「根っこ」を強く JINS社長の経営論 ジェイアイエヌ社長 田中仁(上)
SPAモデルによる業界革新や、「JINS PC」で視力がいい人も眼鏡をかける市場を作るなど、ジェイアイエヌはつねに眼鏡業界をリードし続けている。しかし、革新者だからこそ、後発商品に追われる宿命にある。そのような中でも、競争を勝ち抜き、次のアイデアを生み出し続ける秘訣とは?
■金融機関で学んだ「商売の厳しさ」
三宅:田中社長は日本のアイウエア市場を刷新した「JINS」の創業者で、すでに有名人です。今さらですが、出身はどちらですか。
田中:群馬県で生まれて、野原を駆け回っていた野生児でした。
三宅:どちらかと言うと、やんちゃ坊主?
田中:やんちゃでしたね。やんちゃ坊主がこの先、身を立てるには、学問ではどうも難しそうだから「俺は商売をしよう」と高校生のときに決めました。
だから将来、起業したとき多少役立つだろうと思い、金融機関に就職したのです。その後、いろいろ紆余曲折がありつつも転職をして、ビジネスのリアリティをつかみ、転職から1年で起業しました。
三宅:いつかは起業するから、まずはおカネの借り方を知っておこう、うまくいけばネットワークも作れるし、ということですか。随分と戦略的ですね。
田中:経営とはどういうことなのか、金融機関に入れば、いちばんよくわかるだろうと思っていましたね。
三宅:金融機関の勤務で、学んだことは何ですか。
田中:4年半くらい在籍しましたが、「商売は厳しい」ということを学びました。当時は事業に失敗した人の末路は、夜逃げか自殺するしかなかったのです。
今からもう25年前のことですが、おカネを借りるには連帯保証人が必要でしたから、だいたい皆さん、親兄弟や親戚、知人に連帯保証人のハンコを押してもらわなければならない。そしていったん連帯保証人の印を押すと、連帯保証人になった人は、最初に借りた金額にかかわらず、借金返済の義務がずっとついて回るのです。「俺は300万円の借り入れの保証はしたけれど、それ以上の保証をした覚えはないよ」と言っても、包括的に保証する契約書に判を押しているので、自分が3000万円、5000万円の借金を背負ったのと同じことになるわけです。
そうするとまじめな経営者は、責任を感じて自殺してしまう。私が勤めていたときも追い込まれてしまった方が数人いらっしゃいました。そのような「商売の厳しさ」を知ることができたのが、いちばん大きかったです。
三宅:「もう起業なんてよそうかな」とは思いませんでしたか。
田中:思いました。今でこそ金融機関は大変だと聞きますが、当時はそこまで大変ではありませんでしたし、給料もまあまあでした。だから「いいかな、このままで」と思ったこともあるのですが、転職のお誘いを受けて一歩を踏み出し、生活雑貨メーカーのスタジオクリップという会社に転職しました。そこに1年勤めました。
三宅:それは起業準備のための転職ということですか。
田中:やはり商売をしたくなったのです。金融機関を辞めてどの会社に行こう、と考えていたとき、たまたま2社からお誘いをいただいて、そのうちの1社に勤めました。
三宅:「起業したいからすぐ辞めるかもしれないけど、いいですか」みたいな感じですか。
田中:そうです(笑)。入社するときに「いずれは自分で商売をするつもりなので、すぐ辞めるかもしれません」とは伝えました。それでもいいと言ってもらえましたが、でもまさか、たった1年で辞めるとは思わなかったでしょうね。
三宅:そうすると、たった1年で何かをつかめたのですね。
田中:まだ小さい会社でしたので、何でもさせてもらえました。すると自分は企画をしても売れるものを作れるし、営業をしてもトップ。「ああ、これなら自分でもできる」と自信がついて、退職して自分の会社を始めました。
■2〜3年苦しんで気づいたこと
三宅:その頃は、もう夜逃げや自殺は怖くなくなっていたのですか。
田中:だいたい商売を始めるときは、変な高揚感といいますか、万能感といいますか、自分なら何でもできると錯覚しているものですから。そしてその後、現実を知る(笑)。
