May 15, 2014

『神は妄想である』書評(昔書いたもの)

(リクエストがあったので、かつて『日経サイエンス』に掲載したドーキンス『神は妄想である』書評の長いバージョンを以下に再掲します。途中[  ] でくくってあるところは字数制限のため掲載バージョンではカットした部分です。初出:『日経サイエンス』2007年9月号、110ページ)

神は妄想である―宗教との決別
リチャード・ドーキンス
早川書房
2007-05-25



神について聞かれた科学者の多くは「神がいるかどうかは科学の扱う領域ではない」と答えるだろう。実際、宗教との軋轢をさけるにはうまい答え方だ。しかし本当に神は科学で扱えない問題なのだろうか。

本書でリチャード・ドーキンスはあえて一歩を踏み出し、科学的な仮説としての「神仮説」を検討する。この宇宙の事実についての主張である以上、神仮説からも 予測できることがいろいろある。そうした予測がはずれているとか、もっとよい説明ができるとかが示せるなら、神仮説は放棄されるべきだ。つまり、たとえば 「トップクォーク」の存在についての仮説を扱うときの科学のやり方を「神」にもあてはめようとドーキンスは言うわけである。

こうしてドーキンスは神学・哲学・科学にまたがるさまざまな議論や証拠を本書前半で検討するが、その論述の徹底ぶりは一見の価値があるので、ぜひ本書を手に取って確認されたい。その結果、ドーキンスは有神論や不可知論を退けて、無神論が一番合理的な立場だと結論する。

[神が存在するという論証の代表は、この宇宙の合目的性や複雑さからいって設計者がいないとおかしい、と推定するという「目的論的論証」である。しかしドーキ ンスは、この論証は、そもそもこの宇宙よりも合目的的で複雑であるに違いない設計者(神)自身はどこから来たのか、というもっとやっかいな問題を生むだけだと言う。また、根拠がなくても神の存在を認める(少なくともそう考える人を尊重する)べきだというなら、「太陽を公転するティーポット」(ラッセルの思 考実験に由来する)あるいは最近ID説批判で考案された「空飛ぶスパゲティモンスター」などのばかばかしい存在も認めなくては ならない。さらに、神がいることにしておいた方が人々が道徳的に振る舞う、という考え方もあるが、道徳の進化論的起源や聖書の内容を検討すれば道徳と宗教には本当は関係はあまりない。以上がドーキンスの主張の概略である。]

本書がうまれた背景としては、創造論や知的設計論(ID論)を学校で教えようという動きに対して、ドーキンスら生物学者が反撃せざるをえなかったという英米の社会情勢がある。ただ、ID論に反対するだけなら、宗教が科学の装いをとることにだけ反対すればよく、宗教そのものに反対する必要はない。スティーヴン・グールドをはじめ、科学と宗教の相互不干渉を主張する論者はこの立場を取る。しかしドーキンスにはそこでとどまるべきではないという危機感がある。本書後半においてドーキンスは宗教的 なテロリズムや児童虐待を告発し、そうした不幸を生み出す宗教という営みそのものの批判に向かう。不可知論を乗り越えて神仮説に科学のメスを入れるのもその準備作業なのである。

キリスト教やID論と縁の薄い日本人には本書は遠い国の問題を扱っているように思えるかもしれない。しかし「訳者あとがき」で訳者も指摘するように、科学では扱えない独立の 領域として占いやオカルトを信じて尊重する発想は、日本にも存在する。これは相互不干渉主義の日本版だといえるだろう。ドーキンス流に考えるなら、占いや オカルトもこの世界についての主張である以上、科学的に検討可能である。検討の結果はおそらく否定的なものになるだろう。さらに、そうした主張を信じるこ とが全体としてこの世に不幸をもたらしているのなら、われわれはそうしたものに対して相互不干渉より積極的な態度をとるべきだということになろう。つま り、ドーキンスの議論の構造をどう評価するかは日本の我々にも大きく影響するのである。

