2014-05

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『アメイジング・スパイダーマン2』と『キャプテン・アメリカ:ウィンター・ソルジャー』を比較してみる

 マーク・ウェブの監督による『アメイジング・スパイダーマン2』を見てきた。
 もともとこの映画、私としては全く期待していなくて……正直、見に行くかどうかを迷ったほどだった。と言うのも、前作に全くのれなかったから。……やっぱり、スパイダーマンの映画化と言うと、どうしたってサム・ライミ版と比べちゃうからねえ。
 サム・ライミ版の場合、「現在のアメリカを描く」などという方向性はこれっぽっちもなく、「初期のスパイダーマンのイメージをひたすら原作に忠実に再現する」という意志しかなかった。それゆえ、作中の雰囲気は現在と言うよりもむしろ60年代~70年代のアメリカを思わせるものになっていた(とりあえず二作目までは)。
 一方、改めてリブートした『アメイジング・スパイダーマン』はと言うと……キャラクター造形は、明らかに「現在のスパイダーマン」を思わせるものだった。また、改めてスパイダーマンのオリジンを描き直すため、前半の展開はどうしたってリブート前と同じになってしまうわけだけど、それ以外の部分に関しては、原作コミックから「今までの映画化では使われていないネタ」が注意深く選ばれていたため、サム・ライミ版の三部作を見た後でもそれなりに楽しめるようになってはいた。
 ただねえ……やっぱりスパイダーマンのオリジンに関してはそんなにあからさまな改変はできないわけで。すると、「現在のアメリカ」に「現在のスパイダーマン」を放り込んだ上で、「60年代のストーリー」を展開する、ということになる。そりゃあぎこちなくもなりますよ。……それにねえ、もの凄く細かいことを言うけど、「おちゃらけてるスパイダーマン」は、ベンおじさんがらみの事件を追ってるときには出したらダメですよ。スパイディはなんでもかんでもふざけてるわけじゃないですから。
 それからねえ、なんかね、どっかで「今回の『アメイジング・スパイダーマン2』では、衝撃的な事件が起きる!」とか書かれてるのを目にしたわけですよ。そんで、キャストを見ると。……いやね、このキャラクター配置で衝撃的事件が起きるとしたら、どっからどう考えても、グウェンのアレしかねーじゃねーかと。まあそれはそれとして、そんなスパイダーマン史上の大事件を映画に取り込むとして、ちゃんと映画化できるのはやっぱサム・ライミしかいないんじゃないのか? 少なくとも、アメコミファンとしての自分が見たいようなスパイダーマンは、もう見られないんじゃないか? などという疑念ばかりが募るのでした。
 ……まあ、そんなわけで、事前の期待度はゼロの状態ながら、『アメイジング・スパイダーマン2』を見に行きました。それで、冒頭のあたりに飛行機の墜落シーンがあったわけですが、これがグダグダでね……この映画大丈夫なのかと、別の意味でハラハラドキドキすることになりました。
 ところが、ですよ。……いざスパイディが画面に登場し、ニューヨークの高層ビル群の狭間で華麗なアクションを展開し始めると……おお、ちゃんとスパイダーマンになってる!
 スパイダーマンはちゃんとスパイダーマンだし、ピーター・パーカーはちゃんとピーター・パーカーになってるわけですよ。……二作目になって「オリジンを描かなければならない」という呪縛から解放されたぶん、「現在のアメリカの中で現在のスパイダーマンを展開する」ということが伸び伸びとできたんですかねえ。
 もうね……中盤からはずっと、劇場の暗闇の中でウルウルしっぱなしでした。スパイダーマンがスパイダーマンであることの悲しみも喜びも、そしてその両極の間で揺れ動くさまも、きちんとスクリーンに投影されている。主演のアンドリュー・ガーフィールドが困惑して「What?」と問い返すときの、その弱々しい口ぶりがいい。もはやピーター・パーカーそのものにしか見えない。
 まあ、『キャプテン・アメリカ:ウィンター・ソルジャー』は事前の期待度がマックスで、『アメイジング・スパイダーマン2』は期待度ゼロだったということも少なからず影響しているとは思うのですが……いざ両作を見てみると、私の中では、『アメイジング・スパイダーマン2』の圧勝という、まさかの結果が生まれたのでした。