三宅:最初から眼鏡を手掛けたのですか。
田中:いいえ、最初は雑貨でした。自分で生地を仕入れ、その生地を裁断屋さん、つまり布を切る工場に送って、そこで切ってもらったものを、今度は縫製屋さんに渡して縫ってもらって、上がってきたものに自分で値札を付けたり、商品の中に型崩れを防ぐ紙の詰め物を入れたり。そうやってできた商品を卸していました。
三宅:その生地を裁断、縫製して作るものは、全部ご自身のアイデアによるものですか。
田中:そうです。デザイナーは別にいましたけれども。
三宅:そういう意味では、バリューチェーンのプロデュースをしていたわけですね。
田中:そうですね。でも、自分で商売を始めてみたら、勤めているときは同じような仕事をしてうまくいっていたはずなのに、うまくいかないのですよ。何でだろうと思ったけれど、そのときはまったく理由がわかりませんでした。後でわかったのは、勤めていたときのほうが、ちゃんとお客様のことを考えた仕事ができていたということです。ところが自分で商売を始めたら、売り上げや利益が自分の生活に直結しているものだから、いつの間にかお客様視点が欠けてしまっていたのです。売れない、おかしいな、おかしいな、と思っていたら、そういうことでした。
三宅:たいへん興味深いお話ですね。そのことにはどのぐらいで気づかれたのですか。
田中:2〜3年苦しんで、やっと業績が挽回した後です。
三宅:挽回してからようやく気づいたということですか(笑)。業績が伸びたのはなぜだったのですか。
田中:初めのうちは何か作っては、ちょっと売れたり売れなかったりを繰り返していました。そんな中、たまたまエプロンを作ったら、それがすごくヒットしたのです。さらに盛岡のお客様から大量に発注が来て、ようやく一息つけました。
三宅:その後、小売りに進出してSPAなり、眼鏡なりと、どうやって今のビジネスモデルに進化してきたのでしょうか。
田中:1990年代の円高で、国内の縫製屋さんで作るのでは、コストが見合わなくなってきました。そこで中国を中心とした海外で生産をするようになったのです。そして韓国の工場に出張で行ったとき、南大門という繁華街で、たまたま眼鏡を1本3000円程度で売っているのを見てびっくりしたのです。日本で3万円はする眼鏡が、韓国では3000円。内外価格差を考慮しても差がありすぎる。これはどういうことだと日本に帰って調べたら、眼鏡という商品は中間マージンがたくさん発生していて、粗利も高いということがわかりました。
一方、ロードサイドにある大手チェーンや、私の地元の群馬県の眼鏡屋さんをいろいろ見てみると、いつ行ってもお店はガラガラです。これじゃ経営はかなり厳しいに違いないと思って『会社四季報』を見てみたら、当時ナンバーワンだった眼鏡屋の売り上げが700億強で経常利益が130億円と、とてつもない好業績なわけですよ。「えっ、そうだったのか。これならもっと安くできるはずだ」とひらめいて、眼鏡のSPAを始めたのが2001年の4月です。
三宅:そこでも戦略的にちゃんと四季報も見た(笑)。
田中:そうです。その頃はそのくらいの知識がありましたからね(笑)。
■売り上げ半減から、一気に攻めへ
三宅:韓国で眼鏡と出合ったのは、いつ頃でしたか。
田中:2000年、私が37歳のときです。そのときは雑貨の売り上げが10億円、経常利益が1億5000万円くらいで、安定していた頃です。無借金経営でしたし、群馬では1億いくらの利益を出していれば、まあまあよくやっているほうです。でもずっとこのままうまくいくはずがないから、調子のいいうちに何かほかのことにチャレンジしなきゃいけないという危機感があったのですね。
それで「今なら失敗しても雑貨が何とかやっているから、いつでも撤退できるだろう」と思い、雑貨をスタッフに任せてアイウエア事業を始めたのです。
三宅:最初、眼鏡はどこで作り始めたのですか。
田中:韓国です。
三宅:デザインは自分たちで?