実のところ、ドーキンスの議論には反論の余地がいろいろある。たとえば、神仮説のような基本的な仮説が直接反証されることがあるというのは現代の科学哲学の常識に反している(神仮説に基づくパラダイムが現在非常に非生産的だということは言えるであろうが)。また、科学というゲームのルール(科学的方法論)を みんな受け入れるべきだと彼が安易に仮定しているらしいことや、価値観の多様性を軽視しているように見える点も批判のポイントとなるだろう。

[もう一歩踏み込んでドーキンスに反論してみよう。ドーキンスは信念の真偽の問題と信念の正当化の問題を同一視しているきらいがあることが挙げられる。神仮説とは別の例で考えてみよう。名前の画数が運勢に影響するか否かは(「運勢」などの言葉の意味さえきちんと確定すれば)二つに一つである。しかし、そうした影響があるという信念の正当化は、どういう観点から評価するか、という文脈に影響を受ける。科学の文脈では調査をして一定の結果が出れば十分正当化されう るが、そもそも因果関係なんてないかもしれないという哲学的考察文脈ではそうした調査も十分ではない。

文脈によって、誰に何に関する立証責任があるのか、どのくらいの証拠や議論を出せば十分その責任を果たしたことになるのか、は異なってくるから、ある人がある信念を持っていることが正当化されるかどうかは、判定の文脈によって違いうる(認識論で文脈主義と呼ばれる考え方はこうした文脈性を重視する考え方の代表である)。哲学の世界で絶対に解けない難問となっている「デカルトのデーモン」の懐疑に日常生活で悩まされなくてすむのも哲学と日常生活の文脈の差のおかげである。

哲学と日常生活の間にあるそうした文脈のギャップが、宗教と科学の間にも、もう少しはっきり言えば「神は存在する」という信念についても言えるのではないか。科学的文脈では「神仮説」をベースとする予測と「無神仮説」をベースとする予測を比較して、両者の予測が食い違う状況を作り、どちらの予測が正しかったかを調べる、というドーキンスの提案するようなやり方がとれるだろう。しかし、宗教的文脈では、たとえば無神仮説の側に一方的に重い立証責任があるかもしれない(日常生活において、「世界はデカルトのデーモンが見せる妄想である」という主張の側に一方的に立証責任があって、「世界は存在する」という側にはデーモン仮説を論駁する責任がないのと同様に)。この文脈においては、「神仮説」をとるか 「無神仮説」をとるかの判断は、科学的文脈とは全く異なった結論になりうるだろう。この文脈の違いは、さらにさかのぼれば、人生には科学的な真実よりももっと大事なことがあるという価値観に支えられているかもしれない。そういう価値観が不合理だと示すのは科学そのものにはできないことであり、倫理学的な議論が必要になってくるだろう。ドーキンスの科学主義には、そうした文脈の違い、文脈の違いを支える価値観の違いへの想像力が欠けているように見える。]

しかし、本書のような論争的な書物においては、反論する隙を見せつつ相手を議論に引き込むのは定石である。そうした「隙」の部分も含めて本書は優良な論争書と呼べるのではないだろうか。

この邦訳を機に、科学と宗教やオカルトの相互関係という問題について日本でも議論が深まることを願う。

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おまけ。かつてウェブ日記で公開していた『神は妄想である』読書メモ。

-存在すると考える理由がないものに対する不可知論や、あるいはそうしたものが存在すると考える人を尊重するという態度について、ドーキンスは 「太陽を公転するティーポット」や「空飛ぶスパゲティモンスター」にも同じ 態度をとるつもりか、と論じる。(邦訳pp. 81-85)これは巧妙な議論だが、 しかしもし本気でティーポット教やFSM教を信じているコミュニティが存在したとしたら、われわれのティーポットやFSMに対する態度も変わるのではないだろうか? ティーポット教徒やFSM教徒の信念を尊重して、公的な場ではティーポットに対する不可知論を表明するようになるのではないだろうか。

