360年余の伝統を誇る大垣まつり
大垣まつりの軕の起源は、慶安元年(1648年)に大垣城下町の総氏神であった八幡神社が、大垣藩主戸田氏鉄公により再建整備されたおり、城下18郷が喜びを神輿3社の寄付で表し、大垣10か町が10両の軕を造って曳回したのが始まりといわれています。
延宝7年(1679年)、藩主戸田氏西(うじあき)公から、「神楽軕」「大黒軕」「恵比須軕」のいわゆる三両軕を賜り、それを機に10か町は、軕の飾りつけに趣向を凝らしていきました。
濃尾震災や先の大戦によって多くの軕を失いますが、その後、修復や復元、購入したなどにより再建が進められ、平成24年に2両の軕が復元され、70年ぶりに全13両軕が勢揃いします。
13両のやまによる華麗な巡行
試楽(5月10日)は、午前8時45分から八幡神社前で各軕が奉芸を行い、午前9時30分からは市役所玄関前で掛芸披露をします。
その後、軕は自由に市内を巡行し、午後7時から夜宮を行います。
本楽(5月11日)は、午前8時45分から八幡神社前で奉芸を行い、その後、13両の軕が行列をなして城下町を巡行します。
午後4時30分から大垣まつり行列、午後7時からは夜宮を行います。
この地方最大の祭りだけに、大勢の人たちが沿道を埋めつくし、軕の美と沿道の熱気が城下町をつつみます。
平成26年5月10日(土)、11日(日)
巡行する軕の居場所をリアルタイムでお知らせしています。
詳細は上のバナーをクリックして、大垣市観光ポータルをご覧ください(※大垣まつりの期間中のみ運用しています)。
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試楽 5月10日(土) |
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№ |
時 間 |
内 容 |
場 所 |
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1 |
8:45~10:00 |
奉 芸 |
八幡神社前 |
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2 |
9:30~12:00 |
掛芸披露 |
大垣市役所前 |
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3 |
12:00~18:30 |
出軕自由巡行 |
市内一円 |
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4 |
19:00~21:00 |
夜 宮 |
八幡神社前 |
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本楽 5月11日(日) |
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№ |
時 間 |
内 容 |
場 所 |
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1 |
8:45~10:00 |
奉 芸 |
八幡神社前 |
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2 |
10:00~17:00 |
出軕巡行・西回り |
市内一円 |
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3 |
16:30~17:00 |
大垣まつり行列 |
新大橋交差点~八幡神社前 |
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4 |
19:00~20:10 |
夜 宮 |
八幡神社前 |
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5 |
20:45~21:00 |
お頭渡しの儀 |
八幡神社拝殿 |