田中:初めは自分たちでデザインするところまで行かず、韓国のメガネフレームを売っている市場から買い付けていました。
三宅:最初から売れましたか。
田中:2001年4月に福岡の天神に店をオープンしたのですが、一本5000円という破格の安さが話題になり、口コミですごく売れました。大して宣伝もしていないのに、つねにお店がお客様でいっぱいの状態になったのです。ところが4月に始めて3カ月後には、周りに20軒ぐらい同じような店ができていました。福岡と韓国は近いから、私と同じように買い付けてきて、同じように売り始めたのです。
三宅:ビジネスモデルをまねされたのですね。
田中:売り上げが半減しました。しかもオープンから半年後の2001年9月に、出店先のデベロッパーだったマイカルが倒産してしまったのです。すると売掛金の2000万円が入ってこない。大変ですよ。
「今なら、撤退してもケガは小さくて済む。さて、どうしたものか」と考えながら、そのライバルの20軒を見て回ったら、どの店も私が当初描いていたような、眼鏡をファッションのように売るスタイルとはかけ離れていることに気づいたのです。ただ眼鏡を安く売っているというだけで、売っている人もおじいさんのような人だったりして、ちょっとイメージと違う。
ここで本気で勝負をすれば勝ち抜けるんじゃないかと思い、それから雑貨の利益を眼鏡のほうに注ぎ込みました。大変でしたが、いきなり立て続けに4店舗出し、5店舗目からはオリジナル商品も作り始めました。すると売り上げがまた上がってきました。そしてほかの店はだんだん撤退し始めたのです。
■会社は木と同じ
三宅:つまり「見切ったうえで」、「投資して」勝ち抜いたわけですね。
田中:そうです。だから今の「JINS PC」の状況と似ていますよ。パソコン用眼鏡がヒットしたらいろいろなところ一気に類似品を出したけれど、当社はさらに投資して勝ち抜くという。
三宅:ただ売っているだけじゃなくて、ちょっと「まずい!」と思ったら、周りを見たり、四季報を見たりという工夫をされているようですね。
田中:昔からよく自分がやろうとすることに関しては情報収集します。そのためのスタッフもいますが、いまだに自分ですることもあります。ドリームインキュベータさんのような外部のプロにご相談することもあります。
三宅:ありがとうございます(笑)。ところでJINSがすごいのは、視力がいい人にも眼鏡の需要を掘り起こしたことです。洋服に合わせて眼鏡も掛け替える「アイウエア」というコンセプトや、パソコンのブルーライトをカットするパソコン用眼鏡「JINS PC」、花粉をブロックする「JINS 花粉Cut」などのアイデアは、ご自身で思いつかれたものですか。それとも何かヒントが?
田中:自身で思いつくものもありますが、私自身はアイデアの前に大事なものがあると思っています。
当社は眼鏡が何とかうまくいって、2006年に大証ヘラクレス(現JASDAQ)に上場しました。上場したこと自体はよかったのですが、その後、2期連続最終赤字に落ち込んでしまったのです。会社が厳しくなったとき、ユニクロの柳井さんとお会いする機会を得て、「志は何ですか?」と問いかけられたわけです。そのときは明確に答えることができず、非常に悔しい思いをしました。
それで思ったのは、会社というのは木と同じで根っこが大事なんだ、ということです。じゃあ、会社の「根っこ」とは何だろう。そうやって考えてみると、それが「志」であり、「ビジョン」なんですよね。ここをしっかりと強く張らないとダメだということに気づいたのです。「われわれはどういう会社でありたいか」が明確になったからこそ、超軽量眼鏡の「Air frame(エアフレーム)」があり、ブルーライトをカットする「JINS PC」があり、「JINS 花粉Cut」がありという、商品のラインナップにつながっているのです。
三宅:ビジョンや志からアイデアが出てくるという意味ですか。
田中:そうです。「どういう会社になりたいか」が明確になれば、「どんなものを開発したいか」も、明確に出てきます。ところが昔はつねに競合のことばかり見ていた。「根っこ」を強くせず、商品やサービスだけで戦っていたのです。でも商品やサービスは、木で言えば、葉っぱや果実の部分なんですよね。
そうすると根っこが小さいままだから、そこにいろんなものを足していっても、ぐらついてしまう。「あっちの店がりんごを作り始めたから、うちも急いでりんごを作ろう」「こっちの店がバナナを作っているなら、うちも作らなければ」「そっちが柿ならうちも柿だ」というように、もう何をしたいのかわからない状態になります。
しかし、りんごの根っこからバナナは生えないじゃないですか。柿は実りませんよね。「根っこ」が決まると全部決まってくるのです。そのことに気がつきました。
三宅:「根っこ」を強くするために、社内では具体的にどんなことをやられたのですか。
田中:合宿をしました。役員5〜6人と、あとマーケティングチームの合計7〜8人で。
三宅:合宿して一晩じゅう徹底的に話し合ったら、新しいアイデアがポンポンと出てくるようになったということですね。合宿の前から、ひたすら自分たちの「根っこ」は何かを考えていたわけですか。
田中:考えていました。そして「こういう会社になろうよ」というコンセンサスがこのとき取れたわけです。私はその前からも「こういう会社になりたい」という「根っこ」を持っていたかもしれない。でもそれをみんなで共有できていなかった。そういう意味では有意義な合宿だったと思います。
三宅:自分たちの「根っこ」が明確で強いものになるほど、アイデアもより出やすくなるということですよね、きっと。
田中:不思議とそういうものだと思います。だからわれわれは、まだこれからいくらでも新商品のネタを持っていますよ。
(構成:長山清子 撮影:尾形文繁)
※ 続きは、5月21日(水)に掲載します