さて、ここまでは美味しんぼの「作中で語られる主張」の批判だったが、作品のあり方としてはどうか?作者である雁屋哲とスピリッツ編集部の言い分は、俺はそれなりに筋が通っていると思うのだよね。作中に登場する実在の人物が、現実の世界でほど同様の事を主張しているのは事実なわけで、たとえばテレビのニュース番組や特集番組で、それらの人にインタビューした結果を放送するのが問題なのだろうか。原発反対の元町長の主張はおかしいと思うが、そういう主張をしている人物がいる、というこをテレビで紹介するのはダメなのか?テレビや新聞の報道でも、多くの場合、公平に両サイドの主張を紹介するよね。 * * *また山岡士郎や海原雄山など架空の登場人物の主張は、作者の主張を代弁しているということなのだろう。これもたとえば雁屋哲がテレビのインタビューを受けて、山岡士郎と同様の主張をすること、それをテレビなどで放送することは、問題があるのだろうか。たとえば実在の人物や公的機関を連想させる人物や組織が登場し、その人物や組織の主張として、当人がいってないことを、あたかも言ったように描くのはどうかと思うが、そういうことはしてない。 * * *美味しんぼで「作者の主張=主人公の山岡士郎の主張=鼻血は放射線のせい」と描かれているのは明らかだが、あくまで放射線に関しては素人のマンガ原作者の個人的な考えを述べたものにすぎない。たとえばマンガの作者が「戦争はなくすべき(あるいは逆に○国と戦争に踏み切るべき)」という主張をマンガで描くことの是非が問題視すべされるべきなのか。つきつめれば一般に広く読まれる娯楽マンガで、政治的な主張をすることの是非の問題だよね。政治的主張というのはいろいろある。「戦争をなくすべき」というのも政治的主張だし、[天皇陛下のために国民は最後の一人まで戦うべき」というのも政治的主張だ。片方の主張はOKだけど、その反対の主張はダメだというのは、いかがなものか。主張の内容に個々に賛成や反対するのはいいと思うよ。「俺は反対だ」「いや、私は賛成だ」と。しかし主張を行うこと自体を許さないというのは。 * * *「風評被害」という言葉が拡大解釈されている気がするんだよね。以前「自己責任」の言葉が拡大解釈されたように思う。イラク日本人人質事件の時だったか。なにかを錦の御旗にして、世論を一つにしようという流れは、危険だと思う。一つにしようとする流れに反対する勢力が日本ははなはだ弱いのが危険というべきか…。きっと戦争中の「非国民」とか「一億玉砕」とかも、同じ流れだったのだろう。「福島で頑張ってる人の気持ちを考えないのか」というのは、「特攻で死んだ人たちのことをと考えないのか」と同じだ。日本人は心情に訴えられると弱く、合理的な判断ができなくなる。どうみても勝てない戦争を続けた当時の政府の愚かさを批判するのに、どうみても効果が期待てできない除染作業とかを「彼らは体を張って頑張ってるんだ」と応援するのは…。ましてやそれに異議を唱える言論を封殺しようとするのは…。合理性というのは残酷なものだ。残酷さに耐えられないと合理的な判断はできない。そして合理的判断ができないと、半世紀前のような悲惨な結果を生む。自分が正しいと信じた意見一色に社会を染めて、もし自分が間違ってたらどうするのか。関連記事:続々々々々々々・美味しんぼと放射線続々々々々・美味しんぼと放射線