『ダイバージェント』(Divergent/2014/ニールバーガー)は、地球戦争後の「未来」をあつかっている。シカゴに生き残ったコミュニティでは、人間を精神・身体テストで「博学」、「勇敢」、「高潔」、「平和」、「無欲」の5「派閥」(faction)に分類する。テストでこの5のカテゴリーに入らない人物は「異端」(ダイバージェント)として危険視される。
若者は、成人するとき、テストを参考にしてどの派閥に属するかを選ぶ自由さがあるが、実際には、テストの「適正」に従うし、テストで「異端」とわかった場合は、それを偽ったどれかの派閥に属するか、ホームレスのような放浪と逃亡を余儀なくされる。
この映画が<傾向的>なのは、最初から、その意図がみえみえだからである。明らかのアメリカの「保守層」受けをねらっている。
アメリカの「保守層」が嫌う映画のいくつかのパターンがある。
・反ファミリー―家庭・家族なんかどうでもいいという思想や行為。この映画では、ファミリーよりも「派閥」(faction)が重視されているということは、この世界はいずれは克服されるべきことが前提されている。
・博学や知識人――知識よりも腕力や根性の優先。知的であることはエリートであり、「大衆的」ではない。
・異端や個性の軽視――上と矛盾するようだが、個人志向や独力でのしあがることはよしとされるが、それは、知識のような後天的なイメージのあるものによるユニークさではなくて、体力(スポーツ)とか美貌とか天才のような、非学習的なものを基準とする。
赤狩りの時代に「共産主義」や「社会主義」は、地域よりも連邦主義をこれらが重視するとして、危険視された。アメリカで「国民健康保険」の制度が実現しないのも、連邦重視を危険視する発想のためだといわれる。
『ダイバージェント』は、こうした「ファシズム」的要素をいったん強調しておいて、その瓦解を描くわけだから、<傾向的>なのである。ただ、ニール・バーガーは、「保守派」にはなりきれない監督(『幻影師アイゼンハイム』は傑作だった)なので、その<傾向性>に迷いがあり、「保守層」がもろ手を挙げて歓迎できないところもある。わたしなんかには、そこが見どころだった。
この世界では、『ハンガー・ゲーム』のような世界を『マトリックス』的な寝台のうえで体験できるようなシステムが実現している。それは、「派閥」選別のテストに使われるのだが、もしこういう技術が実現しているのなら、やらなくてもいいような(情報よりも)腕力による闘いや暴力的な支配が横行する。
未来や近未来を描く映画では、しばしばそれが前提しているテクノロジーとそのドラマとのあいだで矛盾が起きている。『トランセンデンス』などもそうだった。
平均的な「大衆」的観客を意識するとこうなるのか? オーソン・ウェルズの時代から、才能のある監督が思い通りの作品を作れず、「大衆」路線に堕してしまうのは、たいていは、製作側の問題である。
「大衆」をバカだと思ている製作側には、いまの<身体問題>がわかっていない。身体の状況が激変していることがわかっていない。
身体をヴァーチャルに自在に処理できるという前提を置くのならば、身体がうごめく世界をあたりまえには描けない。にもかかわらず、それはあたりまえにしておくので、話が矛盾してくるのだ。
この映画でも、首にブスリと注射をして、脳内でヴァーチャルな試練を受けるテストのシーンが何度も出てくるが、このヴァーチャルな世界と「現実」世界との切れ目があいまいになるあたりを『幻影師アイゼンハイム』の流れで、もっと過激化すれば、ニール・バーガーらしかった。
2014年05月07日
アメリカ(映画)の(大衆的)フレームワーク
posted by tetsuo at 20:13| Comment(0)
| 発作的ノート
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