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Listening:<特集ワイド>「反日」じゃない?もうひとりの「朴槿恵」

2014年04月14日

山奥にぽつんと建つ「日韓友好平和之塔」。訪れる人もほとんどいない=京都府相楽郡南山城村で、鈴木琢磨撮影
山奥にぽつんと建つ「日韓友好平和之塔」。訪れる人もほとんどいない=京都府相楽郡南山城村で、鈴木琢磨撮影

 「マンナソ パンガプスムニダ(お会いできてうれしいです)」。先の日米韓首脳会談で、安倍晋三首相の韓国語での呼びかけにニコリともしなかった朴槿恵(パククネ)大統領。歴史認識問題を巡って冷え込む日韓の仲を象徴するシーンに見えたが、どうやら真相は違うらしい。そもそも大統領はどれくらい「反日」なのか? 彼女と日本の知られざる接点を追った。

 「あれは同時通訳のイヤホンをつけてたから」。ソウルに電話をすると、青瓦台(大統領府)に太いパイプのある人物が言う。なるほど改めて映像をチェックすると、朴大統領は両耳にしっかりイヤホンをしている。「日本のメディアが安倍さんのあいさつを大統領が無視した、と書きたてるから側近に尋ねたんだ。すると、とんでもない、聞こえなかっただけだよ。いたずらに悪いイメージをつくりあげるのはよくない」

 イヤホンさえなければ、こちらこそ、とほほえみ返した? そうあってほしいが、カタブツの印象はつきまとう。あれは大統領就任直後の昨年3月1日、独立運動記念式典でこう発言したのに驚いた。「加害者と被害者という歴史的立場は1000年の歴史が流れても変わりようがありません」。いくら国家主義的な路線をひた走る安倍政権への警戒感があっても、一国のリーダーがこう言い切ってしまえば、未来などない。

 が、さかのぼれば、もうひとりの「朴槿恵」がいる。

 朴大統領と安倍首相とが初めて会ったのは2004年9月、ソウルでだった。当時、朴大統領はハンナラ党(現セヌリ党)代表、安倍首相は自民党幹事長。歴史問題について意見を交わすがトゲトゲしさはなし。「朴槿恵さんの父は朴正熙(パクチョンヒ)元大統領、安倍さんの祖父は岸信介元首相。2人とも名家で、政界のホープですから気も合っていました」。そう語るのは国際ジャーナリストの若宮清さん(67)。2人とは旧知の間柄で、ソウルでの朝食会をセットした。

 続く06年3月には東京で小泉純一郎首相(当時)と会談する。安倍首相とも再会。このころも日韓関係は最悪といわれていたが、小泉首相はワールド・ベースボール・クラシックで韓国が日本を破りベスト8に進出したことを祝い、友好ムードを演出した。歴史問題で平行線をたどるものの、大統領は記している。<友人もたびたび会って話してこそ、お互いを理解しよい関係を維持するように、日本とも心をうち明ける対話を続けたら少しずつ解決すると信じる>(「絶望は私を鍛え、希望は私を動かす−朴槿恵自叙伝」晩聲社)

 その年の5月、朴大統領は統一地方選の遊説中、暴漢に襲われる。カッターナイフで顔を切られ、数十針縫う。安倍首相は若宮さんに見舞いを兼ね、親書を託す。<両国関係を兄弟や姉妹の関係のように築きあげられることを望みます>。「麻布十番で20万円の神戸牛と和菓子を買って持っていきました。手渡すと朴槿恵さん、安倍さんの心遣いを喜んでおられました」

 ところで、朴大統領の日本観に影響を与えただろう初来日はいつか、これがはっきりしない。おそらく1981年あたりだろう。母の陸英修さんが74年8月15日の光復節(日本の支配から解放された祝日)の式典で凶弾に倒れ、彼女は22歳でファーストレディーになる。さらに79年10月26日、父の朴正熙大統領も韓国中央情報部(KCIA)部長の銃弾に倒れる。<血の跡が消えない父の服を洗いながら、私は、人が一生のあいだに流す涙を流した>(自叙伝)。そんな彼女をひそかに招待した日本人がいたというのである。

 「朴槿恵さんと弟さんだったかしら。私が飛行機のチケットを手配したの」。そう明かすのは岸元首相が初代会長を務めた日韓協力委員会の仕事を手伝っていた寺田佳子さん(73)。招いたのはシンクタンク「国策研究会」を主宰する矢次一夫氏だったらしい。日韓国交正常化(65年)へ向けて水面下で動いた政界の黒幕である。「お慰めしたかったんじゃないですか。父上と親しかったですから」

 そして時は流れ、六本木にあった寺田さん経営のレストランに国会議員になった朴大統領が現れる。99年11月、外務省に招待されての来日だった。「彼女は上はピンクのジャケット、下は黒いロングスカート。気品があって、特別な存在って雰囲気だったわ。父上の鼻の手術をした日本人の執刀医もお見えになって。口数は少ないけれど、日本への好意は伝わってきました。翌年はソウルでもお会いしましたが、同席者が、結婚はいつですか、と問いかけると、私は政治と結婚するの、とおっしゃった」

 かつての朴大統領を知る日本人はそろって、彼女の強硬な「反日」に首をかしげる。歴史問題は譲れないにしても、もっと柔軟性があったはず、と。「親日派のレッテルを貼られた父を意識しすぎている。彼女は学生時代、中国語を勉強した。中国はそれなりに知っている。それに比べて、日本を知らない。知人はいても、心を通わせる人までは」(若宮さん)。そうだとすればなお、自身も書いた通り、たびたび会ってこそだろう。なぜ膝詰めで話し合わないのか? ソウルの書店をのぞけば、村上春樹の小説が積まれているのに。

 古本屋で一冊の本を見つけた。朴槿恵著「新しい心の道」。翻訳者は神谷(かみたに)康介、出版は79年とある。神谷さんはすでに亡くなっていたが、夫人の吉子さん(70)が堺市にいた。旧満州(現中国東北部)生まれの神谷さんは父が満鉄勤務の日本人、母は韓国人。「帰国船に乗らず、韓国にとどまっているうち朝鮮戦争が勃発し、主人は出自を隠して生きてきました。貧乏のどん底を味わいながら、いつかは日韓の懸け橋になろうと歯を食いしばり、ようやく日本に戻ったのは73年でした」

 もうひとつの祖国を「漢江の奇跡」へと導く朴正熙大統領にひかれた神谷さんは、母を失いながらも父が提唱した「セマウル(新しい村)運動」の基本理念「セマウム(新しい心)運動」の先頭に立つ娘の思いを伝えたかったという。「この本ができた日、朴正熙大統領が射殺されたんです。その数日前、青瓦台から電話があって、大統領と朴槿恵さんに本を持参してうかがうことになっていました。結局、国葬で霊きゅう車を見送ることになって……」

 かれこれ1時間、山道を走ってきた。「イノシシが出ますよ」。ぼそっとタクシー運転手がつぶやく。三重県境にほど近い京都府南山城村に高さ18メートルの塔がそびえている。<日韓友好平和之塔>。84年に完工したこの巨大モニュメントを発案したのも神谷さんだった。古びた冊子には日韓議員連盟の会合で、当時の安倍晋太郎外相に完工を報告する神谷さんが写っている。どこか寂しげな塔を見上げながら、思った。朴大統領と安倍首相こそ、ここに来るべきでないか、と。【鈴木琢磨】

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