徳川 斉昭(とくがわ なりあき)
水戸藩9代藩主。寛政12年(1800)3月11日生、万延元年8月15日没。
7代藩主・徳川治紀公の三男として江戸小石川藩邸で生まれる。母は瑛想院。
8代藩主である兄・斉脩公の後を継ぎ文政12年(1829)10月17日、9代藩主となる。
幼名は虎三郎、敬三郎。 諡号は烈公、字は子信、号は景山、潜龍閣。第15代将軍・徳川慶喜の実父。 官位は従三位権中納言だが、明治になり正一位権大納言が贈られている。
会沢正志斎や藤田東湖らの改革派の支持を背景に、強力に質素倹約・寺社改革・財政再建などの藩政改革を断行。
天保11年3月、第1回の「追鳥狩」を挙行。
文武不岐の気風をおこし、日頃の鍛錬に励みその実施訓練を決行。
その規模は武者3千、騎馬隊・鉄砲隊・医療班などの総軍勢1万2千余を数えた大演習で、正に一大絵巻であり、天下に水戸の先取の精神を呈し、全国的にも注目される。
天保12年(1841)8月、藩校「弘道館」を創設。
藩士の子弟が文武両道はもちろん、医学・薬学・天文学さらには蘭学まで幅広い学問が取り入れられた。
欧米列強の圧力増大、幕政の腐敗堕落の凡潮を打開するため、優秀な人材を育成しなければならないという考えのもとに建てられた。
天保13年(1842)に自らの設計で「偕楽園」を造園。
「偕楽」とは「民と偕(とも)に楽しむ」という意味で、藩士だけでなく一般庶民も毎月決められた日には入園を許された。
弘化元年(1844)5月、藩内に改革派と門閥派の対立が表面化し、幕命により藩主を辞任、謹慎を命ぜられる。同年11月、士民の雪冤運動により謹慎を解かれる。
嘉永6年(1853)6月のペリー来航後、幕府の海防参与に就任。
その後、将軍継嗣問題や日米修好通商条約調印などで井伊直弼大老と対立。
「安政の大獄」で水戸に永蟄居となり、そのまま薨去した。享年61歳。
【参考文献】
【銅像】
7代藩主・徳川治紀公の三男として江戸小石川藩邸で生まれる。母は瑛想院。
8代藩主である兄・斉脩公の後を継ぎ文政12年(1829)10月17日、9代藩主となる。
幼名は虎三郎、敬三郎。 諡号は烈公、字は子信、号は景山、潜龍閣。第15代将軍・徳川慶喜の実父。 官位は従三位権中納言だが、明治になり正一位権大納言が贈られている。
会沢正志斎や藤田東湖らの改革派の支持を背景に、強力に質素倹約・寺社改革・財政再建などの藩政改革を断行。
天保11年3月、第1回の「追鳥狩」を挙行。
文武不岐の気風をおこし、日頃の鍛錬に励みその実施訓練を決行。
その規模は武者3千、騎馬隊・鉄砲隊・医療班などの総軍勢1万2千余を数えた大演習で、正に一大絵巻であり、天下に水戸の先取の精神を呈し、全国的にも注目される。
天保12年(1841)8月、藩校「弘道館」を創設。
藩士の子弟が文武両道はもちろん、医学・薬学・天文学さらには蘭学まで幅広い学問が取り入れられた。
欧米列強の圧力増大、幕政の腐敗堕落の凡潮を打開するため、優秀な人材を育成しなければならないという考えのもとに建てられた。
天保13年(1842)に自らの設計で「偕楽園」を造園。
「偕楽」とは「民と偕(とも)に楽しむ」という意味で、藩士だけでなく一般庶民も毎月決められた日には入園を許された。
弘化元年(1844)5月、藩内に改革派と門閥派の対立が表面化し、幕命により藩主を辞任、謹慎を命ぜられる。同年11月、士民の雪冤運動により謹慎を解かれる。
嘉永6年(1853)6月のペリー来航後、幕府の海防参与に就任。
その後、将軍継嗣問題や日米修好通商条約調印などで井伊直弼大老と対立。
「安政の大獄」で水戸に永蟄居となり、そのまま薨去した。享年61歳。
【参考文献】
茨城県大百科辞典、水戸藩のあゆみ、輝く茨城の先人たち、、幕末日本と徳川斉昭展図録、
水戸黄門ホームページ、弘道館パンフレット
【銅像】
弘道館正門前