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早朝より各軕が順次、八幡神社前で奉芸を行う。(試楽・本楽 8時45分~)
試楽では、奉芸を終えた各軕が大垣市役所玄関前に移動し、掛芸披露をする。
この行事は、かつて大垣藩主が大垣城内に軕を曳き入れて上覧したことにちなんだもので、現在では、藩主に代わって大垣市長がその役を務めている。(試楽 9時30分~)
夕刻には再び13両軕は八幡神社前いに集合する。午後7時に軕の提灯の点灯を行い、奉芸や軕の回転をした後、曳きわかれる。※本楽では奉芸を行わない。(試楽・本楽 19時00分~)
本楽では、八幡神社前での奉芸後、城下町を13両軕が一堂に揃って巡行する。道順は東回り・西回りの年次交代で、2.2里(約8.8km)を巡行し、平成26年は西回りとなる。(本楽 10時00分~)
新大橋から八幡神社前までの間を、神輿と13両の祭軕による「大垣まつり行列」を行う。(本楽 16時30分~)
会場には約600店もの屋台が立ち並び、賑やかな祭りとなる。
このやまは、別名「御払やま」とも「市やま」ともいい、本町・中町・新町の三町内が毎年交替で曳き、常に行列の先頭を行きます。人形神楽としては、350年ほどの歴史を持つ貴重な文化財であり、躍りを舞う二体の人形は、巫女と山伏のニ体からなっており、舞台の下から人が直接棒で操る大変珍しいものです。
巫女は鈴を鳴らしながら、静かに祈祷や清めの舞を行い、山伏が両手に熊笹を持ち、湯桶の湯の花を撒き散らして、湯立ての清めを行います。この時に湯の花を撒き散らす紙ふぶきは清めや病魔退散の意味があるとされています。
人形の巫女の名は昔、大垣の八幡神社に市とよばれる美しい巫女がいたことから、市と呼ばれています。
このやまは、「神楽やま」「恵比須やま」と同じく、藩主戸田氏西公から下賜されたものです。上部には、米俵2俵を置き、その上には、右手に小槌を持ち、左肩に稲袋を荷い、七福神のひとつと教えられている福の神の大黒天がふくよかな笑みをたたえ、運慶の作といわれています。
魚屋町・竹島町・俵町の三町内が年々交替で曳き、このやまの当番町にあたると、町内では、大国主命の使獣である鼠は殺さない習慣がありました。
延宝7年(1679年)、戸田氏西公が恵比須神を祀るにあたって、摂津の広田神社に祀られている西宮の恵比須神に、人を派遣して祈願したといわれています。
恵比須大神は、左甚五郎作と伝えられ、顔面の塗料が剥げていたので、塗師が塗り替えようと顔面に手を触れた途端、口から火を吹いたといわれています。
本楽の夜、夜の行事が全て終了し、各町のやまが曳きわかれした後に、その年の恵比須やま責任町から、次の年の責任町に恵比須神のお頭を渡す儀式(お頭渡し)が、古来と同じ手順で今でも行われています。
このやまは、船町・伝馬町・岐阜町・宮町の4町内が年々交替で曳いています。
このやまは、謡曲「高砂」を題材にしたところから、別名「高砂やま」とも呼ばれ、2度に渡りやまが焼失しましたが、平成8年に51年ぶりに復元され、現在11輌ある中で一番大きなやまです。屋形人形には尉と姥が置かれ、本やま人形は住吉名神、前やま人形は神主友成が置かれています。
高砂にあわせて、住吉名神が袖がえしや面かぶりのからくりを見せながら激しく舞います。対照的に神主友成は、静かな動きをしながら中央まで進み、瞬時に帆掛け舟に変わるからくりは圧巻です。
中町の布袋やまは、古来謡曲「加茂」にちなんだやまとして、とりわけ謡の声が良く、また、やまの設備も立派です。
唐子人形が右手に扇を持って舞いつつ、やま上に向かって右先の隅にある台に近づきます。それから、台上に左手をつき、片手で逆立ちをし、右手の扇を開いて転舞する仕掛けです。離れからくりは、この布袋やまだけです。
明治24年に濃尾大震災で焼失しましたが、その後、明治35年に再建されました。昭和20年の空襲により再び焼失しましたが、平成24年に再建されました。
このやまは、別名「天神やま」とも呼ばれています。濃尾震災で焼失しますたが、大正3年(1914年)に再建され、2年後に曳やまをし、8年後には漆塗を行い、現在に至っています。
