戦争が終わった後、ワイズさんは別々に捕まえられた妹がアウシュビッツのガス室で死んだことを知った。1948年に残った家族はオーストラリアに移住した。
「悪夢の場所であるヨーロッパからできるだけ遠い所に隠れたかったんです。しばらくは医師のガウンのような制服を着た男性をまともに見ることができませんでした」。戦争当時パスポートを偽造して生きながらえた両親は、死ぬまで50年以上も姉妹にホロコーストについて話さなかった。生死の道を共に歩んだ姉にさえ、悲惨な記憶について話すことができなかった。ワイズさんは「1995年にオーストラリアで開かれたアウシュビッツ解放50周年行事で、姉は講演者として証言した。あの時、姉の記憶を観客席に座って聞いたのが最初で最後」と話した。
1998年にワイズさんは夢にまで見たイスラエルに定住し、翌年からホロコースト追悼記念館「ヤド・バシェム(Yad Vashem、ヘブライ語で名前を忘れるなの意)」でガイドとしてボランティア活動を開始、今年で15年目を迎えている。ドイツ人旅行客も案内する。「ドイツ人旅行客を案内すると、彼らは常に『今はドイツについてどう思っているか』と私に質問します。昔の世代の過ちを子孫になすり付けるつもりはありません。しかし『絶対忘れず、絶対許さない(Never forget never forgive)』と返事します」
10代という若さで旧日本軍に踏みにじられた慰安婦の女性の話をすると、ワイズさんは「考えられない。本当にひどい」といった言葉を繰り返した。ワイズさんは「絶対忘れず絶対許してはならない。それが歴史を否定する日本政府に対する方法だ」と話した。ワイズさんは一瞬たりともホロコーストを忘れたことがない。最近でもワイズさんは14人の孫と4人のひ孫に会うたびにホロコーストについて語り「絶対に忘れてはならない」と言い聞かせている。