山崎登解説委員でした。
次回は松本浩司解説委員と共にお伝えします。
ぜひ、ご覧ください。
(テーマ音楽)古代インドで生まれた仏教。
そのうねりはガンダーラを超えシルクロード中国を経てアジア全体に仏像世界を花開かせました。
日本にたどりついたほとけたちはどのようにして生まれ育まれ心と形を築き上げてきたのでしょうか?仏像のなぞを解きほぐす「ほとけの履歴書」。
開講です。
穏やかな気持ちにさせてくれる日本の仏像。
多くは木で造られています。
日本人は「木には霊力が宿る」と考え木彫仏に祈りをささげてきました。
そんな木彫仏の原点とも言える重要な木があります。
長野県木曽地方。
日本の木彫仏の原点を求めて籔内佐斗司さんが東京藝術大学の学生と共にやって来ました。
樹齢300年の榧の大木。
この榧の木こそが木彫仏の歴史になくてはならない木なのです。
榧は日本各地に自生するイチイ科の常緑樹で水に強い事から古くは船の材料にも使われてきました。
(池田)ここを見ても分かるんですがいっぱい実が落ちておりましてこれ榧の実…煎るとアーモンドみたいな実で村の人たちの冬の楽しみになってましたから。
こういう実のなる木というのは神社とかお寺とかに生えてて飢饉の時なんかに食料にしたそうですね。
はいはい。
多分そうだと思います。
人々に信仰され暮らしも支えてきた榧の木は仏像の材料としても優れています。
檜のように群生はしないため独立した一木として大きくなります。
直径1mになるまで300年。
木目が緻密で堅く碁盤の材料としても重宝されてきました。
独特の粘りがあり思い思いの形を彫り出す事ができます。
特に力を発揮するのは装飾の繊細な表現。
仏師が意図するこだわりの形を忠実に残します。
この榧で造られた仏像が日本に木彫仏の新しい時代をもたらします。
きっかけとなったのは中国唐からやって来た一人の僧侶でした。
先生今回の「ほとけの履歴書」は?この人です。
あっ鑑真さん!でも鑑真さんってほとけさまじゃないよね。
お坊さんですよね。
でもね唐招提寺では鑑真様はもう御影堂というのの中にお祭りをして…このお像ですけどね。
ほとけさまのように。
すばらしい肖像彫刻ですけどこの鑑真のお像をまるでほとけさまのように…ほとけさまと同じように大切にお祭りしてるんです。
それほどすごい事を残していったという事なんですね。
奈良時代の末から現在に至るまでの日本で造られた木のほとけさまの源流は恐らく鑑真さんと言っていいと思います。
この人は日本人ではなくて唐の人でした。
「幼い頃に仏像に感銘を受けて出家を志す」と。
一番最初子供の時に仏像を見て。
「お経を読んで」じゃなくて。
「仏像を見て」なんですね。
へ〜!そして僧が守るべき戒律を学び「律宗」…戒律の事を研究する学問の高僧となったわけですね。
鑑真はいかにして木彫仏の技術を日本にもたらしたのか。
苦難を乗り越え唐から日本へやって来た鑑真。
6回目の渡航でようやく日本にたどりつき戒律をはじめ多くのものをもたらしました。
その時仏像の専門職人である仏師も連れてきたといいます。
じゃあ中国にある出来たお像を持ってくるのではなく技術者を全員連れていって日本で生産していたという…。
「鑑真に同行した仏師たちは奈良時代末から平安時代初めの『一木造』の彫刻の成立に重大な役割を果たした」。
奈良・西ノ京にある唐招提寺。
鑑真が創建しました。
ここに奈良時代末に造られた仏像が残されています。
唐の様式を感じさせる一木造りの仏像です。
一木造りとは頭と体の主要部分を一本の丸太から彫り出す技法。
この時使われたのが榧の木でした。
榧の仏像からは当時の彫り跡を間近に見る事ができます。
流れるような美しい衣文。
それまでの日本では見られなかった革新的な表現でした。
しかし仏師たちは…籔内さんは奈良時代の木材事情が関係していると考えています。
この榧の木ってのは変わり者で…。
へ〜!それは大きさとしては大きいんですか?一本だけ生えるから大きくなる。
檜みたいに建造物として使わない…誰も切らないからどんどんどんどんデカくなるわけ。
鑑真さんがいらした頃の天平時代末期っていうのは建造物に使わない榧の木の大木がきっとねあちこちに生えてたんだと思う。
これ私の想像ですよ。
そこへ鑑真さんにくっついてきた仏師さんがこの榧の木を見て「これだったら大きな仏像が彫れそうだぞ」って彫ってみたらすごくいい木だった。
榧が選ばれた背景にはもう一つ重要な理由があると籔内さんは考えます。
それは鑑真の生まれ故郷に関係していました。
鑑真さんはこの揚子江流域の揚州にお生まれになったわけ。
長江流域ってのは大変な木の文化の発達した所なんです。
