【「本当は福島県外で暮らしたい」】
取材に協力してくれた男性は、今月で還暦を迎える。伊達市内のアパートでの避難生活も4年目になった。「近くのスーパーに買い物に行っても知り合いがいない。ああ、避難しているんだなって寂しい気持ちになるよね」。
決して消えることのない故郷への想い。車を運転する時、浪江町の方向を示す標識を目にすると、今でも胸が痛み、涙がこみあげる。帰りたい。帰れない。「復興住宅に入居すれば浪江の人たちと一緒に生活できますよ」と水を向けると、意外な言葉が返ってきた。「復興住宅に入る気持ちはないんだ。町役場のアンケートにも、ずっと『入る意思は無い』と答えてきたんだ」。
相反する想い。その裏には、原発事故による汚染がある。「そりゃ帰りたいよ。でも、僕が生きているうちに帰れるかい?じゃあ、どこに住むか。こうなった以上は、ここまで汚染してしまった福島で暮らしたくないんだよ。仮に0.1μSv/hになったとしてもね。できれば都会でない静かな街で暮らしたい。そう考えているうちに3年が経ってしまったんだ」。先祖代々の墓は町内に残すことに決めた。
東電への賠償請求は、原発事故直後に100万円を受け取ったきり、していない。一度、書類を提出したが「記入に不備がある」として戻ってきたことがある。それから、書類を書くのをやめてしまった。「何が不備だよ。本当に東電のやり方には腹が立つ。僕の周りにも、同じように請求していない人がいるよ」。だからこそ、インターネットで「浪江町民は原発事故をいいことに国や東電にたかっている」という書き込みを目にすると、とても頭にくるという。先日、隣組の集まりが相馬市内で開かれた。全国の避難先から知った顔が集まったが、避難先で新しい住まいを手に入れられたのは3、4人だった。
自宅の庭で、手元の線量計は4μSv/hを超えた。「こんな状況でどうやって町に帰れというんだ。国も行政も、人口流出させたくないから福島に戻すことばかり言っている。住民の健康なんか考えていないんだ」。
自宅の前ではスイセンがきれいな花を咲かせていた。「この前、障子を張り替えたんだ。別に誰が見るというわけでもないんだけど、あまりにもみすぼらしかったからね」。5月の連休中、関東に住む弟が墓参に来る。だが、わが家でもてなすことはできない。
男性はふと「そろそろ東電への請求をしようかな」とつぶやいた。90歳近い母親と二人暮らし。贅沢をしていなくても、生活は苦しい。私は「胸を張って、堂々と請求してください」と言った。男性は少しだけ笑った。
(請戸川沿いの道は、10μSv/hを超す個所が珍しくない)
(町内では常磐道の建設工事が急ピッチで進められている)
(男性宅の庭は4μSv/h超。地表真上では20μSv/hを超す地点も)
桜の季節が訪れた高線量の浪江町~これでも原発事故は過去の出来事か?(鈴木博喜)
2014年05月13日
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