江戸幕府が米国政府と日米和親条約を結び、鎖国体制を解いた百六十年前、同様の条約を米国と結んだ国があります。当時の琉球王国、今の沖縄県です。
その条約は「亜米利加合衆国琉球王国政府トノ定約」です。一八五四年七月十一日、米海軍東インド艦隊のマシュー・ペリー提督と琉球国中山府総理大臣・尚宏勲、布政大夫・馬良才との間で結ばれました。
七条からなり、米国船への薪(まき)、水の供給や遭難船の救助、米国の領事裁判権を認める、米国人墓地の保護など、その内容から「琉米修好条約」と呼ばれています。
独立国の体裁を保つ
琉球王国は同様の修好条約を翌五五年にはフランスと、五九年にはオランダと、それぞれ結びました。三条約の原本は東京にある外交史料館で保管されています。
琉米修好条約は日本に現存する最古の条約原本です。この条約の約三カ月前に締結された日米和親条約の原本が幕末期、江戸城の火災で焼失したためです。
当時の琉球王国は十七世紀初めに侵攻した薩摩藩島津氏の統治下に置かれる一方、中国(明、清)との朝貢関係も維持する「両属」体制でしたが、独立国としての体裁は保っていました。
だからこそ欧米の列強各国は、琉球王国を「国際法上の主体」として認め、条約を結ぶことで、琉球の地を東アジア進出の足掛かりとしたかったのでしょう。
しかし、この「史実」は沖縄県内を除くと、あまり知られていないようです。高校の日本史教科書に沖縄の歴史に関する記述は乏しく、ほとんど学ばないからです。
沖縄は今や、日本国の重要な一部を構成していますが、近世まで独立国だった史実は無視し得ません。本土の価値観で日本史を塗りつぶしてはならないはずです。
明治以降数々の苦難
振り返れば沖縄は、明治以降、苦難の歴史をたどりました。
琉球処分と称する強圧的な王国制度解体と沖縄県設置に始まり、太平洋戦争では住民を巻き込んで大規模な地上戦が行われ、大きな犠牲を出しました。県土は焦土と化し、約六十万県民の四分の一が亡くなったといわれます。
戦後は日本から切り離され、苛烈な米軍政下に置かれました。貴重な土地を基地建設のために「銃剣とブルドーザー」で接収されるなど、日本国憲法が保障する基本的人権とは無縁の日々でした。
一九七二年に施政権が日本政府に返還された後も、在日米軍基地の約74%が沖縄県に残ったままです。訓練に伴う事故や騒音、米兵の事件・事故、米軍の戦争に加担する精神的重圧など、県民は重い基地負担に苦しんでいます。
沖縄は日本に「統合」されましたが、国民主権、平和主義、基本的人権の尊重など、当然、実現されるべき日本国憲法の理念とは程遠い現実が、いまだ沖縄を覆っているのです。日本であって日本でないと、言うべきでしょうか。
沖縄で今年、最も大きな政治課題は、宜野湾市の普天間飛行場を拠点とする米海兵隊部隊を、名護市辺野古沿岸部に新設する施設に移す「県内移設」問題であり、今年十二月九日の任期満了に伴って行われる予定の県知事選でも、大きな争点となるでしょう。
かつて民主党の鳩山由紀夫首相は県民の負担軽減のため県外・国外移設を掲げましたが、実現できず、退陣に追い込まれました。
その後、日本政府は基地負担軽減を求める沖縄県民の望みを踏みにじるかのように、県内移設の手続きを進めています。
特に、再び政権に就いた安倍晋三首相率いる自民党内閣では顕著です。
政府は、来年に予定していた辺野古沿岸部での新施設着工を、知事選前に前倒しすることも検討しているようです。反対派が当選しようとも、県内移設を既成事実化する狙いなのでしょう。
しかし、政府が本来、力を注ぐべきは、沖縄県民の人権を守り、基地負担を軽減することにほかなりません。日米安全保障体制が日本と極東地域の平和と安全に欠かせないのなら、その基地負担は国民全体が分かち合うべきです。一地域に過重に押し付ける「構造的差別」は許されません。
憲法理念の実現こそ
五月十五日は沖縄にとって、日本に復帰してから四十二年の記念日ですが、沖縄の地で日本国憲法の理念が完全に実現されてこそ、本当の復帰といえるでしょう。
かつて独立国として国際的に認められていた琉球の歴史と、明治以降、沖縄の人々が強いられた数々の苦難、そして、今も日常生活を脅かす米軍基地という現実。
そうした過去と現実をしっかり見つめることが、同じ日本国民として、沖縄の未来を考えるきっかけになると思うのです。
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