• Home »
  • 震災・原発 »
  • 「私だって娘と県外移住したい」~3年間我慢した福島市の母親、封印を解く時は来るか?(鈴木博喜)

「私だって娘と県外移住したい」~3年間我慢した福島市の母親、封印を解く時は来るか?(鈴木博喜)

2014年05月13日

福島の山-2

avatar鈴木 博喜 の記事を全てみる

この記事を共有

【夫の反対と職場の混乱がネックに…】
 あの時、夫は真っ先に避難に反対した。「避難?この子の学校はどうするんだよ?」。娘は新学期から幼稚園の年長になろうとしていた。夫の両親との同居は震災前から決まっており、自宅の改修も進んでいた。同居を心待ちにしていた義父母、完成間近の二世帯住宅…。本音を封印するには十分すぎる環境だった。
 仕事も障壁となった。専門職のため代わりがいない。震災後の混乱の中がむしゃらに働いたが、本当は避難したかった。何人かの先輩が、仕事を捨てるように福島県外に避難して行った。「こんなときに逃げるなんて…」。同僚たちは、避難した先輩たちへ露骨に敵意を示した。「実は私も…」。何度、この言葉を口にしようとしては飲み込んだだろう。
 「とても避難を言い出せる状況ではなかったです。人手不足で混乱し、おまけに私は今の職場に転職したばかり。仕事を辞めるなんて不可能でした」。山形県に避難した友人から「こっちにおいでよ」と何度も誘われたが、「うん」とは言えなかった。
 気付けば3年。仕事に子育て、日々の生活に忙殺されて、ふと原発事故のことも放射線ことも忘れる瞬間があるという。「ついつい、流されそうになる自分がいるんですよね」。
 県外の避難先から福島市に戻ってきたママ友もいる。国や行政のアピールが奏功したか、街は原発事故などなかったように日常生活を取り戻した。今年の3.11、メディアはこぞって震災特集を組んだが、新聞もテレビも観なかった。観たところで、娘を放射線量の低い土地に連れて行ってあげることはできない。
(写真:小学生たちの登校風景。福島駅西口のモニタリングポストの数値は下がったが、通学路の放射線量は依然として高い。安心するにはまだ早い)

【移住に傾く気持ち、消えぬ迷い】
 「ここのお母さんたちは、普通に暮らしているように見えても何らかの不安を抱えているんです。時間が経つにつれて口に出しにくくなってますからね。外からでは分からないんです」
 自分もその一人…。
 しかし、我慢も限界だ。封印してきた避難への想いが、いよいよ頭をもたげてきた。
 「これから決意するとしたら、もはや短期避難ではなく移住になるでしょう。夫と一緒に移住することは無理ですから、母子2人での移住になるでしょうね」
 思春期を迎えることを考えると、避難を決断するなら娘が小学校を卒業する前しかない。時間がない。あとは自分が踏ん切りをつけるだけ。でも迷う。「娘はパパっ子なんですよ。被曝の不安を抱えたまま福島市での生活を続けるのが良いのか、夫と引き離してでも放射線量の低い土地に移住するのが良いのか…。答えは出ません」。迷いは当然だ。
 夫に内緒で自分の気持ちと向き合う日々。夫に相談すれば反対されることが分かっている。もしかしたら、先回りされて移住できなくなってしまうかもしれない。周囲からは「そろそろ、弟か妹はまだ?」と言われるが、原発事故による汚染が解消されないなかで、子づくりする気持ちにはなれない。「福島県外に出てからでないと、出産なんて考えられません」。
 移住を決意する時、それは夫との離婚をする時だ。非情な選択を女性に迫る原発事故。これもまた、原発事故の厳然たる一面なのである。

【民の声新聞】
Eye Catch Photo by BehBeh, via Wikimedia Commons
The Ōu Mountains in Kōriyama, Fukushima

アーカイブ

日付を選択
カテゴリーを選択
Googleで検索