やまのからくりは、塩振り・文字書き・額持ちの3体で、文字書きは糸操りと間接扱いの併用ですが、種板を使わないのが特徴で、約2m離れた下から操作する人が筆柱を動かし、一筆で書き上げますが、大変な熟練を要します。
このやまの見送りは、大橋翆石画伯の筆による「虎」が描かれており、前水引は画伯には珍しいといわれている水墨画の「竜」が描かれています。
このやまは、別名「道外坊やま」とよばれており、慶安元年(1648年)に作られました。からくり芸は、赤い頭巾を冠り、金色の瓢箪を振りかざした老人が、鐘と太鼓の賑やかなお囃子につられて、水上で踊り狂う大鯰を抑えようとするもので、誠に面白いものです。
これは、室町時代の高僧が「泥水の中に住むヌルヌルしたウロコのない鯰を、底の低い丸い瓢箪で押えることができるか」と問い、この問題を画僧の如拙が絵に描いたのが国宝「瓢鮎図」で、これをもとにして作られたのが、鯰やまの鯰押えです。
竹島町のやまは、明治以前には朝鮮やまがあり、御所車様式のやまを中心に、朝鮮通信使を模した仮装行列で、本来は練り物でした。
しかし、明治維新の神仏分離令などによって廃止され、代わって登場したのが「榊やま」でした。
屋形には、榊と神鏡が飾られており、天鈿女命が榊と鈴を持って、静かに神楽を舞います。天鈿女命が白木台の上の鈴と榊を手に握るところが、このからくり人形の見所です。
屋形の中に浦島太郎、その前に乙姫・竜神・亀、前やまは唐子を配置し、謡曲は竜神に関するものを使い、 竜神が舞い、亀が泳いで、その背上の玉手箱を開くと蓬莱山が現れる仕組みです。
勾欄は朱塗の角形、水引前面の飛竜幕は高波の盛り上がり、下幕は金糸で紅羅紗に大波濤が刺繍してある本楽用のものと、試楽用に白地の幕があります。
屋形は竜宮上をかたどり半円を描くものであり、見送りの代わりに虎の皮を使用するなど、他のやまに類似しないのが浦嶋やまの特徴です。さらに後やまには登り龍の見事な彫刻をあしらう槍と幟があります。
昭和17年より人目に出ることはなく昭和20年に焼失しましたが、平成24年再建されました。
このやまは、初めは石曳やまで、大垣城の石垣を積む折、赤坂の金生山で採取した石を運ぶ車を改造し、やまにしたところからこう呼ばれました。
その後、江戸中期に石曳やまに変わって登場したのが、一層中壇の前やまに天女の人形を置き、二層のやまの屋形に彦火火出見命の人形を安置し、その前で赤面竜神人形が舞をするからくりやまでした。
しかし、文化12年(1815年)の大洪水で大破し、後に改造され、現在は少女の躍りを披露する善美を尽くした芸やまに変わり、舞台で子どもによる舞踊を披露し、観客の目を楽しませてくれてます。
このやまは、琵琶湖の景勝地である竹生島の弁財天を首座に配することで、別名「弁天やま」と呼ばれています。前に配した童女が、からくりによって舞う中に、人形の胴が割れて白兎に変じ、餅つきを始めて餅をまき、祭り客にふるまいます。
また、松竹やまは前部が躍り舞台となっており、子ども舞踊が演じられ、からくりと舞踊を併用した唯一のやまです。
愛宕軕は別名八幡軕ともいいます。上段屋形には祭神・神功皇后を祀り、軍扇・太刀を持ち、男装でお座りになり、神功皇后は身重ながら新羅に出征され、凱旋後、応神天皇を無事出産された話が「古事記」にあり、安産の神として信仰されています。
中段左に武内宿祢、右に狂言師、下段には采を振り先導する麾振り人形を置き、からくり芸は能「弓八幡」を題材とし、老翁が高良の神(武内宿祢の神霊)に変身し、神舞を舞います。神官が箱を開けると二羽の鳩が現れ、豆を拾います。
名を謡曲「猩々」から取ったものです。やまは二層で正面と両脇(一層と二層の間)に千匹猿の彫刻があり、一匹も同じ様相がないといわれています。
からくり芸は、二層のやま上に大床板(トイ)を突出し、先端に大酒壺を置き、猩々の人形が壺に顔を突っ込み、鯨飲すれば酔って紅顔となります。猩々はたちまち獅子に変わり、大酒壺は割れて大輪の牡丹の花が咲き乱れ、獅子はこれにたわむれ舞い狂います。
昭和20年7月、戦災で惜しくも焼失した先代の猩々やまが、平成13年3月に56年ぶりに見事に再建され、以降、大垣まつりに参加しています。