶測に基づいてきたというのは否定できない事実だ。この本を書くための準備のなかで集めてきた情報へと向かう前に、この問題についてこれまで考えられてきた事の簡単な歴史的あらましを述べておきたいと思う。

マルサス、ヤング、そしてフランス革命

古典的な政治経済学がイギリスとフランスにおいて18世紀終わりから19世紀初めに生まれた時、分配の問題はすでに主要な問題の一つだった。農村地帯からの人口脱出と産業革命の到来を伴って、これまで知られていなかった事態である持続的な人口増加にせかされた劇的な変化が進行中だということを誰もが認識していた。この激変はどのように富の分配を、社会の構造を、そしてヨーロッパ社会の政治的均衡を変えるのだろうか?

1798年にその著書人口論を出版したトマス・マルサスにとって、疑いはなかった:最大の脅威は過剰人口なのだ。かれがもっていた情報は乏しいものだったが、それらから出来うる限りの事を導き出した。特に重要な影響を与えた情報の一つが、イギリスの作物学者(Agronomist)であって、フランス革命前の1787年から1788年にかけて、カレーからピレネーまで、ブリュターニュからフランシュ-コンテまでフランス中を旅したアーサー・ヤングの旅行記だ。ヤングはフランスの農村地帯の貧困について記述した。

かれの鮮やかなエッセイは全面的に不正確なわけではまったくない。この時期のフランスはヨーロッパで断トツに人口の多い国であり、観察するのに理想的な場所であった。この王国は1700年には2000万人の人口をすでに誇る事ができたが、対してイギリスはたった800万人であった(イングランドだけでは500万人)。フランスの人口はルイ14世の統治下からルイ16世の崩御まで18世紀を通じて順調に増加し、1780年までには3000万人に近づいていた。この前例のない急速な人口増加が、1789年の爆発前の数十年における農業賃金の停滞と地代の上昇に寄与したと信じる正統な根拠がある。この人口の変化はフランス革命の唯一の原因ではないけれども、貴族政治と既存の政治体制の不人気の拡大に明らかに寄与している。

ではあるが、1792年に出版されてたヤングの記述には、ナショナリスト的な偏見の痕跡と誤った比較も存在する。この偉大なる作物学者はかれの泊まっていた宿が完璧に不快なものだったとみなし、かれへ給仕した女性たちのマナーを嫌っていた。かれの観察の多くは陳腐で逸話ばかりではあるが、かれはそれらから普遍的な結論を導き出せると信じていた。かれが主に心配していたのは、かれが目撃した人民の貧しさが政治的変動へとつながったのではないかという事だった。そしてかれは、貴族院庶民院とに議会が分かれて、貴族には拒否権があるイギリスの政治システムだけが、責任感ある人々による調和的で平和的な発展を実現させると確信していた。かれは、1789年‐1790年に貴族と平民、双方を一つの議会に同席させると決定した時にフランスは破局へ向かう事になったと確信していた。かれの全記述はフランスの革命への恐怖によって塗り固められているといっても、なんの誇張でもない。富の分配について誰かが話す時はいつでも、政治は決して離れたところにはいない。そして誰にとっても自分の時代の階級の偏見と利益から逃れるのは難しい事なのだ。

聖職者であるマルサスがかれの有名な人口論1798年に出版した時、かれはヤングよりもさらにラディカルな結論にたどり着いていた。その同国人同様、かれはフランスから広まってきた新しい政治のアイデアを非常に恐れていた。そして大英帝国で同様の変動が起こらないと自分自身に安心させるため、かれは世界が混乱と不幸につながる過剰人口に陥ってしまわないように貧困層への全ての福祉の助けはすぐさま止めて、貧困層の再生産は厳重に監督されるべきだと主張した。1790年代において恐怖がヨーロッパのエリートの多くをどのように捕らえていたかを理解せずに、マルサスの過剰に陰鬱な予言を理解するのは不可能だ。

リカルド:希少性の原理

現在から振り返ると、こういった破局の予言をバカにするのはあまりに簡単だ。しかしながら、18世紀終わりと19世紀初めの経済的そして社会的変革はそれを目撃していた者たちにとって、トラウマ的とは言わなくとも、客観的にもあまりに強烈なものであった。実際、マルサスやヤングだけでなく当時の大半の目撃者たちは富の分配と社会の階級構造の長期的な変遷についてかなり暗めの、あるいは黙示録的な見方を共有していた。これは特にデヴィッド・リカードカール・マルクスにおいてそうだった。かれらは確実に19世紀のもっとも影響力を持った二人の経済学者であり、どちらもも小さな社会的グループ、つまりリカードにとっては地主、マルクスにとっては産業資本家が、必然的に生産と所得におけるそのシェアを着実に増加させていくと信じていた。

経済学および課税の原理1817年に出版したリカードにとって、主要な関心事は土地価格と地代の長期的な変遷だった。マルサス同様、かれは利用できるまともな統計を事実上、持っていなかった。ではあるが、かれはその時代の資本主義について詳細な知識をもっていた。ポルトガル系のユダヤ人金融家の家族に生まれたかれは、マルサス、ヤング、そしてスミス*2よりも政治的先入観が少なかったようだ。マルサスのモデルに影響をうけていたかれは、その議論を更に推し進めた。何よりもまずかれは次のロジカルな疑問に興味をもっていた。一旦、人口と生産の両方が定率で成長するようになったなら、土地は他の財に対してしだいにその希少性を増していく。供給と需要の法則により、土地の価格、そして地主に支払われる地代が上昇を続けることになる。よって地主たちは国民所得におけるそのシェアを増加させていき、その他の人口が受け取るシェアは減少していって、これが社会的均衡を揺るがすことになる。リカードにとって、唯一の論理的、政治的に許容可能な対策は、地代に対してより重くなり続ける税を課すことだった。

この陰鬱な予測は間違いであることが判明した。地代は長い期間にわたって高くあり続けたものの、国民所得の中の農業のシェアが低下していくなか、最終的には農地の価値はほかの富と比較して避けがたく落ちていった。執筆していた1810年代、リカードには将来の技術進歩や工業生産の成長の重要性を予測するすべがなかった。マルサスやヤング同様、かれには人類がいつか栄養面での欠乏から完全に自由になりえるとは想像できなかったのだ。

それでも、土地の価格についてのかれの洞察は興味深いものだ。かれがもちいた「希少性原理」は、ある種の価格は数十年の間、非常に高い水準へと上昇しうるということを意味していた。そんなことは社会全体を不安定化するのに十分だろう。価格システムは数百万の個人の行動を、いや実のところ今日では、新しい世界経済の数十億の個人の行動の調整を調整する鍵となる役割をはたしている。問題は、価格システムは限界も道徳も知らないということだ。

