価値のない話

思考の隔離部屋。「主食はサブカル・オカズは文学・オカルトはデザート」

マイルドヤンキーには選択肢がないという話

 ついに「マイルドヤンキー」が地上波初放送されたようなので書く。

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 参考自記事:イオンに行くのは「意識薄い系」 - 価値のない話

 まず、マイルドヤンキーの定義だけ見ると、何が彼らをそう駆り立てるのかわからない。スタバでバナナフラペチーノが!と騒いでいる人たちには彼らの行動原理がわからない。マイルドヤンキー圏内で育った人でないとこの感覚はちょっとわからないかもしれない。

 

①「絆」「仲間」「家族」という言葉が好き

 つまるところ、究極の内向き思考なのです。「半径5キロ以内で生活している」彼らにとって、身近な人とのつながりを断ち切られるのは死に値します。だから必要以上に「つながっている」アピールをしないといけないのです。このしがらみが嫌で地方を飛び出す若者が多い一方、しがらみが苦にならないと逆に飛び出す動機にならないのです。

②「地元(半径5キロ以内)」から出たくない

 これは地域によるかなー。「イオンまで7キロ」とかいう看板の地域では否応なしに活動範囲を5キロ以内に収めることは不可能です。おそらく「半径5キロ」の根拠は「名前の違う土地へ行かない」ということだと思います。

③車(特にミニバン)が好き

 こう書くと積極的ですが、現実は違います。「イオンまで7キロ」の地域に住んでいれば車を持つことが暮らしの絶対条件になります。移動手段にするものを飾りたいという気持ちは誰にでもあると思います。女子高生がもこもこの定期入れを使っていたりちょっと高いコートを着て出かけるようなものだと思ってください。

④ショッピングモールが好き

 これは随分な言い方ですね。ショッピングモールしか遊ぶところがないのです。

EXILEが好き

 これも随分ざっくりした言い方ですね。地方では未だに韓流は生きていますし、女子は未だにくうーちゃんが好きなんじゃないですかね。

 

【共通点は「ロールモデルの欠落ゆえに選択肢がない」】

 「みんなで一緒のことをしないといけない症候群」の具現化ですね。

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 全部に言えることは、マイルドヤンキーを作り出したのは若い世代の前の世代が選択肢を与えなかったからだということです。「これしかない」という思い込みがそのまま文化の形成につながったのではないでしょうか。

 

 郊外や地方にいくと、驚くほど「今風の若者」が存在しません。というよりも、「今風の若者」の生活様式が存在しません。よくTVで「渋谷のどこそこのカフェが大人気!」と言ってもまるでピンと来ないのです。彼らが知っているのは地元の商店街の高齢者を対象としている店です。「渋谷のカフェに行ってみたい」と思っても、まず地元にそれらしいものはありません。仕方がないのでイオンのフードコートで全国チェーンの味を食べて満足します。イオンになら渋谷に行かなくても、全国のキラキラしたものが手に入ります。彼らは別にイオンが好きなわけではなく、イオンしか選択肢がないのです。そこで通販ではダメなのか、というのは野暮です。彼らは「品物を手に入れる」のではなく「買いもの」がしたいのです。

 

 地方から都市部にやってきて、個人的にびっくりしたことは「中学生だけでファミレスに入っている」ということでした。地方では車にでも乗らないとファミレスにすらいけません。必然的に家族に頼るか友達の家族と一緒に行動する機会が増えます。これにより、車は多人数が乗れることが条件になります。地方で楽しく過ごすには、大きな車を持っていないといけないのです。

 

 家に帰っても両親は共働きでいませんし、公園で駆け回っていれば楽しかった子供たちは少し成長すると目標にする指針を失います。見本にするべき大人が存在しないのです。個人的な話をすると、自分は「大学生」がどういう人たちなのかを知りませんでした。接することのできる大人は学校の先生と親とザ・地方クズみたいな親戚たちくらいで「大人になったらこうなりたい」みたいに思う気持ちを封印させられていたような気がします。そんな自分を見かねて父が「広い世界を見てこい」と家を追い出していなかったら自分もこの特集の人になっていたとしみじみ思うのです。

 

 勉強を教えてくれる人はいましたが、どうやって生きていけばいいかを教えてくれる人はいませんでした。趣味に生きる人もいなければ、やりがいのある仕事を見せつけてくれる大人もいませんでした。頭ごなしに言われることは「人並みに生きていければいい」「恥ずかしくなく生きればいい」「親を捨てて遠くに行くなんて親不孝」など、温かい言葉のようで非常に束縛された価値観でした。「多様性」を封印されて息の詰まるような思いをしている10代は多いのではないでしょうか。EXILEのCDを持っていれば免罪符として仲間に入れるような環境では洋楽やクラシックを聞いていると言うだけで「気取っている」といじめられます。信じられませんが、ムラ社会の嫌な部分が「マイルドヤンキー」の形成に関係がないとは思えないのです。

 

 もし自分の生まれ育った環境に「多様性」があって、本を好きなだけ読んでも誰も文句を言わないどころか嫌味一つもなく「本が好きなんだね」と認められる地域だったらどんなに楽しかっただろうか。スポーツを押し付けられることもなく「苦手なんだね」で済んでいたらどんなに楽しかっただろうか。一生懸命やる人を馬鹿にしていじめる人が少ない地域だったら、あの人は今頃何をしているだろうか。「マイノリティ」を無意識に排除し続けた結果と選択肢の貧困さががつまるところの「マイルドヤンキー」なのではないでしょうか。

 

 現在ずっと地方に残っていて連絡を取ろうと思える友達はいません。どこかよその土地で修業をして帰ってきて「やっぱりこの街はクソだよな」と愚痴をこぼし合う友達くらいでいいかな、と思っています。