この木を用いて…あるいは漆で仏像を造った。
やっぱり木の材料でたくさん仏像が生まれたわけですね。
「木彫」っていうと「白檀」って言われてた時代がある。
香木ですね。
これ白檀なの。
ちょっと匂いを…香りを嗅いでもらおうかな。
わっ削ると香りが。
うわ〜いい香り!甘い香りです。
この白檀という木はインドの南部とか東南アジアにたくさん生えていてここで非常に精緻な白檀の仏像が造られたんです。
熱帯地域に育つ常緑樹白檀。
木目が緻密で香りを放つためお香の原料として珍重されてきました。
白檀の細い幹から出来るのは高さ40cmほどの小さな仏像。
インドで生まれ唐の時代の中国でも流行しました。
かぐわしい香りを放つ白檀の仏像は多くの人々を魅了します。
更に見る者を引き付ける特徴がありました。
それは超絶技巧で彫られた装飾。
小さな仏像の肌に精緻な細工を施した木彫の極みです。
しかし白檀は中国では簡単に手に入るものではありませんでした。
インドから北へ離れた…こういうお経があるんですよ。
見て下さい。
十一面観音をお祭りするための決まりを作ったお経ですけどそこにこういう一説があります。
「もしも白檀のない国の人は何の木をもって仏像を造ればいいでしょうか?」と誰かが聞いたと。
そこまで書いてあるんですね。
「白檀で造るのが一番いいんですよ」と。
「だけどもしも白檀が手に入らない人たちは…」。
「栢木」。
どういう木なんですか?檜系の針葉樹を中国ではこの字を当てているようですね。
白檀の代わりに栢木を使ったという唐の仏師たち。
日本でも同じ壁にぶつかります。
白檀が自生しない日本でどのように対処したのでしょうか?この栢の木に近いものって何なんだろうと考えた時に残ってたのが…。
あっ榧の木なんですね!なるほど!へ〜。
それはどのように白檀やこの栢の木と似ていたんですか?ちょっとこれをまた削ってみようか。
どうですか?あっ香りがあります。
なんか甘い感じの香りでしょ?甘くて樟脳っぽくって…。
白檀の香りとは全然違うけれどとっても香りのいい木です。
先生も今まで彫ってみていかがですか?とってもね…これは檜なんですけどこう木目に沿って切るのは誰でも切れるんだけど木目に沿って垂直に削るのはよく切れる刃物でないと駄目なんですよ。
その点この榧の木っていうのは木目に沿っても切れるけど木目に垂直でもきれいに切れる。
じゃあ衣文とかを彫る時によさそうですね。
じゃあもともとは白檀を目指していたけれど栢になって日本では榧になったという…。
先生お話聞いてたら改めて榧の木で出来た一木造りのほとけさま拝観したくなりました。
大安寺っていうやはり奈良の古いお寺にたくさんの榧の木のすばらしい仏像がある。
それを是非拝観に行きましょう。
お願いします。
奈良時代には東大寺や興福寺と並ぶ大寺院でした。
宝物殿に安置されている7体の仏像は全て…唐招提寺の一木造りと同じ奈良時代後期の作とされます。
こちらはともに四天王の一角…甲冑に刻まれた文様や装束が細かく彫り込まれています。
わ〜。
また近くで拝観すると木の質感がブワッと迫ってきて…。
榧ならではの彫りが見られるこちらの仏像。
「楊柳観音立像」です。
精緻な彫刻を目指す仏師の思いが伝わってきます。
ちょうど首に掛けている装飾もすごく細かく彫られていますね。
おなかのベルトの所にも斜めの模様がくっきり残ってるでしょ?これはやっぱり木そのものが非常に強い木だからですね。
うわ〜!今もこんなにも残っているっていうのはやっぱ榧の魅力の一つですよね。
ただ榧の木っていうのは放射状に干割れが入りやすいんですね。
私は彫刻家…特に木彫家ですから干割れが入っているとか虫が食ってるとかそういうふうなのを見るとすごくジンとくるんです。
まるでこう人が年を重ねていくのが見て取れるような感じですよね。
日本の森が育んだ木と大陸から渡ってきた高い技術。
2つの出会いをきっかけに木彫仏は日本の仏像の主流となります。
鑑真が渡来してからおよそ300年。
次なる変化が訪れます。
平安時代後期に建てられた藤原氏ゆかりの寺平等院。
ここに全く新しいスタイルの仏像が登場します。
榧の一木ではとても造れない大きさです。
一体どのようにして造ったのか?そこには日本オリジナルの技法を完成させた仏師の存在がありました。
木の仏像に革命を起こした大仏師定朝です。
ほとけさまを生み出す人ですからね。
え〜!?あっ「?」なんですね定朝さんのお姿は。
謎なんですか?平安時代の頃までって偉いお坊さんとかあるいは天皇とかの肖像は残ってるんですけどまあ仏像を造る職人さんですよ。
そういう人たちの像っていうのはまず残っていないんです。