21世紀における富の世界的分配を理解するうえで、希少性原理の重要性を無視するのは深刻な間違いとなるだろう。この事を納得するには、リカードのモデルにおける農地の価格を世界主要国の首都の不動産価格に、あるいは石油価格に置き換えれば十分だろう。どちらのケースにおいても、1970年‐2010年の期間におけるトレンドを2010年‐2050年の期間に、あるいは2010年‐2100年の期間に外挿したならば、その結果は各国間だけでなく各国内での、相当の規模における経済的、社会的、そして政治的不均衡、必然的にリカードの破局を思い出させるような不均衡となるだろう。

確かに、このプロセスに均衡をもたらすようなほんとうにシンプルな経済的メカニズムも原理的には存在している。供給と需要のメカニズムだ。もしなにかの財の供給が不十分なら、よってその価格が高すぎるなら、その財への需要は減少することになり、それがその価格の低下へとつながるはずだ。言い換えると、もし不動産価格や石油価格が上昇したなら、人々は田舎へ移るなり、自転車で移動するようになるなり(あるいは両方)するだろう。そういった調整はあまり楽しいものではなかったり、あるいは複雑なものかもしれないことは気にしないでおこう。しかしその数十年かかるかもしれない調整の間に、地主や油田の所有者たちは他の人口に対する請求書をあまりに積み上げてしまって、田舎の土地や自転車を含めた所有しうるものすべてを簡単に、永遠に所有するまでになるかもしれない。いつものように、最悪が起こることはないだろう。2050年までにはカタールの首長に家賃を払うことになっているよと読者に警告するのは早すぎるだろう。この問題はまた適当な時に考察するが、私の答えはよりニュアンスにとんだものになる。ほんの少し安心できるだけでしかないが。しかし今のところ、供給と需要の相互作用はいかなる意味でも、一部の相対価格の極端な変化による富の分布の大規模で永続的な発散の可能性を否定するものではない事を理解することが重要だ。これがリカードの希少性原理からの主要な含意である。しかし何者も我々に運を天に任せることを強要しているわけではないのだ。

マルクス:無限の資本蓄積の原理

マルクスがその資本論の第一巻を出版した1867年はリカードの「原理」が出版されてちょうど半世紀後であり、その頃までには経済的そして社会的現実は根本的に変化してしまっていた。もはや疑問は、農民が増大し続ける人口を養うことができるのかでも、地代は天井知らずに上昇しつづけるのかでもなく、満開の時期を迎えた産業資本主義のダイナミズムをどうやって理解するのかであった。

当時のもっとも衝撃的な事象は、産業プロレタリアートの困窮だった。経済の成長にもかかわらず、あるいは部分的にはそれ故に、そしてまた人口の増加と農業生産性の向上による田舎からの厖大な流出によって、労働者が都市のスラムに群がっていた。労働時間は長く、賃金は非常に低かった。古の世の農村地帯の困窮よりも目につき、よりショッキングで、そしてある意味においてはより極端な新しい都市部の困窮が現れたのだ。ジェルミナールオリバー・ツイスト、そしてレ・ミゼラブルはその著者たちの創造力からだけで出来上がっているわけではない。児童労働を工場では8歳以上(1841年のフランス)、鉱山においては10歳以上(1842年のイギリス)の子供に制限した法律が想像の産物ではないのと同様に。1840年にフランスで出版された(そして1841年の緩い児童労働規制の新しい法の可決へとつながった)Villermé博士のtableau de l'état physique et moral des ouvriers employés dans les manufacturesは、フリードリッヒ・エンゲルス1845年に出版したイギリスにおける労働者階級の状態と同じみすぼらしい現実を描写している。

実のところ、こんにち我々が利用できる全ての歴史データは、19世紀の後半の半世紀、あるいは最後の三分の一世紀に入るまで、賃金の購買力における大きな上昇は起こらなかった事を示している。19世紀の初めから60年間、労働者の賃金は18世紀やそれ以前の世紀のレベルに近いか、あるいはそれ以下という非常に低いレベルで停滞していた。イギリスだけでなくフランスにおいても見出せるこの賃金停滞の長いフェイズは、この期間に経済成長が加速していた故にさらに目立つものとなる。国民所得内での産業利益、地代、そして家賃からなる資本のシェアは、こんにち利用可能な不完全な情報源からの推計できるかぎりでは、19世紀の最初の半世紀に両国において大きく増加した。賃金が部分的に成長に追いついてきたので、19世紀の最後の10年には少しばかり減少した。それでも、われわれが集めたデータは、第一次世界大戦前まで不平等における構造的な低下を示してはいない。1870年‐1914年の期間においてみいだせるのはせいぜい、極度に高いレベルでの不平等の安定であり、また別の点からすると、富のさらなる集中によって特徴づけられる終わりのない不平等のスパイラルである。もし第一次大戦によって引き起こされた大きな経済的、政治的ショックがなければ、これがどういう軌道を描いていたかを答えるのは非常に難しい。歴史についての分析と少しばかりの俯瞰から、産業革命以降、不平等を減らせるほどの力を持ったのは唯一これらのショックだけだったことが分かる。

とにかく、資本は1840年代を謳歌し、産業利益は増加した。労働者の所得は停滞していたが。この当時、集計された国民統計はまだ存在していなかったが、それでもこのことは誰の目にもはっきりしていた。最初の共産主義、そして社会主義運動が発展したのはこういった状況においてだった。それらの中心となる主張はシンプルなものだった:半世紀を越す産業の成長の後ですら、大衆の状況が以前同様の悲惨なものであり、政治家たちに出来るのが8歳以下の子供たちの工場労働を禁じる事ぐらいでしかないのなら、産業の発展や、技術のイノベーション、労働、人口変化の何がどう良い事だというのか?既存の経済・政治システムの破綻は明らかとおもわれた。なので人々はその長期的な変遷について思いをはせた。何が起こるか分かるだろうかと。

これがマルクスが自身に課した仕事だった。1848年、「諸国民の春」(これはその春にヨーロッパ中で発生した革命のことだ)の直前、かれは共産党宣言を出版した。その最初の章が「妖怪がヨーロッパを徘徊している共産主義という妖怪が」という有名な言葉で始まる短くかつ強く糾弾するテクストだ。これは同じくらいに有名な予言によって終わっている:「よって現代産業の発展は、ブルジュワジーが財を生産し所有するための基礎をその足元から切り崩してしまう。なので、ブルジュワジーが作り出しているのは、まずなによりも、自身の墓堀人なのだ。その没落とプロレタリアートの勝利は共に避けがたいものである」。

つぎの20年間、マルクスはこの結論を正当化し、資本主義の最初の科学的分析とその崩壊を主張できる長大な論文を書き上げるために労を尽くした。が、この仕事は未完のままとなった:資本論の第一巻は1867年に出版されたが、続く二つの巻は仕上げられることのないままマルクス1883年に死去した。かれの死後に友人であるエンゲルスが、マルクスの残した一部意味のはっきりしない原稿をつなぎ合わせてそれらを出版した。

