平和を構築する手段として、戦争をも考える!? 英語が嫌いな方が国際関係論に向いている!? 平和構築学とはどのようなものなのか。大人気シリーズ「高校生のための教養入門」今回は、紛争解除人として紛争解除の第一線で活躍する伊勢崎賢治先生にお話を伺った。(聞き手・構成/山本菜々子)
建築家志望から紛争解除人に
―― 伊勢崎先生は、日本代表としてアフガニスタンに行き、DDR(Disarmament(武装解除)、Demobilization(動員解除)、Reintegration(社会復帰))などの活動を行い、紛争解除の第一線で活躍されています。人呼んで、紛争解除人! なんだか、強そうですね。さて、このDDRとはどのようなものなのでしょうか。
アフリカの内戦なんかを思い浮かべてください。現政権と反政府ゲリラが戦っている。どっちかが完全勝利しちゃえば、それでいいですが、そうならない場合が多い。それで、戦闘が長引くと、どちらの脳裏にも、部下や色んな人々の手前、勝利を諦めたとは言えないけど、やっぱ、このまま戦っていても完全勝利ないかも、っていう思いが芽生える時があります。
そういう時に、チョット一日だけでいいから戦闘やめてみない? って、第三者が入れる隙ができる。「停戦合意」って言います。そこで、第三者は国連の場合が多いですが、その停戦を和平に持っていくべく工作をするんですね。
つまり、双方が、銃を下ろしても、それなりの政治的な利権が確保できるような。銃による戦いではなく、ディベートによる戦いにシフトしても、それぞれの権益が確保できるような。こういうビジョンが双方で共有できると、銃をお互い下ろすことが、そのビジョンに向かって歩き出す第一歩になる。これが、武装解除ですね。
その中で、今まで人を殺すことしか知らない兵士や民兵をどうするかということがいつも問題になります。ほとんどの場合、一旦、一般市民に戻す――動員解除といいます――ことになるのですが、それだけじゃ不安だから、少なくとも経済的な困窮が再び彼らに銃をとらす理由とならないように、職業訓練などを施す。これが、社会復帰事業です。
―― なるほど。そのプロセスに関わっていたんですね。「紛争解除人」として実務家として活躍し、現在は、立教大学で「平和構築学」について教えられているとのことですが。先生は、大学進学の時から戦争や平和などに興味をもっていたのでしょうか。
そんなことありません。今の仕事には全然興味がありませんでした。大学進学の際にも、ぼくは画家になるか建築家になるか迷っていました。当時は、「国際協力」という言葉自体も流通していなかったし、僕の意識にもありませんでした。
大学は建築家をめざそうと思って、早稲田の建築科に入りました。建築デザインの仕事がやりたかったんです。自信があったのですが、ぼくのデザインは全然評価されなくて。気が付けば、大学院まで行くことになりました(笑)。
当時早稲田には吉阪隆正という有名な建築家の方が教えていました。近代建築を代表する巨匠です。彼だけが僕のデザインを理解してくれて、成績は悪かったのですが、彼の研究室に無試験で入れてもらいました。しかし、入った最初の年にガンで吉阪さんが亡くなってしまったんです。
―― 師匠を失ってしまったのですね。
そうですね。そこからぼくの人生がおかしくなったような気がします(笑)。師匠を失ってしまい、ぼくの関心は民族建築に向きました。建築家がデザインしてつくったものよりも、歴史の中ではぐくまれた造形に魅力的に感じてはじめるのです。その興味が高じて、廃墟とか、密集したスラム街に傾倒してゆきます。スラムと言えばインド。当時、ヒッピー以外の方法では難しかった社会主義のインドに長期滞在するためだけの理由で「留学」しました。
着いたら、早速、スラムの中に潜り込むために、住民運動を組織する現地NGOに所属することにしました。インドは社会問題の百貨店のような場所です。ですから、社会運動が活発で手法も進んでいます。
スラムの中に入ってみると、犯罪の巣窟だし、政府当局による強制撤去もあって住民の基本的人権が侵されている現実を目にするわけです。そこから、「造形」ではなく社会問題としてのスラムをいやおうなしに考えるようになり、ここから、世の中の構造的な問題を扱う分野に入っていきました。
―― はじめは、美しいからという理由だったのが、だんだんと社会問題に触れていくうちに変化していったのですね。
そうです。そのあと、給料と待遇がいいのでアメリカを本部にする国際NGOにつきました。僕は建築家の時から自分の能力と労働に見合った報酬をちゃんと頂くという信念がずっとありますので、日本ではNGOというとあまり給料の高いイメージはありませんが、外国の場合は国連なんかより報酬がいいんです。そこで、最初の赴任地がアフリカのシエラレオネになりました。
その後ケニア、エチオピアとアフリカに10年いました。そして、2000年から国連に呼ばれ、内戦直後の東ティモールで安保理から任命され行政官として、暫定政府の知事をしました。そして、2001年に内戦中のシエラレオネに戻り、国連平和維持活動の中でDDRの責任者になります。2003年にも日本主導で行われたアフガニスタンのDDRを指揮しました。そして、今は大学で「平和構築学」を教えています。
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