歴史秘話ヒストリア「パリ ナースたちの戦場〜看護婦が見た世界大戦の真実〜」 2014.05.14

花の都パリ。
パリといえば目にも鮮やかなフランス料理に女性たちのオシャレなライフスタイル。
魅力たっぷりの街ですよね。
そんなパリのシンボル…そのすぐそばに今からおよそ100年前日本人ナースたちが活躍する舞台があったってご存じですか?今から100年前人類史上未曽有の大戦争が勃発します。
戦死者およそ900万。
最新兵器を駆使した近代戦が膨大な数の犠牲者を出しました。
そうした中激戦地フランスに向かった日本の医療チームがいます。
パリでおよそ1年半にわたり活動し…今年その看護婦の一人が克明な手記を残していた事が明らかに。
つづられていたのは人類が初めて経験する…更に今もフランス軍に当時の詳細な治療記録が残されている事が判明。
知られざる日本人看護婦たちの活動を追ってフランスへ。
初公開の史料と当事者の証言を併せて第1次世界大戦の実像に迫ります。
第1次世界大戦中パリで描かれた油絵です。
日赤「日本赤十字社」が開いた病院の様子が捉えられています。
大きな窓。
明るく開放感にあふれた病室で兵士たちを治療する看護婦たち。
中央には患者と話をしているのでしょうかベッドを見つめている一人の看護婦がいます。
この女性の名は竹田ハツメ。
当時日赤・熊本支部に所属していた看護婦です。
今回の取材で第1次世界大戦中彼女がつづっていた手記が見つかりました。
竹田君おめでとう。
派遣先はフランスです。
私がフランスに?欧州の戦地へ参るのですか?ハツメの運命を動かしたのはこの4か月前ヨーロッパで勃発した第1次世界大戦です。
イギリスフランスロシアを中心とする陣営とドイツオーストリア=ハンガリーを中心とする陣営がそれぞれの国力の全てを投入した総力戦です。
日本は当時イギリスと同盟を結んでいた事を理由に大戦勃発後間もなくして参戦。
同じ陣営に立つ3か国を医療面から後押しするため医師や看護婦を各国の軍隊に送り込む事になりました。
これを担ったのが当時軍の監督下に置かれていた日赤「日本赤十字社」です。
赤十字といいますと厳正に中立と。
どこの機関にも属さなくて中立というそういうイメージがあって確かにそうなんですけれども…突如としてフランスに派遣される事になったハツメ。
(2人)フランス!?そう。
赤十字の救護班に選ばれました。
明治14年熊本に生まれたハツメは21歳で看護婦養成所を卒業後地元の病院に就職。
ハツメがフランス派遣の一員として抜擢されたのもそうした看護婦として従軍した経験が評価されたからでした。
ハツメと共に選ばれた看護婦や外科医ら31人は…50日もの長い航海。
ハツメたちは到着後すぐに活動を始められるよう洋上で準備にいそしみました。
中でも力を入れたのがフランス語の猛特訓。
英語はできてもフランス語を話す事のできる看護婦はほとんどいません。
ハツメのノートに記されているのは「頭」や「髪」「額」など。
フランス人の患者とコミュニケーションをとるために最低限必要な体の部位を表す単語を一から学びました。
明くる1915年2月5日パリに到着。
凱旋門から100mほど離れた今は商業施設が建つこの地に日赤病院が開かれました。
1階の大食堂は大病室に。
それぞれの部屋は小病室に。
検査や手術で使われる医療器具はほとんどが日本から持ち込まれた最新のもの。
薬品は多くの傷病兵に対応できるよう…ハツメたちの救護活動が始まります。
日赤病院はフランス軍の中で重傷の患者を専門に治療する外科病院として位置づけられました。
高度な医療技術と経験が求められる重要な任務です。
第1次世界大戦のフランス軍を医療面から研究してきた…日赤がフランス軍の中で重視されたのは日露戦争が背景にあると言います。
しかし実際に病院の活動を始めてみるとハツメたちの前に思わぬ壁が立ちはだかります。
船の中で懸命に覚えた…そのため日本人は信用できないと言わんばかりに…早くも行き詰まってしまった日赤救護班。
治療もままならぬ中自分たちにできる事は何なのか。
ハツメたちは動きます。
ハツメと共に写る2人の兵士。
兵士たちが袖を通しているのは日本の着物。
ハツメが病院着として送ったものです。
戦場から血やほこりまみれで運ばれてきたフランス兵たちにせめて清潔な衣服を着させてあげたい。
そんな心配りで出来上がった病院着は過酷な戦場で傷ついた兵士たちの心を捉えます。
更にハツメたちはフランス人スタッフの手を借りながら懸命に兵士たちに話しかけていきました。
こうした努力のかいもあり…中でも包帯の巻き方はどんなに動いても緩まないと…ハツメの遺品の中には兵士たちから送られたこんなメッセージも残っています。
遠い異国での看護に戸惑いながらもハツメたちはこうして兵士たちの命の砦を築いていったのです。
ようこそ「歴史秘話ヒストリアへ」。