リカード同様、マルクスも資本家のシステムが内在する論理的な矛盾の分析をかれの仕事の対象とした。そうすることでかれは自分をブルジュワ経済学者(市場を自律的なシステム、つまりアダム・スミスの「見えざる手」のイメージや、生産はそれ自身への需要を生み出すというジャン=バティスト・セイの「法則」に沿った、大きな逸脱なしに均衡を実現できるシステムとみなしていた)や、労働者階級の悲惨さを弾劾することで満足して、それをもたらしている経済プロセスについての真に科学的な分析を行おうとはしないとマルクスがみなしたユートピア社会主義者やプルードン主義者たちとは異なっていると閉めそうとした。簡単にいって、マルクスは資本が不動産ではなく主に産業についてのもの(機械、工場、その他)であって、その為、原理的には蓄積しえる資本の量に限界がない世界における資本主義のダイナミズムをより徹底的に分析する基礎として資本価格のリカードモデルと希少性原理を利用したのだ。実際、かれの主要な結論は、「無限蓄積の原理」とでも呼びえるものであった。これは、自然な限界なしにより少数のものの元へと蓄積されていく資本の避けがたい傾向のことだ。これが資本主義の黙示録的終わりというマルクスの予言の基礎である:資本の収益率が減少し続ける(よって蓄積のエンジンをダメにして、資本家間での暴力的な闘争につながる)か、あるいは国民所得における資本のシェアがどこまでも上昇していくことになる(これは遅かれ早かれ、労働者たちを反抗にまとめることになる)。どちらのケースにおいても、安定的な社会経済的、あるいは政治的均衡は可能ではない。

マルクスのダークな予言は、リカードのそれと同様、実現はしなかった。19世紀最後の三分の一世紀、賃金は漸く上昇を始めたのだ。労働者の購買力の向上がいたるところに広まり、これが状況をラディカルに変えてしまった。極度の不平等は続いていたし、ある意味においては第一次世界大戦まで上昇を続けたのだが。共産主義革命は実際に発生したが、しかしそれはヨーロッパでもっとも遅れた場所、産業革命が漸く始まりだしたロシアにおいてであって、より進んでいたヨーロッパの諸国は、その国民にとって幸運なことに共産主義ではない、社会民主主義の経路を探求していった。かれの先人たち同様、マルクスは永続的な技術進歩と着実な生産性向上の可能性を完全に無視したのだが、これらが私的資本の蓄積と集中のプロセスへのある程度のカウンターとなる力だったのだ。かれは疑いもなく、その予測を向上させる統計データを欠いていた。また、正当化に必要な研究に乗り出す以前の1848年に自身の結論を決定していたことも拙かっただろう。マルクスは明らかに多大なる政治的情熱をもって執筆していて、そのため時折、かれは誤魔化しがたい意見を性急にだしてしまったりしていた。これは経済理論が出来る限り完全な歴史的資料に基づくべきである理由であって、そしてこの点においてマルクスは、かれに利用可能だったものすべてを使ってもいなかった。さらに、かれは私的資本が完全に廃止された社会が政治的、経済的にどのように組織されるのかという疑問にほとんど思考をめぐらさなかった。私的資本が廃止された国々での悲劇的な全体主義の実験によって示されたように、実現された場合には本当に複雑な問題となるものだったのに。

こういった限界はあるものの、マルクスの分析はいくつかの点でいまだ意味のあるものである。第一に、かれは(産業革命期の前例のない富の集中についての)重要な疑問に取り組んで、利用できるものからそれをなんとか答えようとした。現代の経済学者はかれの試みからなんらかのインスピレーションを受けるのが良いだろう。そしてより重要な事は、マルクスの提案した無限蓄積の原理には、19世紀同様21世紀の研究にとって関連があり、ある意味ではリカードの希少性の原理よりも不安になる、重要な洞察が含まれている事だ。もし人口と生産性の成長率が比較的低いならば、蓄積された富は当然、無視できない重要性を持つことになる。特にそれが極度のレベルにまで成長して社会的を不安定化させるほどになるならばなおさらだ。言い換えると、低成長ではマルクスの無限蓄積の原理へのバランスを取るカウンターとはなりえない。その結果の均衡はマルクスが予言したほど黙示録的なものではないだろうが、それでもとても不安なものになるだろう。蓄積は有限の段階で終了するが、しかしそのレベルは不安定化を引き起こすほどに高いかもしれない。とりわけ、1980年代と1990年代以来、ヨーロッパの豊かな国々と日本において実現した私的富の、国民所得の何年分であるかで測った非常に高いレベルは、マルクスのロジックを直接に反映したものになっている。

マルクスからクズネッツへ、あるいは黙示録からお伽噺へ

リカードマルクスによる19世紀の分析からサイモン・クズネッツによる20世紀の分析に目をやると、黙示録的予言への経済学者の明らかに過度に発達した嗜好が、お伽噺への、あるいはなんであれハッピー・エンディングへの同様に過剰な好みへと変わってしまったと言いそうになる。クズネッツの理論によると、所得の不平等は資本主義の発展が高度にすすんだ段階では、国ごとの経済政策やその他の違いにかかわらず、自動的に減少して許容可能なレベルで安定することになる。1955年に公表されたこれは、まさに戦後の魔法にかかった様な時期、フランスにおいては"Trente Glorieuses"と呼ばれる1945年から1975年までの華々しい30年間の理論だ。クズネッツによると、我慢強く待っているだけで、そのうちに成長が皆に恩恵を与えてくれる。この時期の哲学は次の一文に要約されている:「成長は、すべての船を押し上げる上げ潮」。同じような楽観主義が、経済が大きな逸脱なしに「均斉成長経路」を実現するための必要条件についてのロバート・ソロー1956年の研究についてもみられる。均斉成長経路とは、生産、所得、利益、賃金、資本、資産価格、その他のすべての変数が同率で変化し、すべての社会グループが成長から同じ比率で利益を得る成長経路のことだ。よってクズネッツのポジションは、リカードマルクスの不平等スパイラルとは真っ向から対立するものであり、19世紀の黙示録的予言とは正反対のものとなっている。

クズネッツの理論が1980年代と1990年代に持ち得ていた、そしてある程度は現在においても持っている大きな影響力を適切に伝える為には、それがこの手のものでは初めて大量の統計資料に基づいたものだったということを強調しておくのが大切だろう。実のところ、20世紀の半ば、つまり1953年出版のクズネッツの記念碑的仕事Shares of Upper Income Groups in Income and Savingsによってはじめて、所得分布統計の歴史データの系列が利用可能になったのだ。クズネッツのデータの系列はたった一つの国(合衆国)の35年間(1913年‐1948年)についてのものだ。それでもこれは重要な貢献で、19世紀の著者たちにはまったく利用が可能ではなかった二つの情報源に基づいている:合衆国の連邦所得税の為の所得申告(これは1913年の所得税の創設まで存在していなかった)と、数年前にクズネッツ自身が推計した合衆国の国民所得だ。こんな大掛かりに社会の不平等を測ろうとするのはまさに初めての試みだった。

