対馬丸遭難:救助に当たった漁船員の手記 記念館に寄贈

毎日新聞 2014年05月12日 06時30分

寄贈式の前に訪れた対馬丸犠牲者の慰霊塔「小桜の塔」で高良政勝理事長(右)から説明を聞く杉本佐賀子さん=那覇市で2014年5月11日午前9時47分、佐藤敬一撮影
寄贈式の前に訪れた対馬丸犠牲者の慰霊塔「小桜の塔」で高良政勝理事長(右)から説明を聞く杉本佐賀子さん=那覇市で2014年5月11日午前9時47分、佐藤敬一撮影

 太平洋戦争中の1944(昭和19)年8月、沖縄から長崎に向かう途中で米潜水艦に撃沈された学童疎開船「対馬丸」の遭難者を救助した漁船乗組員の手記が11日、遺族から対馬丸記念館(那覇市)に寄贈された。児童ら1400人以上が犠牲となった悲劇から今年で70年。記念館によると、救助者による直筆の手記が見つかったのは初めてといい、「対馬丸の悲劇を後世に伝えていく貴重な資料」として6月から展示する予定だ。

 手記を書いたのは高知市の杉本寛(ゆたか)さん(94年に66歳で死去)。妻の佐賀子(さがこ)さん(80)が遺品の整理中に、寛さんの机の引き出しから折り畳まれただけの3枚の便箋に救助の様子が詳細につづられているのを見つけ、保管していた。

 対馬丸が鹿児島県・悪石島の北西約10キロで撃沈されたのは44年8月22日午後10時過ぎ。手記によると、鹿児島県山川町(現指宿市)のカツオ漁船「開洋丸」の甲板員だった寛さんは、翌日の23日午前9時ごろ、現場近くで操業中に、日本軍の航空機から投下された通信筒で惨状を知った。

 遭難現場に到着したのは午後2時ごろ。「裸になり、ロープを腰にくくり海中に飛び込み、遭難者に接近、ロープをイカダに結びつけ、再三繰り返しながら、50、60人救助した」「約15時間近くも泳いでいる者、救命胴衣着用したままボートの下敷きになり、死亡している方がたくさんいた」。手記には当時の様子が生々しく記されている。最後は「救助者の氏名すら一人として分からぬまま別れた。今どこでどうして生きているものか知りたい」と結んでいる。

 11日の寄贈式で佐賀子さんは「手記を通じて、戦争の恐ろしさ、悲しみを一人でも多くの人に知ってほしい」とあいさつ。「手記を書いていたことは知らなかったが、夫は悲しい事件を残さなければという思いで書いたのだと思う」と語った。

 寄贈式には対馬丸の生存者も出席。当時4歳で「開洋丸」に救助され、現在は語り部をしている照屋恒(ひさし)さん(74)は「自分が救助された様子が分かった。手記があることで対馬丸の歴史を後世に正しく伝えられる」と喜んだ。当時19歳で国民学校の引率者だった糸数裕子(みつこ)さん(89)は「自分も助けられたのではないかと思うと、会ってお礼をしたかった」と悔しがった。

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