 さて……改めて考えてみても、『ウィンター・ソルジャー』を取るのか『アメイジング・スパイダーマン2』を取るのか、ということは、選ぶ人の姿勢が問われることになる重要問題であるように思える。
 個々のシーンのアクション演出であったり、様々な要素をさばいて整理する脚本の質であったり……と、項目ごとに採点していくのであれば、どのような観点から見ても『ウィンター・ソルジャー』が『アメイジング・スパイダーマン2』より優れていることは明らかだと思う。にもかかわらず、私自身は、『アメイジング・スパイダーマン2』の方に、はるかに強く心打たれたのだ。……ここでは、いったい何が起きているのか?
 それはつまり、個々の要素に分解してばらばらに見ている限りでは見えてこない長所が『アメイジング・スパイダーマン2』にはある、ということなのではなかろうか。……私の考えでは、この映画においては、スパイダーマンというキャラクターがどんなキャラクターであるのかを表現するために作中の全ての要素が奉仕し、結果として有機的に統合されるに至っているのだ。
 作中で、スパイダーマンがニューヨークのビルの谷間を飛び回るアクションが展開される。そのときわれわれ観客が感じる快楽は、スパイダーマン自身がヒーローであるゆえに手にする喜びと、正確に一致している。……そして、スパイダーマンというキャラクターの本質とそのアクションが一致しているからこそ、そのアクションが展開される場、周囲の環境としての、ニューヨークという街の様相が作中にあぶり出されることにもなる。
 スパイダーマンは、ニューヨークに生きるからこそスパイダーマンなのであり、ニューヨークに生きるからこそ、どのようなアクションを展開するのかも、必然的に導き出されることになる。……そして、そのようなスパイダーマンと周囲の環境との関係が一体化して描かれているからこそ、ニューヨークという街に暮らすふつうの人々の姿が浮かび上がり、彼らにとってスパイダーマンとはどんなヒーローであるのかが明らかになっていくのだ。
 『アメイジング・スパイダーマン2』という映画の最大の美点は、スパイダーマンと市井の人々との関係が丹念に描かれることにこそある。例えば、ある人物がスパイダーマンに救われたとき、そのどこにでもいる凡人との細かい会話まで拾われる。あるいは、手助けされた消防士たちは、一段落ついたところでスパイディとハイタッチするところまで描かれる。……もちろんそれらは、純粋に個々のシーンの完成度だけを見るならば、むしろ冗長性を増すような要素であると言える。しかし、それらがあることによって、街に暮らすふつうの人々の息吹が作中に織り込まれていくことになるのだ。
 スパイダーマンというヒーローは、ニューヨークという街の中では賛否両論である。肯定する人もいれば否定する人もいる。そこにさらに、「スパイダーマンに直接救われた人」も加わる。救われたことによってスパイダーマンへの印象が変わる人もいれば、自分の思い通りに救ってくれなくて逆恨みする人もいれば、救われたことに感激して過剰に肩入れしすぎてしまう人もいる。
 そして何より、子供がいる。なぜ子供がスパイダーマンを好きになるのかについて、この作品では十分なウェイトが割かれて描写される。……そんな描写の積み重ねによって、多種多様な人々が共存する場としての街の有様が立体性を獲得し、その街に生きているからこそ、スパイダーマンはスパイダーマンになりうる。
 スパイダーマンは、ふつうの人々との間に関係を切り結ぶ。だからこそ、スパイダーマンが本当の窮地に陥ったときには、スパイダーマンの熱烈なファンである子供に、逆に救われるようなことだってありうる。……『アメイジング・スパイダーマン2』のスパイダーマンは、確かに、「あなたの親愛な隣人」と呼ぶのにふさわしいヒーローになっているのだ。


