2014年05月09日(金)

藤津亮太のアニメ時評
四代目 アニメの門 第10回
『たまこラブストーリー』

アニメの門

「変わること」を受けいれること

 『たまこラブストーリー』の立っている場所を説明するには、少し長い前置きから始めないといけない。後半で、映画の内容に触れているのでそのつもりで。
 
 「何も起きない」ということが作品に対するほめ言葉だった時代がある。’80年代後半のことだ。その象徴ともいえる作品がOVAとしてリリースされた『魔法のスターマジカルエミ 蝉時雨』だ。
 『蝉時雨』は、TVシリーズの合間の夏の数日を描いた作品だ。描かれるのは主人公・舞とその周囲の人々の日常。何てことはないささいな日常の出来事を淡々と描く中で、「変わらないようで変わっていくもの」という本作の狙いが次第に浮かび上がってくる。
 そこで「何も起きない」ということがほめ言葉になるのは、表層的なストーリーでもなく、目に楽しい派手な作画でもない、「何か」をその作品が獲得していたからだ。
 その「何か」というのは、つまり「演出家が意図的に仕込んだ語り口」だ。それがあるからこそ、何も起きないようでいながら、「変わらないようで変わっていくもの」という本質が浮かび上がる。
 
 また「何も起きない」には、もう一つの意味も潜んでいる。それは「現代を舞台にした、(比較的視聴者の日常に近いと思われる)“生活”」が描くに値するものということだ。
 たとえば『蝉時雨』の中で舞は魔法を使わない。一部、変身後のエミは登場するがそこは直接的には本作の見せ場ではない。いわゆる“アニメ的”な事件は起きないのだ。(「変わらないようで変わっていくもの」は、TVシリーズ・ラストで描かれた、魔法を手放すことを決意する舞を念頭においている以上、無関係ではないのだが、ここではその点には深入りしない)。
 ことさらの劇的さをあえて排して、日常の描写を積み重ねていく、いわゆる「生活アニメ」と呼ばれるスタイルはすでに『アルプスの少女ハイジ』から『母をたずねて三千里』で一つの完成を見ている。
 ただそこで舞台となった時代も場所も、現代日本からは遠い。現代の日本を舞台に「生活アニメ」は作ることができないのか。現代の日本(とそこに生きている“自分”たちの感覚)はアニメの対象にならないのか。
 
 アニメはこの疑問を長い時間をかけて少しずつ解いてきた。その道のりの極初期に位置するのが『蝉時雨』だ。
 そして、その最新のアンサーが映画『たまこラブストーリー』だ。高校三年生の男の子と女の子のシンプルな恋物語が、日々の生活の中で描き出される。
 本作は、’13年に放送された『たまこまーけっと』の続編に当たる。TVシリーズは、高校生・たまこが、闖入者・鳥のデラが起こす騒動を通じて、「今の私」を形作っている自分の過去と周囲を意識する内容だった。
 これに対して映画は、たまこが幼馴染・もち蔵の告白をちゃんと受け止められるようになるまでを描く。「ちゃんと受け止められるようになる」というたまこの変化を描くのがこの映画の縦軸だ。
 
 舞台は狭い。
 登場するのは、たまこの家(餅屋)があるうさぎ山商店街と学校。同スタッフによる『映画けいおん!』が、プロデュース・サイドからの要請でロンドン旅行を盛り込んだような「スペシャル感」はない。そのかわり、登校、下校、帰宅後の時間といった、普通なら零れ落ちそうな日常の時間が丁寧に描き出される。見ているうちに、たまこの、家業の手伝いから始まり銭湯で終わる一日の過ごし方がちゃんと頭の中に像を結ぶ。
 そして日常が丁寧に描かれれば描かれるほど、たまこたちが高校三年生で、残された高校時代はあまりないことが意識される。友達やもち蔵が将来の進路の話題を持ち出すとき、ちらも川が近くにあるのも偶然ではないはずだ。奇しくも『蝉時雨』もそうであったが、流れる川の映像は、観客に過ぎていく時間を思い起こさせずにはいられない。
 
 狭い舞台に徹底して寄り添う姿勢は、登場人物に関しても変わらない。映画の冒頭、たまこともち蔵の姿を見せるべきシーンで、カメラの前を人影などが頻繁に横切る。そのため、たまこともち蔵の姿がなかなか見えない。この冒頭は、二人が特別な存在ではなく、大勢の中のひとりである平凡な人間であることを意識させる。そしてカメラはその人ごみをこえて、二人の日常に接近する。そうすると心の中のさざ波も、二人にとっては心を大きく揺らすうねりであることが見えてくる。
 たまこの心のうねりは、表層的には「もち蔵が東京の大学へ進学を決めたこと」と「その決意をきっかけに告白されたこと」に端を発している。こうして本作は表層的には「恋愛の成立/不成立」をめぐる物語を展開するが、実はその奥にあるのは、たまこの心の中にある「変わることへの葛藤」だ。この映画でもち蔵は、「変わること」を一足先に選んだキャラクターとして描かれており、そこからたまこの心を照らし出す役割を果たしている。
 
 「変わること」に葛藤があって、もち蔵の告白をちゃんと受け取れないたまこの転機は二つある。
 一つは、餅屋の娘である自分が餅を好きになったきっかけだ。たまこは、母を亡くした後、顔を描いた餅で自分を慰めてくれたのは父親だとずっと思っていた。だが、実はそれは幼い日のもち蔵だった。この発見が、たまこの中でもち蔵の存在を決定的にする、
 もう一つの転機は、若き日に父が母に告白するために歌ったという「恋の歌」が入ったカセットテープがもたらす。偶然、カセットテープがオートリバースして始まったB面。そこには、父の告白にやはり(少し下手な)歌でこたえようとする、若い母の歌声が録音されていた。
 たまこが餅に憧れていたのは、それが暖かくやわらかかった母の記憶と結びついているから。だが、カセットテープの歌声を聴いた瞬間にたまこは悟る。母親は最初から母親だったのではなく、父の告白を受け止めて、変化して「たまこの母親」となったのだ。母が変わらなくては自分もいなかった。
 
 「自分にとってのもち蔵の価値の再発見」と「人はいつも変わるものだという発見」。この二つがそろって、たまこの中に変化が起きる。この変化は「自分の中のもち蔵への気持ちに気づいた」と説明しても間違いではないが、そこには親離れを含んだ変化の受容があって、もち蔵はその動機なのである。そして映画はラストシーンへと一気に駆け出し始める。
 もし本作が実写で撮られたのならば、役者の肉体が枠となって、固有の人間と人間の物語としての印象が先に立つだろう。だが『たまこラブストーリー』はアニメのため、キャラクターが存在感を持ちながら、同時に抽象化されている。だから、固有性を超えてそこに普遍性が宿っている。
 
 『たまこラブストーリー』はいとおしい映画だ。それは主人公であるたまこともち蔵がいとおしいだけでなく、二人を通じて今の若者とかつての若者が、いとおしい存在であることを思い出させるからだ。
 ほんの一言の告白がどう受け止められるかだけを描く「何もない」映画だが、アニメは長い道のりの結果の一つとして、こういう題材を自然にテーマにできるようになったのだ。
 

文:藤津亮太(アニメ評論家/@fujitsuryota