補い合い、そして欠かすことのできないこの二つのデータセットなしでは、所得分布の不平等を測るのも、その変遷を調べるのも単純に不可能だという事を理解するのが大切だ。確かに、イギリスやフランスにおいて国民所得を計測しようとする最初の試みは17世紀末や18世紀初めまでさかのぼるし、19世紀にはおいては多くのそういった試みがあっただろう。しかしそれらは孤立した推計だった。20世紀、二つの世界大戦の間の時期になって初めて、国民所得のデータは合衆国ではクズネッツとジョン・W・ケンドリック、イギリスではアーサー・ボウリーとコリン・クラーク、そしてフランスではL.Dugé de Bernonvilleによって開発された。このタイプのデータによって、一国の総所得を測ることができる。国民所得における高所得層のシェアをだすには、所得の報告もまた必要だ。この情報は、多くの国が第一次世界大戦の頃に累進所得税を採用するようになって入手可能になった(アメリカは1913年、フランスは1914年、イギリスは1909年で、インドは1922年、アルゼンティンが1932年)。

所得税がなくとも、任意の時点での課税対象についての様々な種類の統計があるが(たとえば、19世紀フランスでは県による*3ドアと窓の数の分布など。これも興味深くないわけではない)、しかしそういったデータは所得については何も教えてはくれない。さらに、税務当局への所得の申告が法によって必須となる以前、人々はしばしば自分自身の所得の額について分かっていなかったりもしたのだ。同じ事は法人税や資産税についても言える。課税は全ての市民に公共の支出とプロジェクトへの資金の提供を必須とし、税の負担を出来る限り公正なものにする方法というだけでなく、階級わけを確立し、そして知識と民主的な透明性の促進にとっても有益だったのだ。

とにかく、クズネッツが自身が集めたデータによってアメリカの総国民所得ヒエラルキーにおける各十分位階級、そして最上級の百分位階級のシェアの変遷を計算することができた。そしてかれは何を見出しただろうか?1913年から1948年の間での、合衆国の所得不平等の急激な減少だ。より詳しくは、この時期の最初、所得分布の最上位十分位階級(つまり、アメリカの所得のあった人達のトップ10%)が年間国民所得45から50%を得ていた。1940年代の末までには、このトップ十分位階級のシェアは国民所得の大体30から35%へ低下していた。このおよそ10%ポイントの低下は相当なものである:たとえば、これは貧しい方のアメリカ人50%の所得の半分と同じなのだ。不平等のこの低下は明らかで反論の余地のないものだった。これは大きな重要性のあるニュースであり、戦後の時期の学会と国際機関双方での経済についての議論に多大なインパクトを与えた。

マルサスリカードマルクス、そしてその他多くが何十年も不平等について、どんな情報源も、あるいは一つの時代を他の時代と比べたり、競合する複数の仮説のなかでどれを選ぶのかについての方法を述べる事もなく語ってきた。この時期に初めて、客観的な情報が利用可能になったのだ。その情報は完全ではなかったが、存在しているというメリットがあった。さらに、その生産方法も極度にきちんと文章化されていた。1953年にクズネッツが出版した分厚い本は、かれの情報源とその手法を事細かく説明していて、全ての計算が再現可能になっていた。そしてそれ以外にも、クズネッツは良いニュースの使者でもあった:不平等は低下していたのだ。

クズネッツ・カーブ:冷戦真っ只中の良きニュース

実のところ、クズネッツ自身が、1913年から1948年の間のアメリカの高額所得層の圧縮はだいたいにおいて偶然の産物だということをよく認識していた。それは大部分、大不況と第二次世界大戦によって引き起こされた複数のショックによって起こったものであって、どんな自然な、あるいは自動的なプロセスともほとんど関係のないものだった。1953年の著作で、かれは自身のデータを詳細に分析して、読者に性急な一般化を行わないようにと注意している。しかし195412月、アメリカ経済学会のデトロイト大会において、学会の会長であったクズネッツはその分析結果について、1953年のものよりもずっと楽観的な解釈を発表した。1955年にEconomic Growth and Income Inequalityのタイトルで出版されたこのレクチャーが、「クズネッツ曲線」の理論のもととなった。

この理論によると、どこにおいても不平等は「ベル曲線」を描くものとされている。つまり、産業化と経済発展のなかで、最初は上昇するが、それから低下するのだと。クズネッツによると、不平等が自然に上昇していく最初の段階は産業化の初期のステージと結びついている。合衆国においてこれは大まかにいって19世紀を意味する。その後に不平等が急激に低下する段階がつづく。これは合衆国では20世紀の最初の半世紀に始まったという事にされる。

クズネッツの1955年の論文は啓発的なものだった。読者にデータを慎重に解釈するべき理由を思い起こさせて、そして合衆国における近年の不平等の低下についての外的ショックの明らかな重要性について語っているが、クズネッツはほとんど無邪気なほどついでに、経済発展の内的ロジックもまた、どんな政策介入や外部からのショックがあろうとも、けっきょく同じ結果をもたらすのではないかと示唆している。そのアイデアは、不平等が産業化の初期の段階で上昇するのは、産業化がもたらす新しい富から利益を得る準備ができているのはほんの一部の者だけだからだというものだ。その後、発展がより進んだ段階では、人口のより多くがどんどんと経済成長の果実を受け取って行く事により、不平等は自動的に低下していく。

この産業発展の「進んだ段階」は、産業化した諸国では19世紀の終わりか20世紀の初めには始まっているものとされた。これによって、合衆国では1913年と1948年の間に観測された不平等の減少が、より一般的な事象の一例として描かれたわけであり、これは植民地後の貧困に陥っている後進諸国も含めてどこにおいても、理論的には再演されるものとされた。クズネッツが1953年の本で示したデータは、いきなり強力な政治的武器となった。かれは自身の理論化が非常に不確かなものであることをよく認識していた。それでも、アメリカの経済学者たち、つまり名声のあるリーダーによって届けられた良いニュースを信じ広めようとする聴衆の、その中心的な職業組合での「会長講演」という文脈の中でこのような楽観的な理論をプレゼンすることで、かれは自分が大きな多大な影響力をふるう事になるという事を知っていた。こうして「クズネッツ曲線」が生まれた。一体なにがかかっているのかだれもが確実に理解するように、かれは聴衆に自分が楽観的な予言をする意図は非常に単純で、後進諸国を「自由世界の軌道の中」に維持する事であることをわざわざ気づかせている。かなりの部分、このクズネッツ曲線の理論は冷戦の産物なのだ。

どんな誤解も避けるために、アメリカの最初の国民所得データと不平等を測る最初の歴史データを生み出したクズネッツの仕事は最上級の重要性を持ったものであって、かれの本を読めば(かれの論文ではなく)、かれが真の科学的倫理を持っていたこともはっきり分かるということを述べておこう。付け加えて、第二次世界大戦後の期間の全ての先進国で見られた高い成長率は大きな重要性を持つ現象であったし、すべての社会グループが成長の果実を受け取った事は更に重要だった。Trente Glorieusesがある程度の楽観主義を助長し、富の分配に関する19世紀の黙示録的予言がいくらかその人気を無くしたのも良く理解できる。