第1次世界大戦で看護婦をヨーロッパに送り出した日本赤十字社。
その設立には意外な人物が関わっています。
それは上野の銅像でおなじみの西郷さん。
明治10年西郷隆盛率いる反乱軍と明治新政府軍との間で西南戦争が勃発。
多くの負傷者が出ます。
そんな中…こちらは…薬品や消耗品がいつでも持ち出せるようコンパクトに詰め込まれています。
こうした道具を携え…さてこのあとハツメたちは第1次世界大戦という人類がいまだ経験した事のない戦いの現実に直面する事になるのです。
フランス南西部の町リモージュ。
ハツメが看護した兵士たちの詳細な記録が今も残されている事がNHKの取材で明らかになりました。
この中に第1次世界大戦中の日赤病院の記録が埋もれていました。
およそ900人の兵士の名前とその一人一人の症状が記された入院患者記録。
そして死亡患者の記録です。
ハツメが直面した第1次世界大戦は大量殺戮時代の幕開けを告げるものでした。
新兵器が続々登場。
1分間に400発以上発射できる新式の機関銃。
一丁で一つの部隊を壊滅させるほどの破壊力です。
その機関銃をも無力化する鋼鉄の兵器戦車も開発されます。
更に航空機の本格的な投入により戦場は地上から空中へと立体化。
大量の毒ガスが戦場を覆い兵士たちは次々と「悪魔の霧」の前に倒れていきました。
ハツメが残した患者のレントゲン写真です。
大きく折れた骨。
そして顔面に銃弾。
かつて日露戦争で救護活動にあたったハツメ。
しかし第1次世界大戦で目にしたのは全く異次元の戦争でした。
日赤病院に担ぎ込まれた兵士の一人…入院記録には「首と左肩に被弾した」とあります。
フランス南西部のボルドー。
そのアンドレの遺族がいました。
(レンフレー)これが祖父です。
当時の医療現場で戦いによる傷口の化膿は深刻な問題でした。
細菌による…重傷患者の看護にあたっていたある日の事。
ハツメは思いがけない出来事に遭遇します。
突如若い女性が病室に駆け込んきたのです。
ミルラというその女性はハツメが受け持っていた兵士リッセルの恋人。
砲撃による負傷で視力を失い変わり果てた恋人の姿。
ハツメは悲嘆に暮れるミルラと言葉を交わすようになりました。
やがてハツメの仕事をミルラが手伝うようになり2人の献身的な看護によってリッセルは次第に心の傷を癒やしていきました。
退院間もない2人の姿を写した写真です。
ミルラは花嫁衣装。
ハツメはミルラからこんな手紙を受け取りました。
傷ついた兵士たちの命を守る看護婦たちの闘い。
しかしこのあと第1次世界大戦の真の苛烈さがハツメたちを飲み込んでいく事になるのです。
第1次世界大戦という過酷な戦いの中でなんとか兵士たちの命をつなぎ止めようとするハツメたち。
しかしやがて苦渋の選択を迫られる事になります。
そして「歴史秘話ヒストリア」。
それまでおよそ1年にわたって膠着状態が続いていたフランス軍とドイツ軍の戦線が大きく動きます。
行き詰まった戦いを打開するため…急げ!この患者は危険だぞ!間もなく膨大な数の重傷者が日赤病院に担ぎ込まれてきました。
記録によればこの時期ハツメはひと月で4,600を超える傷病兵の治療にあたっています。
そのさなか東京の日赤本社から衝撃的な命令が下されます。
先生!先生!彼らを見殺しにするんですか先生!そうですよ!患者はどうするんですか!パリで活動を始めておよそ10か月。
しかしそれでも自分たちを必要とする患者がいる以上帰国などできない。
東京の本社に訴えた現場の声が残されています。
その強い希望によって…戦況はまたもや変わります。
そしてその日もまた一人の重傷者が。
入院記録によれば胸に砲弾の破片を受け傷は心臓と大動脈にまで達していました。
助かる見込みはほとんどありません。
家族を呼びたまえ!
(看護婦)はい。
しかし100kmも離れた町から来るためその到着までジビエの容体がもつのか予断を許さない状況です。
心の声せめて一目…家族に…。
ハツメは手帳にこう記しました。
ヴェルダン。
第1次世界大戦屈指の激戦地となったその町はフランス北東部ドイツとの国境近くにあります。
この小さな町をめぐって…大量の死傷者を出した事から「肉ひき器」とも称された史上空前の消耗戦です。
フランス軍・ドイツ軍の双方が奪い合った…その地下には数百mにわたる通路が造られています。
一時は3,000もの兵士がここで敵からの砲撃を堪え忍びました。
しかし火炎放射器や手榴弾が使われるようになると中も火の海に。
更に兵士たちは機関銃の激しい銃撃にもさらされました。
ヴェルダンの戦いにおける死傷者は両軍合わせておよそ70万。
当時ヴェルダン一帯は兵士たちの死体がバラバラになって散乱していたと言われています。
体の一部だけで葬られている戦死者も少なくありません。
同じ頃激しい戦火はハツメたちの間近にも及んでいました。
灯火管制が敷かれ真っ暗になった病院。
そこに爆弾の炸裂する音が聞こえてきます。

