ひっこみ思案

日本人がクラシック音楽とかかわることや、その他について

アーティスト オンリーワンっぽい人たち

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http://natalie.mu/owarai/news/79447

 

クラシック音楽から少し離れると、「アーティスト」という言葉をよく耳にする。

クラシックの音楽家でも音楽事務所に所属した場合は、「所属アーティスト」と呼ばれることもあるが、それ以外でこの界隈で「アーティスト」という言葉を聞くことは、なかなかない。

 

「私は『先生』ではなく、アーティストです」と、ある学校の授業を受け持つ演出家の方が言っていた。

「アーティストは、自分の意思なんか持たなくていいんだよ」と、ある音楽事務所の社長が言っていた。

 

この魅力的であり、やや胡散臭い響きも持つ「アーティスト」とは、一体何なのか。

 

「アーティスト」。日本語にすると「芸術家」である。国語辞典(小学館)には、「芸術作品を創造し、また、表現する人。詩人、美術家、音楽家の類」とある。

日本語で話しているのだから、「私は、演出家です」「音楽家は、意思なんて~」でもいいはずである。それでも世間は、「アーティスト」という言葉を用いる人ばかり、自称する人も山ほどいる。なぜか。

 

「その定義は曖昧だが、価値が高そうでオシャレな雰囲気を漂わせた何か」というものは、人を惹きつけるのである。「アート」や「アーティスト」という言葉に人が見出すのは、そういう「何か」である。」(『アーティスト症候群』大野左紀子著 明治書院p7)

 

「アーティスト」という言葉を使う人は、この雰囲気を纏い、その外にいる人との差別化を図りたいのだそうだ。筆者が感じていた胡散臭さとは、この定義の曖昧さから来ているようだ。

先述した演出家は、他にはない才能を持った方だ。音楽事務所の社長は、ちょっと胡散臭い人だ。

「芸術家」「音楽家」「美術家」等より定義が曖昧である故、「アーティスト」という言葉を、芸術とは縁遠い人でも気軽に使用でき、明確な経歴や肩書きの有無を問わずして誰でも「アーティスト」になれる。

このようにして、世間は「アーティスト」だらけになっている。

 

「アーティスト」のイメージとは。

私生活やキャラクターの強烈だが作品に勝るとも劣らずクローズアップされた最初のアーティストは、ゴッホである。

その後のアーティストで際立った人は、ウォーホルである。(中略)ウォーホルの場合は意図的に自分のイメージを作り上げていったのだが、いずれにしても「普通じゃない」のがアーティスト。」(p232)

 

この「普通じゃない」イメージを、「アーティスト」という言葉を使う人の多くは欲している。

 

「アーティストになりたい」人は、ただ毎日作品を作って一人で楽しむだけでは満足しない人である。それらを他の人に見せ、評価され、活動の場を広げ、「あの人は普通の人じゃない。アーティストだ」と認証されて初めて満足感を得る。」(p233)

 

国内外の才能豊かなアウトサイダー・アーティストがアーティストを自称したり、すでに芸術家として活躍している人が日本語で「アーティスト」という場面は少ない。

巷に溢れる多くの「アーティスト」は「普通とは違う」と人に見られたい人たちのようだ。

 

『アーティスト症候群』では、そのような症状を「自分流」「自然体」「別格」の三種類に分けて紹介している。主に美術の世界でのことが書かれているが、それを筆者が関わったことのある音楽(クラシック音楽に限らず)や演劇とも少し絡めながら見てみよう。

 

●自分流症候群

ここでは、アメリカの心理学者マズローによる五段階の人間の基本的欲求が引用されている。

1.生理的欲求 2.安全の欲求 3.親和の欲求 4.自我の欲求 5.自己実現の欲求

以上が順番に満たされていくべきらしい。しかし、アーティストの仕事の場合は5がまず優先される。生活のために地道に働いて、5がなかなか満たされない人生よりも、「自分流」で、即時5が満たされるように見えるアーティストの仕事は、魅力的に感じる。

 

そのように感じてしまう人たちの「アーティスト志向において気になったいくつかのキーワードを抜き出すと、「気楽」「自分らしく」「好きなことだけ」「一人」「自分流」。」(p239)

これらは『下流社会』(三浦展著 光文社)の「下流度」チェック項目に見られる言葉であるという。

この『下流社会』は、「自分を「下流」だとしてそれに甘んじている者は、「生きる意欲」が低い者である。それを「自分らしさ」と取り違えている、と言い切った」(p237)ことで物議を醸した。

 

この「自分らしさ」を重視することがアーティスト症候群に陥る原因であるらしい。

基本をマスターした上で自然と出てくるもの、自分では意識しないが滲み出てくるのが正真正銘の「自分流」だろう。しかし「自分流」好きな人は、そこんところがわかってない。」(p240)

と著者はご立腹である。

この『アーティスト症候群』の著者は美術家であったため、そのまま「美術家」とも翻訳できる「(自称)アーティスト」が増え続けることに何とも言えぬ思いを抱いているのだろう。