-NOMAに対するドーキンスの批判は話を単純化しすぎ。 「もしそれが本当に科学の領分を超えたところにあるならば、それが神学者の領分を超えたところにあることもほとんど確実である」(p.88) というが、神学者は神学者なりの文脈で問題をとらえているわけだから 神学の文脈の問いに対してどういう答えが適切かを誰よりも知っているという意味では まさに神学者の領分であるはず。もちろん、世間一般の人がどういう価値観や 形而上学を持つべきかというのはまた別の問題。

-同じくNOMAとの関連で、「超自然的な知能を備えた創造主を持つ宇宙が、 それを持たない宇宙と非常に異なった種類のものであることだけは認めるべきである。」 (邦訳p.92)とドーキンスは言う。しかし、神が存在するという 仮説の帰結を科学的に検証できるということを認めたとしても、 「神が存在する」という信念の正当化がつねにその基準でなされなくては ならないということにはならない。正当化の基準は文脈によって違いうるし、 NOMAが問題にしているのも正当化の基準の方のはずである。 同一人物が科学的文脈では「神がいない」と信じ、宗教的文脈では 「神がいる」と信じ、しかもその両方がそれぞれの文脈で正当化されている、 ということはありうるだろう。

-第四章の結論は不可解。第四章でドーキンスが示したのは、目的論的論証をささえる根拠となっていた合目的性、複雑性、fine tuning、スウィンバーンの指摘するような宇宙の規則性などなどについて、ダーウィン流の対案があるということと、 この世界自体よりも複雑ないし合目的的な神という存在を持ち出しても合目的性や 複雑性は説明できたことにならない(神はどうやって生じたかというもっとめんどうな問題を抱え込むだけだ)ということ。これだけから「神はほぼまちがいなく存在しない」 (邦訳p.236)などという結論が出るはずがない。せいぜい「神が存在するという証拠としてこれまで挙げられてきたものは証拠になっていない」程度。

-第五章で宗教についてはミームとしての分析をしているのに第六章で道徳については ミームとしての分析をしていない。しかし、これは宗教と道徳の差を実際以上に きわだだせようという意図があるように見える。 というのも、互酬性を超えた普遍化可能性の性質を持つ 倫理はミームの要素があるように思える。そして、宗教ミームパッケージの中に 「普遍化可能なものとしての倫理」ミームも潜り込んでいたからこそ 広まったのではないだろうか。

-「わたしたちが道徳的であるために神を必要とするというのがたとえ真実であったとしても、それで神が存在する可能性がより高くなるわけではなく、単により 望ましくなるだけのことにすぎない(多くの人はこの違いがわからない)。」(邦訳 p.337)まだ原文で確認していないが、これはちょっと誹謗のきらいがある。 「神が存在すると信じる」ことの理由は「神が存在する可能性が高い」という信念 ばかりではない。「多くのひと」は 「わたしたちが道徳的であるために神を必要とする」という命題によって 「神が存在する可能性が高くなる」と言っているのではなく、 「その命題は神が存在すると信じる一つの理由(非認知的な理由)になる」 と言っていると理解するべきだろう。ドーキンスが科学的文脈以外の文脈を無視 している一つの徴候だろうか。

-第8章や第9章では宗教一般に対する批判が展開されている。 宗教的テロリズムや宗教的児童虐待はない方がいいに決まっているが、 宗教をなくすのがその最善の手段かどうかは考える必要がある。 無神論の代表的なイデオロギーである共産主義もテロやら粛清やら総括やらと いっていろいろな不幸を生んできたが、 だからといって無神論をやめろという話にはならないはず。

-この本の論述では、たまたま前半の科学的分析と後半の倫理的分析の両方が 宗教を否定する方向で一致している。しかし、仮に、科学的な分析の結果、 神仮説が検証され、しかも、その検証された仮説を信じる人たちが他ならぬ 宗教的テロリストになって不幸をまき散らすとしよう。さて、ドーキンスは 科学の立場にたってそのテロリストたちの信念を擁護するのか、それとも 社会的な幸福の立場にたってそのテロリストたちの信念を非難するのか。



iseda503 at 10:45│Comments(0)TrackBack(0)

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