プロフィールが残ってないんですね。
職人さんですから生まれた年もよく分かりません。
亡くなった年は分かって1057年ごろの人ですね。
日本独自の彫刻技法「寄木造り」を完成させたわけですね。
かつて籔内さんの研究室で寄木造りの仕組みについて学びました。
バラバラに造られた体の部分を一つ一つ組み合わせていくと…。
ぴったり!見事ですね。
寄木造りとは頭と体の主要部分を複数の木材を寄せて造る技法。
小さい木でも大きな像を造る事ができます。
素材は榧から檜に変わりました。
大きな阿弥陀仏は寺院建築の材料だった檜を使いまるで建物を建てるかのような技法で造っていたのです。
なぜ寄木造りで仏像が造られるようになったのか。
その理由を探しに2人はかつて京都・浄瑠璃寺を訪れました。
お邪魔します。
同じ姿をした阿弥陀仏が9体並びます。
一つのお堂に9つの像を安置するこの様式は当時貴族の間で大流行しました。
平安時代後期戦乱や天災が頻発し貴族の間では阿弥陀信仰が広がります。
9体の阿弥陀仏には誰もが極楽浄土へ往生したいという切なる願いが込められているのです。
浄土のお寺というのは一番多い時で30もあった。
ちょっと計算してみて。
9体が30か寺だよ。
それだけで270体もある。
わ〜わ〜わ〜!すごい。
見たら驚いちゃう。
そういうものすごい阿弥陀様の需要を支えたのが寄木造り。
定朝は大量の仏像需要に応えるため「仏所」と呼ばれる工房を作り100人近い仏師を集めます。
寄木造りによって分業が可能となり工場のようなシステムを確立したのです。
更に定朝は精緻な制作マニュアル「定朝様」を完成させます。
「定朝様」の完成で品質を保ちながら仏像を大量生産する事が可能となったのです。
世界に誇る日本の木彫仏。
その変遷を体感できる場所が奈良にあります。
奈良国立博物館「なら仏像館」にはさまざまな技法で造られた木の仏像が展示されています。
榧の木の一木造りがこの9世紀になってこういうふうな形に発展をしていくわけですね。
木で生み出したとは思えないほどすごく細やかに彫られていて…。
まだこの…日本の木彫が始まって平安時代9世紀になって…それが9世紀だと思うんですね。
このお像なんかよくそれが表れていますね。
非常に…ある意味迷いながら造っているなという気がします。
一木造りから始まった日本の木彫仏はやがて寄木造りに受け継がれ定朝様へと進化を遂げます。
また近くで見るとグッと立体感が迫ってきますね。
少し垂れ目で優しい感じがしますね。
穏やかな美しいお像ですね。
定朝さんが完成させた寄木造り。
そしてこの様式ですよね。
こういう如来の様式っていうものが長く日本の仏像のスタンダードになっていくわけです。
まさにほとけさまの本様がこちらに。
難しい言葉を覚えたね。
はい。
でもやはり日本人の気持ちがそうさせたのか木に戻るというか鑑真さんが動きだしたりですとか定朝様が生まれたりってなんか切っても切れない関係に私たちってつながっていますよね。
なんか木を愛す日本人ってすてきですね。
だってこの木はみんな日本の大地に生えてた木だもの。
それをほとけさまとして生まれ変わらせるやっぱ仏師たちの力も感じますよね。
今回の内容はこちらのテキストに詳しく紹介されています。
どうぞご参考になさって下さい。
今後の放送予定も掲載されています。
(テーマ音楽)2014/05/14(水) 10:15〜10:40
NHK総合1・神戸
趣味Do楽 籔内佐斗司流 ほとけの履歴書〜仏像のなぞを解きほぐす〜第7回[解][字]
「ほとけの履歴書」第7回は日本が世界に誇る木の仏、その彫刻技術に迫る。木材不足に悩んでいた平安時代、ある男が画期的な技術を開発。仏像界に革命を起こした!
詳細情報
番組内容
「ほとけの履歴書」第7回は日本が世界に誇る木の仏、その彫刻技術に迫る。中国・唐の僧、鑑真が日本に伝えた一木造の技術。その後、木材不足に悩んでいた平安時代、ある男が画期的な技術を開発。仏像界に革命を起こした!籔内佐斗司教授が、ヘンリー・フォードの自動車工場革命に匹敵すると評価する仏像技術の革命とは?
出演者
【出演】篠原ともえ,【講師】彫刻家・東京藝術大学教授…籔内佐斗司,【語り】徳田章
ジャンル :
趣味/教育 – 音楽・美術・工芸
映像 : 1080i(1125i)、アスペクト比16:9 パンベクトルなし
音声 : 2/0モード(ステレオ)
日本語
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日本語(解説)
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