筆者も、技術・知識・才能のどれも全く伴わない自称「ミュージシャン」と出会うと、複雑な気持ちになる。専門教育を受けた美術家・音楽家・その他芸術家には、「アーティスト」とは別種の選民意識があるということだ。

 

「自分流」好きは、一つのジャンルで上手くいかないと、別ジャンルへと渡り歩く。

分野を横断して表現活動をするなら、そこに一貫した方法論やアート観が必要となるだろう。しかし彼にあるのは説明不可能な「自分流」のみである。」(p242)

よって、その人自身が「自分流」の空っぽさに気づくまで、ジャンル横断の旅は終わらない。

 

演劇に関わっている若者を見ると、将来の明確で現実的なビジョンを持ち、ストイックに演劇と向き合っている人ほど、「自分流」では駄目であることを知っていて、勉強家であり、アーティスト症候群には陥っていない。

「自分流」を100%信じ、拘っている人ほど、「役者・演出家」であることをゴリ押しし、他人の芸術に興味がない。押し付けがましい彼らのシバイは、つまらない。

よほどの、自分でも才能のあることに気づいていないような大天才でないと、「自分流」で本物になれることはないだろう。

 

●自然体症候群

次に、女の子っぽい”ポエム”等に見られる、「「自然体」を演出するために、分析とか考察といった「固い」ものを排除して、自動書記的に書き綴っている」(p244)ような「作品」を作る人を自然体症候群としている。

 

彼らは「「私」と私の好きなもの」にしか関心がないので、モチーフとなるのはプライベートな事柄であることが多い。

もちろん、プライベートなモチーフを使った作品によって世界に認められた芸術家はたくさんいる。しかし、「アートは「自然体」ではなく、企みの世界である。」プライベートな事柄でも「問題にして問いたいという目的がある。」(p244)概して彼らプロの作品は、「自然体っぽい」。自然体症候群の人々は、それを見て勘違いしてしまうようだ。

 

そして論理的な言葉を避け、芸術論議をすることもない。

どこかピュアでイノセントなガーリー・テイストで、死なない程度の毒やエロがちょこっとある感じ」「それが「私」の「自然体」」(p246)

    

自然体症候群が憧れる自然体つぶやき。 https://twitter.com/ystk_yrk

 

彼らは「自分の好きなことを追求してたら…(評価されちゃった☆)」「(自然体で)あんまり意識してなかったけど…(評価されちゃった☆)」という未来を思い描いているそうだ。

 

それはそれで理想である。誰だって、楽して世に褒められてみたい。

「女の子の新しい感性」はどこでも人気だ。」(p249)ブログやSNSにポエムを書き続けていたら、女の子に限らず、いつか誰かの目に止まって、何かでデビューできるかもしれない。夢があるではないか。筆者もこんなブログをグダグダ書かずに、ゆるふわポエムとか書こうかな☆、。・:*:・゜`★.。・:*:・♪

 

●別格症候群

「アート」「アーティスト」には「別格」感があるそうだ。

「アート」が他のものでは代替できない計り知れない可能性を秘めていると信用されている限り、「アーティスト」と呼ばれるポジションも盤石である。」(p252)

クラシック音楽も、上記のようなイメージや、「高尚」であるという世間のイメージのおかげで、実際どのような生活をしていようとも、「ダメ人間」のレッテルを貼られることは少ない。

 

「自分流」も「自然体」も吸引力があるが、やはり「別格」の魅力なくして、「アーティストになりたい」という欲求は生まれない。」(p252)

 

やはり誰もが思いたいし、思われたいのだ。「自分は、普通の人とは違う。」と。

自称変人、自称天然、自称メンヘラ等が世に溢れ返っているのも、この承認欲求からきていると思われる。日本中が変人・天然・メンヘラ、そして「アーティスト」。『承認をめぐる病』を抱え、『ヤンキー化する日本』。

 

 

一九七ニ年、日教組によって「ゆとり教育」の提案がなされ、八〇年代、再び「自由」と「個性」の尊重が唱えられるようになります。」(『アート・ヒステリー』大野左紀子著 河出書房新社p151)

このような教育と新自由主義的風潮によって、「ナンバーワンよりオンリーワン」「勉強ができなくても無知でも「個性」があればいい。」という考えが広まる中で、「みんなで」南中ソーランを「根性で」筋肉痛に耐えながら「一生懸命」踊らされたりして育った世代が、現在20代30代。まだ「自分探し」をし、「自己表現」しがちな年頃だ。

 

しかし「自由」と「個性」を尊重し、「俺は/私は人とは違う」と誰の影響も受けようとしない「気持ちが大事」な人の「アート」は、結果似たり寄ったりである。

 

「みんなと同じでオンリーワン」の世界と芸術の世界は、別次元なのだ。

とは言え、「アート」とか「アーティスト」って、かっこいい。アーティスト症候群でいるほうが楽でいいかも。


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アーティスト症候群―アートと職人、クリエイターと芸能人

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