けれども、魔法のようなクズネッツ曲線の理論はその大部分が間違った理由で作られたものであり、そしてその実証的な基礎は極度に脆いものだ。ほとんど全ての豊かな国で1914年から1945年の間に観察できる所得不平等の急な低下は、まずなによりも世界大戦とそれがもたらした激しい経済的、政治的ショックによるものだった(とりわけ、大きな資産をもつ人々にとっては)。クズネッツが描いたような部門間移動による平和的なプロセスとはほとんど関係がなかったのだ。

分配の問題を経済分析の中心へと復帰させる

この問題は重要なものである。けっして歴史的な理由だけからではない。1970年代以来、所得不平等は豊かな国々で大きく上昇した。とりわけ合衆国ではそうであり、21世紀の最初の10年間において所得の集中は、前の世紀の二つ目の10年間*4に達していたレベルを回復した。いや、少し上回りさえした。よって、不平等がしばらくの間、低下していたのはなぜ、どうしてだったのかをはっきりと理解するのは非常に重要な事である。たしかに、途上国の、とくに中国の非常に急速な成長は世界レベルでの不平等を低下させる強力な力であることを証明するかもしれない。豊かな国の成長が1945年から1975年の期間にそうだったように。しかしこのプロセスは途上国に深い不安を、豊かな国々では更に深い不安を生み出している。また、金融、オイル、そして不動産市場におけるここ数十年の劇的なほどの不均衡が当然ながらソローやクズネッツが描いたような「均斉成長経路」の必然性についての疑いを生んだ。かれらによれば、すべての主要な経済変数は同じペースで動くものとされていたのに。2050年、あるいは2100年の世界はトレーダー、トップマネージャー、そしてスーパーリッチに所有されているのだろうか?あるいは産油国中国銀行によってか?それとももしかすると、そういった役者たちの多くが逃げ場を求めるタックスヘイブンによって所有されるのだろうか?誰が何を所有するのかという問題を取り上げずに、単純に成長が長期的には自然に「均斉な」ものになると初めから仮定してしまうのは愚かなことだろう。

ある点では、われわれはこの21世紀の初めにおいて、19世紀初めのわれらが先祖と同じポジションにいる:われわれは世界中で経済が劇的に変化していっているのを目撃していて、それらがどれほどのものになるのかも、今から数十年後に世界の富の分配が、各国内そして各国間でどのようになっているのかを知るのは非常に難しいのだ。19世紀の経済学者たちは経済分析の中心に分配の問題をおいて、長期の趨勢を研究しようとしたという点で多大な称賛を受けるに値する。かれらの答えは常に満足のいくものというわけではなかったが、しかし少なくともかれらは正しい問題を答えようとしていたのだ。成長が自動的に均斉なものになると信じるべき根本的な理由はなにもない。不平等の問題を経済分析の中心に戻し、19世紀に最初に出された疑問に答え始めるべき時はとっくに過ぎてしまっている。あまりに長い間、経済学者は富の分配を無視してきた。これは一部にはクズネッツの楽観的な結論のためであり、また部分的には代表的個人と呼ばれるものに基づいた単純化された数学モデルへの過度な熱狂のためであった。もし不平等の問題が再び中心的なものとなるのなら、過去と現在の趨勢を理解する目的のために歴史データを出来うる限り集めることから始めなければならないだろう。辛抱強く事実とパターンを蓄積し、そして様々な国々を比べる事によって、現在作動中のメカニズムを特定し、よりはっきりした未来図を得る事ができるのだから。

この本で用いられた情報源

     略

 

この研究の主要な成果

これらの新しい歴史の情報源からどんな結論を得られるだろうか?まず第一は、富と所得の不均衡についてのどんな経済的決定論にも警戒しておくべきだというものだ。富の分配の歴史は常に非常に政治的なものであって、純粋に経済的なメカニズムだけに還元することはできない。とくに、1910年と1950年の間に大抵の先進国において起こった不均衡の低下はまずなによりも戦争と、戦争のショックに対応しようとして採用された政策の結果だったのだ。同様に、1980年以降の不均衡の復活が大部分、過去数十年の政治的変化、特に課税と金融に関しての変化によるものだ。不平等の歴史は経済的、社会的、そして政治的アクターたちの何が正しく何が間違っているかについての観点、およびそういったアクターたちの勢力関係とその結果の集団的選択とによって形作られてきた。すべての関係者たちによる共同の産物なのだ。

第二の結論は、そしてこれがこの本の中心となるものなのだが、富の分配のダイナミクスは収束と発散に交互にむかう強力なメカニズムをあらわにしているという事だ。さらに、不安定化や不平等へと向かう力が永続的に支配的になることを妨げるような自然で自生的なプロセスなどというものはない。

まず、収束へと向かう、つまり不平等を減少、縮小させるメカニズムを考えてみよう。収束への主な力は知識の伝播と、訓練とスキルへの投資だ。供給と需要の法則は、これ自体がその法則の一変種である資本と労働の流動性とともに、収束へと常に向かうものではある。しかしこの経済法則の影響力は知識の伝播とスキルよりも強力ではないし、その結果についてもなかなかはっきりせずに、逆になったりもする。知識とスキルの伝播は全体の生産性の成長へだけでなく、各国内と各国間の双方での不平等の低下への鍵でもある。この事は現在、中国に率いられたかつての貧しい国々多数が成し遂げている成長の中に見出すことができる。こういった急成長中の経済は現在、先進諸国とのキャッチアップのプロセスの中にある。豊かな国々の生産方法を取り入れ、他国で見られるのと同等のスキルを身に着けて、低開発諸国は生産性について飛躍を成し遂げ、その国民所得を増加させている。技術の収束のプロセスは貿易の為の国境の開放によって促進されてもいるだろうが、根本的にはそれは市場メカニズムではなく、優れた公共財である知識の伝播と共有のプロセスである。

純粋に理論的見地からは、より平等な方へと働く他の力も存在しうる。たとえば、時間が経つとともに生産技術が労働者の側のより高度なスキルを必要としてゆき、資本側のシェアが低下して所得における労働のシャアが上昇してゆくとか。これを「人的資本増加仮説」とでも呼んでおこうか。言い換えると、技術の合理性の進展が、金融資本や不動産に対する人的資本の勝利へ、太った株主に対する有能な経営者の勝利へ、縁故に対するスキルの勝利へ自動的につながるだろうということだ。そうならば、不平等はより能力主義的でより動的になるだろう(低下するとは限らないが)。その場合、経済的合理性がある意味、自動的に民主的合理性へとつながるわけだ。

