アメリカの人気社会風刺カートゥーン「サウスパーク」に登場するティミーは、重度の知的障がいを抱えたキャラクターだ。
この作品にはかなり過激な表現が多いものの、ティミーに対しては決して障がい者を差別するような描かれ方はしていない。寧ろデリケートな話題の多い作風だからこそ、尊重されて描かれている。なお、作中には、ユダヤ教徒やさまざまな肌の色、社会属性を有するキャラクターが描写されている。
同じくアメリカの青春学園ドラマ「グリー」では、身体障がい者や性的少数派などの登場人物が存在し、彼らの日常や葛藤を描いたりしている。ダウン症の登場人物や役者もいるそうだ。
アメリカやヨーロッパにおけるコンテンツの表現にはノーマライゼーションを進めようとする心がけが強くみられている。おそらく20年前あたりから当たり前になっているのではないだろうか。
肌の色や国籍、性的指向、宗教などが異なるキャラクター同士が和を作品の中で形成していることが一般的だ。ヒマがあればCS放送で「ディズニーチャンネル」や「カートゥーンネットワーク」で海外カートゥーンばかり見たりして育った人間なのでよくわかる。
ところが日本ではどうだろうか、少数派はコンテンツ表現からは排斥される傾向にある。つまるところ「特殊な作風の特殊なキャラクターでないと描かれることがない」わけで、メディアの側の露骨な差別意識がそこには存在しているのだ。
たとえば、長年続いた学園ドラマの「3年B組金八先生」では物語のキーとなる生徒として障がい者や性的少数派が不良生徒などと同列に登場するのが一般的だった。悪いドラマではなかったのだが、「普通の生徒」と「特殊な生徒」は明確に役割が分断されてしまうわけである。
毎シーズンごとに「3年B組は問題児の集まりだ」と言われているのだが、A組やC組に不良が出現することはめったになくマイノリティが他のクラスに居るような描写もない。その上、「マイノリティに不理解な教員や父兄」なんかも登場してしまうわけである。その上、若き日の上戸彩が演じた「鶴本直」のように、マイノリティのキャラクターは尽くシリアスな陰気なシーンにしか登場しない。このドラマがノーマライゼーションに貢献したようには思えないのだ。
それでも、チャリティー的な意図を持ったマイノリティ当事者を主人公としたドラマをのぞけば、定期放送の娯楽作品のドラマにおいてマイノリティの描写が最も多いのがこの「3年B組金八先生」だったから、けっして悪いわけではない。ただ、それですらこのザマだったわけであることが問題なのだ。つまり金八先生の作り手ではなく、日本のマスメディアの体質が諸悪の根源といえよう。
私はごく平均的な首都圏の郊外住宅地の、ごく平均的な公立学校に育った。だが、同じ学年にはマイノリティはいくらでもいた。聴覚障がい者、知的障がい者、肌の色の違う外国人。クリスチャン・・・
つまり、誰もが誰も日本国籍を有する大和民族の生粋の日本人で、異性愛者で、盆正月にだけお寺に参りにやってくる仏教徒で、心身ともに障害を抱えておらず、極端な富裕層でも極端な貧困層でもない、なんてことは絶対にありえないわけだが、日本製のコンテンツの世界では潔癖なまでにマジョリティしか描かれていないのだ。
仮装のマジョリティは実際のマジョリティと矛盾する傾向にあるはずだ。
日本での子ども向けアニメ作品にありがちな家庭環境というと以下のような特徴がある。
・東京郊外のベッドタウン住まい
・お父さんはサラリーマンでお母さんは専業主婦
・長男長女の4人家族
・裕福ではないが貧しくはなく、家庭環境は良好
しかし、これは果たしてほんとうに日本の家庭の多数派なのだろうか?
まず、首都圏の人口は約3000万人いるが、日本人の総人口が1億3000人であることを考えると、そもそも首都圏在住者自体がマイノリティだ。
沖縄県ではサラリーマンは人口100人のうちのわずか21人の割合である。なお沖縄県ではDV発生率と離婚率も高い。
また日本人全体の共働き世帯の割合は2000年代以降専業主婦の家庭を上回っている。長引く不景気で専業主婦であることが難しくなった家庭が増えたほか、男女雇用機会均等が進んだことから仕事と子育てを両立する女性が増えたことも原因にあるだろう。
さらに、子どものいる世帯のうち、「子どもが一人」であるケースは約46.6%であるという。
サラリーマンの平均年収は400万であることを考えると、650万円の年収があるクレヨンしんちゃんの野原ひろしは圧倒的に富裕層なのだ。
子どもアニメの描く家庭像は現実の日本と大きくずれていて、疑似マジョリティの世界となっている。もっというと「バブル期の理想家族」の次元で止まっているのだ。
「サザエさん」や「ちびまる子ちゃん」のようにその作品が発表された時代にあった家庭が描かれ続けた日本のアニメだが、今の日本のアニメは明らかに平均値から逸しており、特に沖縄県民にとってはリアリティの持てない内容になっている。
平成の日本のコンテンツの作り手の中にある社会観が旧態依然であることが問題だと私は思う。
アニメもドラマも「学園もの」がとにかくちやほやされている時代だ。
しかし、ここでもマジョリティ性は重視されすぎる傾向がある。在日フィリピン人のヒロインが出てくることはないし、セクシャルマイノリティや車椅子の子もいない。アスペルガー障がいもいない。日本に帰化したインド人がいるわけでもない。
そもそも学校の枠組み自体が「昭和の公立学校」をベースにしたままである。電子黒板も出てこなければ、パソコン室も出てこない。宇都宮短期大学付属高校のように校舎内にファミリーマートがあるわけでもなければ、広島市立基町高校のように校舎内にエスカレーターやギャラリーがあるわけでもない。佐賀県のようにタブレットを授業に活用した高校が舞台の作品があったらきっと面白いはずだ。授業中にタブレット上でケンカや恋の駆け引きを繰り返す学生たちの描写なんてユニークな内容になろう。しかし、日本各地で学校改革がいくら進んでも、作り手の脳味噌が昭和同然のままだというのがこの国のコンテンツをめぐる悲劇なのである。
私は「クールジャパン」には支持をする立場だ。日本のコンテンツが海外に広まって、日本が進歩的で素晴らしい国であるということが伝わるならとても誇らしいことだ。
しかし、「ㇳモダチコレクション」をめぐる同性婚問題では、AP通信やBBC、CNN、ABC、フォーブス紙、インデペンデント紙、ウォールストリートジャーナル紙、タイム紙などの欧米主要高級メディアが批判をしてもなお、任天堂は立場を改めなかった。日本でもゲイ漫画家の田亀源五郎氏が任天堂を批判するなどしたが、日本の国内メディアはそもそもこの問題を報じておらず、セクシャルマイノリティ当事者やそれに理解のある人たち以外誰も話題にしておらず、「むしろなんでここまで問題になるの?」と思ってでもいるかのような現状がある。ちなみにトモダチコレクションと似たような洋ゲーである「ザ・シムズシリーズ(邦題シムピープル)」は同性婚が可能になっている。
日本社会の実情と大きく逸した昭和の日本時んが理想とするマジョリティだけを描く日本の大衆コンテンツは、この体たらくでは、日本社会の質が乏しいことを内外に示しているも同然であるのだが、クールジャパン政策を掲げる日本政府が、作り手に意識改革を促すような取り組みを何もしない現状があるのだ。
まずは、国営放送NHK辺りがまともなコンテンツ表現に着手するべきだと思うのだが、みなさんはいかがお考えだろうか?