 以上のように整理してみると、『アメイジング・スパイダーマン2』と『キャプテン・アメリカ:ウィンター・ソルジャー』の違いも明らかになるかと思う。
 確かに、『ウィンター・ソルジャー』においては、個々のアクションシーンの質自体は高い。しかし一方で、キャプテン・アメリカというキャラクターであるからこそこのアクションでなければならない、という点が全く存在しない。アクションからキャップの人となりがわかるような部分もない。盾を持っていさえすれば誰が繰り広げてもおかしくないアクションしか見られず、キャプテン・アメリカがキャプテン・アメリカであることの必然性がない。……つまり、高度なアクションが繰り広げられる中で、そのアクションの主体に「キャプテン・アメリカ」というラベルがぺたっと張り付けられているというだけのことに過ぎないのだ。
 そして、作中でのキャプテン・アメリカのヒーローとしてのあり方も同様なのである。キャプテン・アメリカは現代のアメリカでもヒーローとして崇めれれているが、第二次世界大戦末期から七十年間も氷漬けであったキャップがなぜそれほどまでに支持されているのかがわかる描写がない。
 前作『キャプテン・アメリカ:ファースト・アヴェンジャー』においては、そうではなかった。キャプテン・アメリカは最初の活動でブルックリンの子供を救い、そのことによって、まずは子供たちのヒーローとなった。しかし政府公認のマスコットキャラクターになったところで、それだけのことでは、当然のことながら、実際に前線で活動する兵士たちから信頼を得られるはずもない。キャップは兵士たちから罵声を浴びせかけられ、軽蔑され、トマトを投げつけられさえする。……しかし、前線に身を投じて命がけの救出作戦を成功させる過程で、兵士たちからも信頼を得ることになっていくわけだ。
 著名なヒーローがいたところで、人々の反応が一様なものであるはずもない。ましてや、七十年前のヒーローが現代に復活したところで、全面的な支持をいきなり獲得することなどありえないだろう。
 確かに『アヴェンジャーズ』では、キャプテン・アメリカは地球の危機を救った。しかし現実世界におけるこの映画への反応を見る限り、支持を得ているのは、派手に目立つ活躍をしたアイアンマンやハルクなどである。地味であまり目立たず人気もなかったキャプテン・アメリカが、作中世界では絶大な支持を得ている……というのは、ちょっと考えづらいものがある。
 にもかかわらず、人々はキャプテン・アメリカに関する展示がなされたスミソニアン博物館に大挙して集まり、キャプテン・アメリカの言葉を一途に信じ、その信頼に基づいて自分の職場での職務を投げ出しさえする。……その信頼関係は、いったい、いつどこでどのようにして築かれたと言うのか?
 博物館でキャップの存在に気づいた子供は、ぽかーんと口を開けて驚く。キャップは口先に指を当てて「シーッ」という仕草をするが、両者の関係がそれ以上掘り下げて描かれることはない(例えば、従軍経験があってキャップと似た体験をもしているファルコンがキャップとすぐに信頼関係を築くことには説得力があるのだが……)。一方、素顔も本名を晒した上で絶大な人気を集めているヒーローのはずなのに、街中に潜伏して逃げ回っている時には誰にも認知されないというご都合主義が展開される。
 つまり……『ウィンター・ソルジャー』の作中世界では、「キャプテン・アメリカは人々から絶大な信頼を集めている」ということが所与の設定として与えられ、その設定の枠組みの内部だけで人々が動くように構成されているわけだ。そのような平板な枠組みが基底になっているからこそ、入り組んだ設定のストーリーを粛々と展開させ、適度に見せ場を盛り込んだアクションシーンをつなげていくことによって作品を構築させることが可能になっているのだと言えよう。


