なじみの美容室で髪を切ってもらうのがお気に入りの時間です。
最近何か髪で気になってる事はあります?しのぶさん。
少し目立ってきたから気になるんですよね。
今からやもんな。
まだ若いからねしのぶちゃんは!いつもよかよか!いつもよりいいんだって。
ずっとよか!しのぶさんは水俣病の患者です。
化学工場の排水に含まれた有機水銀が原因で重い障害を持って生まれてきました。
しのぶさんの人生は水俣病患者の闘いの歴史そのものでした。
今日いかなる判決が出ても。
12歳で加害企業を訴えた裁判の原告となり勝訴。
今なお患者たちの先頭に立ち続けています。
闘いに身を投じる中でしのぶさんの胸に少しずつ膨らんできた思いがあります。
「私も鳥になっていろんなところばみてみたいな一人でアパートに住んでみたいな」。
「自分の人生だから自分できちんと考えていきたい」。
水俣病患者である前に一人の女性として生きたいと願うようになりました。
ずっとやりたかった料理。
そして恋。
ちょっと甘いんです。
どうですか?甘い?この春坂本しのぶさんはゆっくりと歩みだしました。
熊本県水俣市。
しのぶさんは波穏やかな漁村で生まれ育ちました。
今は母親弟家族と一緒に暮らしています。
前はこんとに元気かったがな。
89歳の母フジエさんも水俣病患者です。
杉本さんげんみかん山に行ったとが。
水俣病患者のための療養施設もありますがしのぶさんはずっと自宅で暮らしてきました。
身の周りの世話は家族やヘルパーがしてくれますができる事は自分でやろうとしています。
坂本家は水俣で代々漁業を営んできました。
昭和30年ごろから家族は次々と水俣病を発症しました。
しのぶさんの父武義さんは15年前に他界。
姉の真由美さんは4歳でこの世を去りました。
発病する前やもん。
水俣病は化学メーカーチッソが引き起こしました。
工場排水に含まれた有機水銀で海が汚染され魚介類を食べた人が脳や神経を侵されました。
しのぶさんが生まれたのは昭和31年。
発病する人が現れ始めた時期でした。
なかなか歩けるようにならないしのぶさんを母フジエさんはいくつもの病院に連れていきますが原因は分かりませんでした。
しのぶさんが6歳の時胎児性の水俣病だと認められます。
妊娠中にフジエさんの胎内で有機水銀に侵されていたのです。
しのぶさんとフジエさんは110人の患者家族と共にチッソを相手に裁判を起こし勝訴しました。
(拍手)本当にありがとうございました。
(拍手)しのぶさんと同じ頃に生まれた胎児性患者は60人以上ともいわれています。
歩く事も話す事もできない人。
幼くして亡くなった人もいました。
「自分は歩けるし話もできる。
だからほかの患者のためにも闘わなければ」。
しのぶさんはそう思うようになりました。
しのぶさんたちが勝訴したあと多くの人たちが補償を求めて裁判を起こしました。
しのぶさんは患者たちの先頭に立ち加害企業や行政に激しい怒りをぶつけてきました。
「私たちの気持ちを全然わかっとらん。
あんたたちはバカにしている」。
闘いの一方でしのぶさんが願い続けてきた事があります。
「一人の女性として人生を楽しみたい」。
しのぶさんが二十歳の時の映像です。
同世代の患者たちと集まっては不安や夢を語り合っていました。
しのぶさんはずっと「自分も働きたい」「生きがいが欲しい」と思ってきました。
しかしなかなか仕事に就く事はできませんでした。
57歳になった今しのぶさんは自分の人生を振り返りまだやり残した事があると感じています。
でもこれだけ今まで…。
自分の事…。
この春からしのぶさんは水俣病患者が生活訓練をできる施設に通い始めました。
自分の手で料理をしてみたいとしのぶさん自ら言いだしました。
20代の時から30年近くしまいっ放しになっていたエプロン。
これまで料理をしてみたいと思いながらうまくできないからと台所に立つ事は遠慮していました。
この日作る事にしたのは母フジエさんが得意だっただんご汁です。
形はどうでもいいから。
今はまだヘルパーの助けが必要ですが少しずつ練習していくつもりです。
どんなですか?味は。
おいしい。
おいしい?フフフ。
よかった。
よかった。
おいしい。
懐かしい。
いつかは自分で作った料理を友達に振る舞ってあげたいと思っています。
あった!しのぶさんがよく電話をかける相手がいます。
新聞記者の…3年前から水俣で勤務ししのぶさんの事も取材してきました。
水俣で大雨が降った時にはしのぶさんを心配して家に駆けつけてくれました。
そんな辻さんの誠実な人柄にしのぶさんは引かれていきました。
この日は2人で食事に行く約束をしていました。
雨?僕雨男じゃない事が分かりましたよこの間。
僕この間引っ越ししたじゃないですか。
引っ越ししたんですけど。
うん。
もうすごいいい天気だったですもん。
だから僕じゃない。
僕は雨男じゃありません。
仕事の合間にドライブをした事もあります。
しのぶさんの話をいつも静かに聞いてくれました。
しかしこの春辻さんは熊本市に転勤する事になりました。
これまでのように頻繁には会えなくなってしまいます。
隣に行きましょうか。
隣に行った方が字が見えるでしょう。
しのぶさんは辻さんに手紙を書く事にしました。
「いろんな」。
「思い出が」。
「ありますね」。
「今まで」。
「真剣に」。
つき合ってくれて。
「真剣につき合ってくれて」。
ありがとう。
「ありがとう」。
はい。
はい分かりました。
ありがとうございます。
すみません今日はありがとうございます。
辻さんの転勤を前に最後の食事会が開かれました。
ありがとうございました乾杯!