(爆撃の音)この夜…絶え間なく運び込まれる重傷者。
患者であふれかえる病室。
ヴェルダンの戦いは日赤病院を急速に消耗させていきます。
あれほど…働きづめとなった…そしてハツメにも…。
どうなさったんですか!?大丈夫ですか?受け持ちの患者の一人が目を離した隙に意識を失い倒れてしまいます。
これは心臓だ。
これからは少しも離れるんじゃない。
1時間おきに注射しそれから脈に注意してろ。
もはや全ての患者を一人一人見ている余裕はなくなっていたのです。
日赤病院は活動の限界を迎えていました。
これ以上滞在を延長する事はできない。
当時の医長がこの時の様子をNHKに語った録音が残っています。
戦い半ばでの苦渋の撤退。
ハツメたちは第1次世界大戦という未曾有の大戦争の前に力尽きたのです。
最後まで守りきれなかった傷病兵たち。
そして助けてくれた病院のスタッフ。
ハツメはその一人一人の名前を手帳に書き留めました。
病院を出たハツメたちをパリの駅舎で思いがけない出来事が待っていました。
倒れそうになりながらもゆっくりと歩いてくる男たち。
かつて日赤病院で命を救われた患者たちが見送りに来てくれたのです。
「ありがとう」。
「ありがとう」。
そう繰り返す人たちにハツメたちはただただ手を握り返す事しかできませんでした。
こうしておよそ2年にわたった日赤救護班の活動は幕を閉じました。
今宵の「歴史秘話ヒストリア」。
最後は…そんなお話でお別れです。
第1次世界大戦での日赤病院の実績はその後日本が海外の戦場に看護婦を動員していく契機となります。
パリでハツメと苦楽を共にした加藤きんさん。
帰国後もシベリア出兵で招集を受けチェコスロバキア兵などの救護にあたります。
日中戦争が始まると病院船の看護婦長として中国との間を数十回にわたり往復。
傷病兵の手当てに尽力しました。
戦後長年の功績が認められ看護婦として最高の栄誉である「フローレンス・ナイチンゲール記章」を受章。
しかしパリ日赤病院での日々を家族にすら語る事はありませんでした。
(鐘の音)一方フランスには日赤のナースたちによってつなぎ止められた命が今にしっかりと続いています。
書店を営むジビエさん一家です。
砲弾で負傷した胸をハツメたちが9時間も押さえ続け出血を食い止めたあの兵士ジビエの子孫です。
ジビエはその後大手術を乗り越えふるさとで6人の子供と21人の孫に恵まれました。
看護婦竹田ハツメが戦地・パリでの日々を送る中で誓った言葉があります。
2014/05/14(水) 00:40〜01:25
NHK総合1・神戸
歴史秘話ヒストリア「パリ ナースたちの戦場〜看護婦が見た世界大戦の真実〜」[解][字][再]

100年前に勃発した第1次世界大戦。戦地パリに派遣された日本人看護婦たちがいた。新発見の手記が語る人類史上初の世界大戦の真実とは?現地で知られざる足跡をたどる。

詳細情報
番組内容
100年前に勃発した第1次世界大戦。日本から遠く離れた戦地パリに派遣され、救護にあたった日本人看護婦たちがいた。今回、国籍を越え看護に尽力する彼女たちの姿を伝えるフランスの記録を発見。さらに看護婦の一人が付けていた生々しい手記も明らかに。そこから浮かび上がる人類史上初の世界大戦の真実とは? メディア初公開の資料と当事者の証言、現地フランスでの取材を交え、第1次世界大戦のもう一つの真実に迫る。
出演者
【キャスター】渡邊あゆみ

ジャンル :
ドキュメンタリー/教養 – 歴史・紀行
ドキュメンタリー/教養 – ドキュメンタリー全般
ドキュメンタリー/教養 – カルチャー・伝統文化

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