 『ウィンター・ソルジャー』について書いたエントリではプロレスの例えを出したけれど……改めて考えてみると、『ウィンター・ソルジャー』と『アメイジング・スパイダーマン2』の関係って、総合格闘技とプロレスの関係に似ているのではないか、と思った。
 そこに凄いパフォーマンスをしている人がいさえすれば、その人の過去の来歴などはとりあえず関係なく、今ここにあるものだけで熱狂的に盛り上がれる、ということ。そのような空間があるとき、その熱狂の中心にいる人物は、その実、いくらでも置き換え可能な記号でしかない。
 だから、このような空間にある熱狂は、実のところ、「装われた熱狂」に過ぎないのではないかと、私は疑っているのだ。それまでの歴史的積み上げをとりあえず括弧にくくって「今、ここ」で起きていることだけに熱狂するからこそ、熱狂すること自体に熱狂できる。そこにあるのは実は対象へのリスペクトではなくてその場限りの娯楽として消費することなので、熱が冷めたらその空間自体をあっさりポイ捨てできる。……かつて日本で総合格闘技はあれだけ熱狂的な支持を集めたにもかかわらず、今やペンペン草も生えないような不毛な荒れ地が広がっているばかりではないか。
 『ウィンター・ソルジャー』に盛り上がっている人々の様子を見ていると、どうもそのような危うさを感じるのだ。いろいろ見ていると、むしろ『ファースト・アヴェンジャー』や『アヴェンジャーズ』でのキャップを無視したり馬鹿にしたりしていた人々が盛り上がっているようであるから。
 そんなフェイクとしか思えない熱狂の中心にキャプテン・アメリカが放り込まれたり、それどころかそういう人々が改めて『ファースト・アヴェンジャー』を馬鹿にしたりし始めるのを見ると、はっきり言ってむかつくわけですよ。
 『ファースト・アヴェンジャー』という映画は、アクションシーンにそれほど派手な仕掛けはなくとも、きちんと丁寧に演出されていた。そして何より、ハウリング・コマンドーズ最高だろって話ですよ。ああいう風にハウリング・コマンドーズを登場させる映画をあっさり馬鹿にできる手合いっていうのは、いったい今までアメリカ映画に何を見てたのかね?
 そして、アメコミファンとして最も重要なことは……『ファースト・アヴェンジャー』ではアメコミそのものの起源にあるデリケートな問題がさりげなく触れられており、その一方で『ウィンター・ソルジャー』はそれをばっさりと切り落とした、ということだ。
 著名なアメコミヒーローのほとんど全てにおいて言えることだが……そのオリジナルのクリエイターたちは、ほぼ全員がユダヤ人であった。ここには、明確な理由がある。もともとアメリカ社会に同化していたユダヤ人と違って、主に東欧から新たに移民してきたユダヤ人は社会的地位も低く、まともな職を得ることは難しかった。そして、新興のいかがわしいコミック出版業界ではたやすく職を得ることができたため、ユダヤ人が大量に流入したのだ。
 そして、『ファースト・アヴェンジャー』においてキャプテン・アメリカがブルックリン出身とされているのは、オリジナルのアーティストであるジャック・カービイがブルックリンにあったユダヤ人の貧民街育ちであったからだ(ブルックリン育ちとして有名なカービイではあるが、厳密に言うと、出身は同じニューヨークでもマンハッタン島のロウアー・イーストサイドである。第二次世界大戦以前の当時では、ユダヤ人街と言っても、ロウアー・イーストサイドのそれの方がより貧しい人々のいるところだったらしい。カービイはここで生まれ、のちにカービイ一家の経済状況が好転してからブルックリンに引っ越している。そのため、原作コミックだと、キャップの出身地はロウアー・イーストサイドの貧民街に設定されている……ただし、作中の設定としては、キャップはアイルランド系の移民の一家に生まれたことになっている)。
 だから、『ファースト・アヴェンジャー』において、レッドスカルに「What made you so special?」と問われたキャップが「Nothing. I'm just a kid from Brooklyn.」と答えるのには、そういう含みがあったわけだ。
 つまり、アメコミヒーローってのは、社会のつまはじきになった者たちが街の片隅でそのへんの紙屑をかき集めてなんとかひねり出した、なけなしの夢の結晶なんですよ。
 だからこそ私は、アメコミの文脈とプロレスの文脈を常に比較して考えているわけです。……例えば日本のプロレスっていうのは、現在よりさらに閉鎖的であったであろう、昔の相撲界の中にいた在日朝鮮人であった力道山が、周囲に明確な理由を告げぬまま突如として自らの手で髷を切り落として相撲を廃業し、自分の居場所は自分で作ることにしたことこそが起源なのよ。
 少なくとも私にとっては、アメコミを読むこととプロレスを見ることとは全く同じ理由を持つわけ。……で、ずっとそういう場所に身を浸しているとね……社会的にいかがわしいとされているがゆえにひたすら罵倒し軽蔑することを安心して楽しむ者がいる。かと思えば、上澄みだけすくっていって口当たりのよく誰にでも接しやすいものに作り変えられ……それを、その場限りのノリだけで熱狂して短期間だけ消費する者がいる。そして、それまでの文脈を無視して作り変えられたものに怒りだす元々のファンがいたら、ネタで消費してるだけの連中が大挙して押し寄せてきて、支離滅裂でデタラメな罵詈雑言を、数に任せてわめき散らしたりする。
 ……もうね、テメーら全員クソくらえって話ですよ。