(一同)乾杯!お疲れさまでした!ありがとうございます。
辻さんが好きな赤ワイン。
しのぶさんからのプレゼントです。
はい。
ご協力を。
はいじゃあ2人で。
こんな感じで?はいそんな感じです。
はいチーズ。
もうさすが辻さんですねこれ。
本当に3年間ありがとうございました。
(拍手)しのぶさんひと言言いなよ最後に。
最後にひと言言いなよ。
いや無理。
ありがとうございます。
「いろんな思い出がありますね。
みんなは『熊本からすぐ電車で来られるからいい』と言うけれど私にとっては東京も熊本も一緒でとってもさみしいです。
今まで真剣につき合ってくれてありがとう。
絶対絶対に水俣に来てね。
待っていますから」。
今日は是非桜が咲くあの判決が出ればと思います。
しのぶさんには今なお闘う患者としての役割も残されています。
水俣病と同じ症状がありながら患者と認められていない人たちが起こした裁判。
しのぶさんはその判決を見届けに来ました。
しのぶさんそこで!ここ?しのぶさんたちが初めて裁判を起こしてから45年。
今も水俣病患者と認められず裁判を続ける人が400人以上います。
ほかの病気の可能性があると。
何で被害者の声を聞かないんですかと。
そうだ!判決のあとすぐに熊本県との話し合いが行われました。
私も74歳になりました。
これから私たちをどれだけ待たせるんですか!答えて下さい!もちろん我々は今までやってきました。
そうじゃないんですよ。
いろいろやってきたんですけど。
水俣病の責任を巡ってずっと繰り返されてきた争い。
2時間半に及んだ議論をしのぶさんは黙って聞いていました。
最高裁判決の中での捉え方の違いがあるのかもしれません。
どういう事です?同じ事って。
判決の2日後。
あっいい感じですね。
桜と…。
しのぶさんは裁判について取材を受けました。
満開の桜の下で話がしたいと言いだしたのはしのぶさんでした。
話をしている時ふとツツジの花が目に留まりました。
チュッてちょっと吸ってみて下さい。
花の根っこの方こっちの方吸ったらちょっと甘いんです。
どうですか?甘い?ツツジの蜜の味を初めて知りました。
2014/05/13(火) 20:00〜20:30
NHKEテレ1大阪
ハートネットTV「水俣病患者として 女として」[字]
坂本しのぶさん(57)。母親の胎内で有機水銀に冒された、胎児性水俣病患者です。子どもの頃から“水俣病患者のシンボル”として、患者たちの闘いの先頭に立ってきました
詳細情報
番組内容
闘いに身を投じる一方で、しのぶさんの胸の中で膨らんでいる思いがあります。「患者である前に、一人の女性として生きたい」。57歳の今、しのぶさんは、これまでやりたかったこと、障がいのためにやってこなかったことに取り組もうとしています。初めての料理、恋…。“水俣病患者”として、そして“一人の女性”として、今という時間を大切にしながら生きていく、坂本しのぶさんの姿を描きます。
出演者
【出演】坂本しのぶ,【語り】野尻あかね
ジャンル :
福祉 – その他
福祉 – 高齢者
福祉 – 障害者
映像 : 1080i(1125i)、アスペクト比16:9 パンベクトルなし
音声 : 2/0モード(ステレオ)
サンプリングレート : 48kHz
OriginalNetworkID:32721(0x7FD1)
TransportStreamID:32721(0x7FD1)
ServiceID:2056(0×0808)
EventID:2151(0×0867)