他の楽観的な、そして今のところ流行りとなっているのが、近年の平均余命の伸びによって、対立が「階級闘争」から自動的に「世代間闘争」(比べると対立は激しくないとされる。誰もが最初若いがやがて年寄りになるので)へと変化するというものだ。言い換えると、避けられない生物学的事実によって、もはや富の蓄積と分配が、不労所得者たちと労働力以外なにも持たない者たちの間の避けがたい対決を意味するものではなくなるとされる。この闘争を決定するロジックは、ライフサイクルにおける貯蓄のそれだ:老後のために、人々は若い時に富を貯める。生活環境の向上と共に医学の進歩によって、資本のその本質を完全に変更してしまったと、そう主張されている。

不運なことに、こういった二つの楽観的な考え(人的資本仮説と、階級闘争と世代対立の置き換え)は大部分、幻想だ。こういった変化はどちらも論理的には可能だし、ある程度は実際に起こっている。しかしその影響力は想像されているよりもずっと小さい。長期的には国民所得における労働のシェアが大きく上昇したという証拠はほとんどないのだ。「非人的」資本は21世紀においても18世紀や19世紀とほとんど同様に不可欠なものであるようだ。そして更にそうなることはないとする理由はない。そしてまた、過去と同様現在でも、富の不平等はまず第一に各年齢コーホートの中に存在していて、相続された富が21世紀の初めにおいても、バルザックゴリオ爺さんの時代に近い重要さを持っている。長い期間に渡って、より平等へと向かう主要な力は知識とスキルの伝播であったのだ。

収束の力、発散の力

決定的な事実は、知識とスキルの伝播がどれほど強力であろうとも、とくに各国間での収束の促進についてはそうであったとしても、それは逆方向へ、より高い不平等へと向かう強力な力によって妨げられ、圧倒されもするということだ。訓練への十分な投資が欠けていれば、経済成長の恩恵から社会的グループ全体が排除されえるのは自明だろう。成長はあるグループに利益を与えつつ、別のグループを害しえる(中国の労働者による先進諸国の労働者の近年の置き換えを考えればいい)。要するに、収束への第一の力、知識の伝播は部分的にしか自然にはおこらず、自生的ではない。教育政策、訓練や適切なスキルの習得、そしてその為の機関へのアクセスにも大きく依存しているのだ。

この研究においてわたしは発散についてのとある心配な傾向に特に注意を払っていく。特に心配というのはそれが、スキルへの適切な投資が行われ、(経済学者が理解している意味での)「市場の効率性」の全ての条件が満たされているように見えても、存在しうるものだからだ。この発散の力とはなにか?それはまず第一に、高額所得者たちがその他の人達から素早く、大きく自分たちを引き離す事が出来るという事だ(現在までのところ、この問題は比較的ローカルにとどまっているが)。より重要なのは、成長率が低く、資本の収益率が高い時には、富の蓄積と集中のプロセスに関係した一群の発散の力があることだ。この第二のプロセスは潜在的には第一のそれよりもより不安定を促進しうるし、疑いなく長期にわたる富の平等な分配への主要な脅威をなしている。

この問題の中心に切り込むために、図I.1と図I.2を見てみよう。それらはわたしが以下で説明する二つの基本パターンを見せており、それぞれが発散のプロセスの重要性を示している。両方とも「U字カーブ」を描いている。つまり、不平等が低下した期間の後に上昇した期間が続いていたことを示している。この二つの図はどちらも同じことを表していると思われるかも知れない。しかし実は違うものを示している。これらのカーブのもとにある事象は全く違っており、異なった経済的、社会的そして政治的プロセスが関わっている。更に、図I.1のカーブは合衆国の所得不平等を表しているが、図I.2のカーブはいくつかのヨーロッパ諸国の資本/所得比率を示している(日本は示されていないが、同様である)。21世紀において、発散の二つの力が究極的には一緒になるだろうというのは疑問の余地がない。これはすでにある程度起こっており、まだ世界的な現象とはなっていないようだが、劇的に新しい不平等の構造へ、そしてかつてないほどの不平等のレベルへとつながるかもしれない。しかしながらこれまでのところ、こういった顕著なパターンは二つの異なる根本的な事象を反映している。

I.1に示されているアメリカのカーブは1910年から2010年のアメリカの国民所得の所得階層のなかでのトップの十分位のシェアを示している。これはクズネッツが1913年から1948年までの期間について作り出した歴史シリーズの拡張以外の何物でもない。トップの十分位は1940年代の終わりに30-35パーセントへ低下するまで、1910年代-1920年代には国民所得45-50%に至るまでを得ていた。その後、1950年から1970年まで不平等はそのレベルで安定していた。その後の1980年代に不平等は急速に上昇して、2000年までにはそのレベルは国民所得45-50%の範囲まで戻ってしまった。この変化の程度は強烈だ。この傾向がどこまで続くのかと問うのは自然な事だろう。

 

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     図I.1  1910年から2010年の合衆国の所得不平等

アメリカの国民所得における最上位10分位階層のシェアは1910年代から1920年代の45-50%から1950年代の35%以下へと低下した(これはクズネッツが記述した低下だ)。その後、1970年代の35%以下から2000年代-2010年代の45-50%へと上昇。
出典:http://piketty.pse.ens.fr/fr/capital21c

この不平等の派手な上昇は大部分、労働からの高額所得の前例のない急拡大、つまり大企業のトップ経営陣がその他の人口から本当に切り離されていることが反映している事を私は明らかにしてゆく。これの可能な説明の一つは、そういったトップ経営陣のスキルと生産性が、その他の労働者と比べて急激に上昇したというものだ。また別の説明は、そしてこれはわたしにはよりありそうで、そして証拠ともずっと整合的なものなのだが、トップ経営陣は概してかれら自身の報酬を決める力を持っており、それも時には限界もなく、そして多くの場合かれらの生産性とは明らかな関係はなしに。まあ、大組織において個人の生産性は計測の非常に難しいものだが。この事象は主に合衆国で、そしてある程度イギリスで見られるが、これは前世紀におけるこの二つの国々の社会と国家財政の規範の歴史に基づいて説明する事も可能だろう。この傾向は他の豊かな国々(日本、ドイツ、フランス、そしてヨーロッパのその他の国々のような)においてはそれほど強くはないが、しかし同じ方向に向かっている。この事象がアメリカ同様、他の場所においても同じだけの効果を持つと予想するのは、それを完全な分析に供するまでは早計だ。利用可能なデータの限界からすると、この分析は残念がらそう簡単ではない。

発散への根本的力: r> g

I.2に表されている第二のパターンは、ある点でより単純かつより透明性があるが、疑いもなく富の分布の長期的な変遷により大きな影響力をふるっている。図I.2は、イギリス、フランス、そしてドイツにおける私的富の総額を、1870年から2010年に渡って国民所得何年分かの単位で表している。まず第一に、19世紀末のヨーロッパにおける私的富の非常に高いレベルに注目してもらいたい。私的富の総額は国民所得67年分という大きなレベルのあたりで上下している。そして1914-1945年の期間中のショックに反応して急激に低下している:資本/所得比率はたった23へと減少した。その後、1950年以降は休みなく上昇している。この上昇はあまりに急激なもので、21世紀初めの私的資産はイギリスとフランスの両方で国民所得56年分あたりまで戻ってきているようだ(より低いレベルからスタートしたドイツの私的富はより低いレベルだが、上昇トレンドは同様に明らかだ。)

