自殺という問題に対して今の私ができるのは「考えること」だと思います。これは私たちができる1番身近な「自殺対策」ではないかと考えました。
「考えること」。今になって思えば、私の説明は不十分だったと思います。私が考えていた考えることによる自殺対策というのは「自殺という問題について考えることで、どういう生き方が望ましいかというテーマまで発展させていくこと」を頭の中で想定していました。そう説明もしていないのに、テーマを提示すればそういう議論に向かっていくだろうと無意識に思っていたんです。考えが浅かったと思います。自らが「自殺について考えるということは答えがでない問題について考えることです」と言っておきながら、自分の想像していた答えに近づけるだろうと考えていたのですから。
そうして始めたシンポジウムも第三回まで行うことができました。三回の開催で気づいたのは、テーマの厳選の必要性と、表現に対する最大限の配慮、あとはネット(今回はとくにはてなブログ)という環境で自殺について考えることのリスクです。
ひとつずつ話し ていきたいと思います。
まず「テーマの厳選の必要性」ですが、これは議論をする際にも言えることだと思うのですが、そのテーマを提示することでどういった方向へ議論していきたいのかということを、テーマを出す側は考えておかねばいけないということを強く感じました。
第三回では自殺はアリかナシかという題名でシンポジウムを開催しました。記事内で前提条件として「これはその人の気持ち次第だ」と述べてはいましたが、テーマの題名が「アリかナシか」の二元論になっている時点で、議論はそこに重きが置かれるだろうということを想定して置くことに甘えがあったんだと思いました。そういった意味でもテーマを提示する側の私は、もっと内容を吟味しなければいけないということを痛感しました。
ふたつめが「表現に対する最大限の配慮」です。
私はネットで意見を言う時に、「〜である」「〜なんだ」と言い切るような表現をしないように気をつけていました。例えば「15時のおやつを食べるやつは絶対太る」とかですね(注意:15時におやつを食べるからといって太るとは限りません)...というのも、ひとつの問題にも様々な視点があり、考え方がひとによってことなります。またネットで意見を言うときにその発言をした背景や事情まで説明するのは限界があります。ネットでは匿名ということもあり比較的意見を発しやすいです。そういった性質上攻撃的なことばを発してしまったりする可能性もあります。ネットでは「〜は○○という表現 は控えた方がいい」というような規則が定められているわけではありませんから、最終的に求められるのは自分の発する言葉がそれを見たときにどう思うかと想像することだと思います。そしてその想像を配慮という形で表現にしていくという姿勢なのではないでしょうか。
もう一つが自分の発した意見に責任を持つことだと思います。ネットのメリットを否定しているような考えになってしまうのですが、気軽に意見が言える環境だからこそ、自分の言葉に責任を持ち、「なぜそう思うのか?」と問われたら、できる限り説明責任を果たしたい...と私は思います。
最後が「ネット(今回はとくにはてなブログ)という環境で自殺について考えることのリスク」です。
ネットというのは不特定多数の人が匿名で意見を発することができる環境です。私ははてなブログとはてなブックマーク、Twitterでできることを考えた結果シンポジウムをえらびました。
でも自殺に関して考えることは続けていきたいので、今後も記事で自殺に関する私の考えについては述べさせていただきたいと思います。とりあえずお金を稼いでMyパソコンを買って、ホームページのつくり方を勉強したいと思います。
今まで参加してくださった皆様には本当に感謝しています。ありがとうございます。これからも努力していきますので、こんなポンコツではありますが見守っていただけると嬉しいです。
長い記事になってしまいました。読んでくださってありがとうございました。
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