 『ファースト・アヴェンジャー』のエピローグは現代に時間が飛び、『アヴェンジャーズ』の予告となるような部分が描かれる。……そして、その直前の部分、第二次世界大戦終結後の出来事が語られる一連のシーンの最後では、ゴミ箱の蓋にキャップと同じ模様を塗りつけたお手製のシールドを持って走り回る、ブルックリンの子供の姿が描かれる。
 ……おそらく、このようなシーンを作中に挟める者と、不要なものとして切り捨てられる者との間に……あるいは、このようなシーンを重要なものとして受け取る者と、取るに足らぬものとして見落とし気づきすらしない者との間には、越えがたい断絶があるのだろう。
 アメコミにしてもプロレスにしても、卑賤にしていかがわしい起源を持ち……そうであるゆえに、哀しみの果てだけにある喜びが、苦痛の果てだけにある歓喜が、惨めさの果てだけにある栄光が、ずっと共有されてきたジャンルなのだと言える。
 過去の呪縛がもたらす苦みをも同時に飲み込むのをよしとせず、ただ、胃もたれしないゆえに明日になれば忘れられる……そんな一時の娯楽を求めるのならば、わざわざこんなジャンルにわけ入る必要などない。にもかかわらず、なんでこんなジャンルから無理矢理ネタを収奪し、万人受けする口当たりのいいものをでっち上げようとするのだろうか?
 ……つまり、結論としては、やっぱり『ウィンター・ソルジャー』のキャップはおかしいってことですよ。間違いなく、アレは偽物だ……たぶん、スクラル人かLMDでしょう。……やっぱりなあ、たかが隠密行動に従事するくらいのことでシールドの色を目立たないように塗り替えるようなセコいことをしている時点で、なんかおかしいと思ってたんだよ。










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コメント

いつも拝読しております。
前回のキャップへの愛情に満ちたラブレターには度肝を抜かれました。
おそらくこの映画についてこのブログ以外では日本でここまで詳しく批評した文章はないでしょう。
ウィンター・ソルジャーについては私もキャップがなんの取り乱した様子もなく
平然と組織の中で華麗に動き回ることについては違和感がありました。
ファーストアベンジャーでもアベンジャーズでも結構自分の意見を主張してたキャラクターだと思ってたのですが、今回は随分利口なキャラになっているなと。原作のシヴィル・ウォーの時のキャップとは全然違うね、やっぱり映画だからかなーと。3Dを意識した画面構成はファースト・アベンジャーの時よりだいぶマシになっているなー、特にヘリキャリアとファルコンの戦闘はよかった。なんてことを思っていたのですが、しかしアメイジング・スパイダーマン2の3Dのレベルは次元が違っており、これには絶句しました。3Dって時間とお金をかければこんなに仕上がりが違うものなのでしょうか。トンネルの奥まった描写とか、ただただ感心しておりました。
マーク・ウェブ監督はヒーローに対する愛情はあると思います。ちゃんと見せ場を盛り立てることについては心血をそそいでいるというか。
前作はベンおじさんのくだりまでは退屈で、正直アニメのように、オリジンは省いてもよかったのではないかとさえ思うくらいです。しかしリザードとのアクションはスパイダーマン特有の、荒唐無稽さに拍車がかかったようなアニメ的表現でこれには見ていてゲラゲラ笑ってしまうほどのダイナミズムがあって心地よい。今回もアクションはサム・ライミ版を引き継いでさらに複雑なアクションを見せていて唸らされました。しかし内容は巷でも意見が様々で、グウェンの死に方が唐突すぎるとか、ルーズヴェルト駅の下りとか(あれは本国でもそのような噂があるのでしょうか?)父親の秘密を引っ張りすぎとか意見が割れていますね。
原作のニュー・ウェイズ・トゥ・ダイを読んでみたのですが、伏線の張り方や次回への引きが上手くて、基本スパイダーマンは続き物としての面白さがあるので映画でやるよりテレビでやったほうがハラハラドキドキ出来るのかなーと思ったりしました。アクション演出に膨大な手間をかけている分、人間ドラマを描くシーンが犠牲になっているのかなと。グウェン・ステーシーについては原作の箇所を読んでいないのですが、別れは突然訪れるということを見せるためにああいう流れになったのでしょうし、サム・ライミ版のように分かりやすく悲劇性を高めて作るとなると全体のトーンも重苦しくなるでしょうからそれを避けて気軽に見れる作品作りを行っていると感じました。個人的にはグウェンよりハリーを演じたデイン・デハーンの演技が秀逸で、こっちに全てもってかれました。父親の愛情に飢えて破滅的な行動をとっていくハリーの見せ方にも好感をもちましたし、行き場のない苛立ちや苦悩を短いカットで印象的に見せていると感じます。エレクトロに関してもそうで、最期消失してしまった後、観客には本当に何も印象に残らないように見せるのはかなり皮肉でした。次回があれば続きが待ち遠しくなるように次回予告までつけてくれれば完璧だと思います。

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 読んだ本、見た映画の感想をつづるブログ。基本的にネタバレありです。

 

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