この「U字カーブ」は絶対的に重要な変化を映したものであり、この研究で重要な役割を果たすことになる。特に、過去数十年での高い資本/所得比率の回復は、比較的低成長なレジームへと戻った事によって大部分説明可能である。低成長の経済においては、過去の富は不釣り合いなほどの重要性を自然に持つことになる。富のストックを着実かつ多きく増加させるのには、少しばかりの新しい貯蓄だけで良いからだ。

さらにもし、資本の収益率がかなり長い期間にわたって成長率よりもはるかに高いままであったなら(これは成長率が低い時にはかなりありそうだが、自動的にそうなるというわけではない)、富の分配における発散のリスクがとても高くなる。

この根本的な不平等がこの本において決定的な役割をはたす。この状況をわたしはr>wと書いていく(rは利益、配当、利子、地代、その他の資本からの所得を資本の総価値に対するパーセンテージとして表した資本の平均年率収益率のことで、gは経済の成長率、つまり所得あるいは産出の年率での増加率のことだ)。ある意味で、これがわたしの結論のロジックを要約している。

 

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   図I.2 1870年から2010年までのヨーロッパにおける資本/所得比率
私的富のは、1910年のヨーロッパでは国民所得の約67年分であったが、1950年には2年と3年分の間で、2010年には4年と6年分の間だった。
出典:http://piketty.pse.ens.fr/en/capital21c

資本の収益率が大きく経済の成長率を上回っている時(19世紀までの歴史の大半と、21世紀も再びそうなりそうだ)、相続された富は産出や資産よりも早く増加することが論理的に出てくる。富を相続した人々は、その資本を経済全体よりも早く増加させるのには資本からの所得のほんの一部を貯蓄するだけでだけでよい。そういった条件においては、相続された富が生涯労働から集められた富をはるかに上回り、そして資本の集中が極度に高いレベル、つまり現代の民主的社会において本質的な能力主義的価値や社会正義の原則とは潜在的にそぐわないレベルに達するのはほとんど不可避だ。

さらに、この発散への基本的な力はその他のメカニズムによっても強化されえる。たとえば、貯蓄率は富と共に急速に上昇するかもしれない。あるいは、さらに重要なことだが、資本の平均実効収益率は、各人の初期資本の量が多いほど高いかもしれない(これはますます一般的になってきているように思われる)。資本の収益が予測不能かつ気まぐれであり、よって富は様々な方法で増加されうるという事実もまた、能力主義的なモデルへのチャレンジとなる。最後に、こういった要因全てがリカードの希少性原理によって強化されえる:不動産、あるいは石油の高価格は構造的な発散に寄与しうる。

これまで述べてきた事をまとめると、富が集積され分配されるプロセスには発散へむけての、つまり不平等の極端に高いレベルへむけての強力な力が含まれている。収束への力もむろん存在している。そして特定の国、特定の時においては、そちらが勝ちもする。しかし発散の力はどういう状況であってもより優勢となりうるし、21世紀初めの今、まさにそうなっているように思われる。これからの数十年、人口と経済両方の成長率は低下しそうだが、この低下がこの趨勢をさらに不安なものにさせる。

わたしの結論は、マルクスの無限蓄積と永続的な発散(これはマルクスの理論が長期的には生産性成長率がゼロであるという仮定に暗黙裡に基づいているからだ)から示唆されるものほどは黙示録的ではない。わたしが提案するモデルにおいては、発散は永続的なものではないし、そもそも富の分配についての可能な未来のうちのただの一つでしかない。しかしその可能性自体は心穏やかなものではない。特に、根本的なr>gの不平等、つまりわたしの理論における発散への主要な力はどんな市場の不完全性とも関係がないのだ。その真逆である:資本市場が(経済学者の考える意味で)より完全に近いほど、rはgよりも高くなりうる。この無常なるロジックの効果に対抗するような公的な制度や政策を考える事はできる:たとえば、資本への累進的かつ世界全体での税だ。しかしそういった期間や政策を実現するのは相当の国際的な協調を必要とする。残念ながらこの問題への、様々なナショナリスト的なものまで含めた現実の反応は、ずっと地味で効果の薄いものとなるだろう。

この研究の地域的、歴史的境界

理論的、概念的フレームワーク

先へ進む前に、この研究の理論的、概念的フレームワークについてと、そしてわたしにこの本を書かせた知的旅程について少しばかり書いておいた方がいいだろう。

わたしは1989年に18歳を迎えた世代に属する。これはフランス革命200周年記念であるだけでなく、ベルリンの壁が崩れた年でもある。わたしは共産主義の独裁が瓦解したニュースを聞きながら大人になった世代に属しており、ソビエト連邦の体制にどんなわずかな思い入れもノスタルジアも感じた事はない。共産主義の失敗の歴史を単純に無視するだとか、更にはその先に行くために必要な知的道具に背をむけるという普通によく見られる反資本主義のありがちだが勉強不足のレトリックに対する生涯の予防接種は済ませている。不平等や資本主義をそれだけが故に糾弾することには興味がない。とくに、社会的不平等も正当化しうるものである限り、つまり1789年の人及び市民の権利宣言の第一条にあるように「公共の利益にだけ基づいた」ものなのならば、それ自体として問題ではないのだから。(この社会正義の定義は不完全ながらも魅力的だが、それには歴史的な理由がある。今のところはそのまま受け入れておこう。後で、この点に戻ってくる。)それとは違って、社会を組織する最上の方法についてや、正しい社会秩序を実現するもっとも適切な組織と政策はどういうものであるかについての議論に、たとえわずかであろうとも貢献する事には興味を持っている。更にわたしは、全ての者に等しく適用され、民主的議論にさらされた普遍的に理解される法律から導かれた法の支配のもとで効果的かつ効率的に正義が実現されるのを見てみたい。

わたしが21歳でアメリカンドリームを経験したこともおそらく付け加えておくべきだろう。その時、博士号を取得してすぐにボストン近くの大学*5に採用された。この経験はいくつもの点で決定的なものとなった。それは私がアメリカに足を踏み入れた最初の時であり、そんなにも早く自分の研究が認められるのは良い気分だった。欲しい時にはどう移民を惹きつけるかを良く知った国ということだ!しかし、私はすぐにフランスへ、ヨーロッパへと帰りたくもなり、25歳でわたしはそうする事になった。それ以来、私は、いくつかの短い旅行を除いてパリを離れたことはない。わたしの決断のための重要な理由の一つが、この本に直接の関係をもっている:わたしはアメリカの経済学者たちの研究にどうにも納得がいかなったのだ。確かに、かれらはみんな非常に知的だったし、そしてわたしには今でもその時期からの多くの友達がいる。しかしなにかおかしな事が起こったのだ。私はこの世界の経済問題について何も知らないという事がどうにも気になるようになっていた。わたしの博士論文はいくつからの比較的抽象的な数学的定理からなっていた。しかし、学会はわたしの研究を気に入ってくれた。そして、クズネッツ以来、不平等の動態についての歴史データを集める為の大きな努力が払われた事がなかった事、しかし学会は、説明を要している事実とはなにかすら知らないままに純粋に理論的な成果を挙げつづけていることにすぐに気がついた。そしてわたしもそうする事が求められている事を。わたしがフランスに戻った時、わたしは欠けているデータの収集に取り組みだした。

率直に言って、経済学という学問は、歴史の研究とその他の社会科学分野との協力を犠牲にた、数学と純粋に理論的でしばしば非常にイデオロギー的な思索への情熱をいまだに捨てられていない。経済学者は自分たちにしか興味を持っていない些細な数学的問題にあまりにしばしば取りつかれてしまっている。この数学への執着は、我々が住む世界が提出してくるずっと厄介な問題を答えることなしに科学的な装いを身につけるための簡単な方法なのだ。フランスでアカデミックな経済学者でいることには、ある大きな利点がある:ここでは経済学者はアカデミックのそしてインテレクチュアルの世界においてや、政治や金融のエリート層から高く尊敬されたりしていないのだ。よってかれらは、何についてもろくに知ってはいないという事実にも関わらず、他の学問を軽蔑したりだとか、高い科学的正当性を持っているというバカげた主張をしたりだとかは出来ない。だがなんであれこの無知はこの学問の、そして社会科学一般の魅力ではないか:基礎から第一歩を踏み出せばいいのだ、いつか大きな前進を成し遂げる希望を持ちながら。わたしが考えるに、フランスにおいては経済学者は歴史学者社会学者、そしてアカデミズムの外の人達に、自分たちがやっている事は興味深いことなんだと説得する事にもう少しばかり関心を持っている(必ずしも成功しているわけではないが)。ボストンで教えていた時のわたしの夢は、社会科学高等研究院で教える事だった。その教員にはほんの数名を挙げるだけでもこれまで、リュシアン・フェーヴル、フェルナン・ブローデルクロード・レヴィ=ストロースピエール・ブルデューFrançoise HéritierMaurice Godelierなどがいた。社会科学について、愛国主義的すぎてしまうリスクを冒すが、言ってしまおうか。たぶん、わたしはこの学究者たちをロバート・ソローや、さらにはサイモン・クズネッツよりも崇めている。1970年代から、社会科学は富の分配と社会的階級の疑問への興味を大半失ってきたという事実は残念なのだが。それ以前は、所得、賃金、価格、そして富についての統計は歴史と社会学の研究において重要な役割を果たしていたのに。まあなんであれ、わたしはこの本に何か興味深い事を職業社会科学者とすべての分野のアマチュアたちの両方が見出してくれることを望んでいる。「経済学については何も知らない」と認めるが、しかしながら当然なことにそれでも所得と富の不平等についてとてもハッキリした意見を持っている人たちから。

経済学は他の社会科学から離婚しようとするべきではなかったし、それらと一緒にやって行く事によってのみ前進する事ができる。それが真実だ。学問間の愚かな言い争いで時間を無駄にするには、社会科学は全体としてものを知らなすぎる。富の分配と社会階級の構造の歴史的な動態の理解について前進するには、われわれは明らかにプラグマティックなアプローチを取らなければならないし、経済学者のものだけでなく、歴史学者社会学者、政治学者の手法も利用しなければならない。基礎的な疑問から始めて、これを答えていくべきだ。学問間の諍いや縄張り争いはほとんど、あるいはまったく重要ではない。わたしの心の中では、この本は経済学の研究であるのと同じくらい歴史の研究でもある。

すでに説明したように、わたしはこの研究を所得と富の分配にかんしての情報源を集めて歴史のデータを作り上げることから始めた。本の中で、何度かわたしは理論と、抽象的モデルや概念を利用する事になる。しかしほんの時折にだけ、それも理論がわれわれの目撃している変化についての理解を助けるときにだけそうするようにする。たとえば、所得、資本、経済成長率、そして資本の収益率は抽象的な概念だ。数字としてなにかの実体があるわけではなく、理論的な構築物である。しかし、われわれがしっかりとこういったものの計測の危うさについて見定められるなら、こうゆう概念が歴史の事実を興味深いやり方でわれわれに分析させてくれることを示してゆく。また私はいくつかの方程式、たとえばα=r×β(これは国民所得の中での資本のシェアが、資本収益率と資本/所得比率の積であると述べている)、あるいはβ=s/g(これは資本/所得比率が、長期的には貯蓄率を成長率で割ったものになると述べている)だとか。数学に精通していない読者には辛抱強くなってもらいたい、すぐさま本を閉じたりはしないでほしいとお願いしておく:これらは基本的な方程式であり、簡単で直感的な方法で説明できるし、特別の専門的知識なしで理解できるものなのだ。そして何より、この最小限の理論的フレームワークが、誰もが重要な歴史的展開と認めるものについてのはっきりとした説明を与えるのに十分であることを示そうとしてゆくので。

 

この本のアウトライン

           前半部分

 

最後の言葉を述べておく。1913年に「20世紀の資本」と題した本を出版するのは随分と傲慢な事だっただろう。わたしとしては、フランス語版が2013年に、英語版が2014年に出たこの本に「21世紀の資本」というタイトルをつけることを読者に大目に見てもらえるようお願いするだけだ。2063年あるいは2113年に資本がどういった形態をとるか予言する事がわたしには全く出来ないという事は分かりすぎるくらいわかっている。既に述べたように、そしてこれからも何度も示していくように、所得と富の歴史は常に深く政治的、カオス的、そして予言不可能なものなのだ。この歴史がどのように展開するかは社会が不平等をどのようにとらえて、それを測り、変えていくのにどういった政策と制度をとるかに依存する。これからの数十年においてこれらがどのようになっていくのかを見通せるものは誰もいない。それでも、歴史の教訓は有益だ。なぜならこれからの世紀においてどういった選択にわれわれが直面し、どういったダイナミクスが働いているのかを少しだけはっきりと見分ける助けとなってくれるからだ。論理的にいえば「21世紀の夜明けにおける資本」というタイトルになるべきだったこの本の唯一の目的は、派手なものではなかろうとも未来へのいくつかの鍵を過去から導き出すこと、だ。歴史は常に新しい道筋を発明してゆくのだから、過去からのこういった教訓の有用性は実際のところ分からない。その重要性がどの程度のものか知ったふりはせずに、わたしはそれを読者に提供しよう。

*1:と書いてますが、まあ出版されて少し経ったので、流石にちょっと落ち着いているかなとは思いますが。

*2:訳中:当然、アダム・スミスの事でしょう。

*3:この箇所、"by département"と英語訳文のなかにフランス語原文が残っており、おそらくdépartementは県の意味だろうと想像して訳しましたが、完全にあてずっぽです。

*4:1910年代。

*5:MITだそうです。