高橋 多一郎(たかはし たいちろう)
【錦絵 近世義勇伝】
文化11年(1814)~安政7年※この画像は国立国会図書館の許諾を得て、
同館ウェブサイトより転載しています。
3月23日/自刃/47歳/水戸藩士 名は愛諸。
字は敬卿。号は柚門、水哉堂、幽竹山窓。変名は磯辺三郎兵衛。
父は高橋忠治諸往、母は堀口幸介重有の娘。実弟が鮎沢伊太夫。妻は茅根信一の娘。柚門(ゆもん)の号は、水戸の屋敷門に柚の木があったから付けた、という。
幼いころから才智に優れていたので、藤田幽谷の門弟・国友善菴の塾に入れたところ、成績優秀で師の注目するところとなる。
父の身分はあまり高くなく、暮らしも豊かではなかったので多一郎は家の手助けをなし小遣いを省いて本や刀を求めたりした。
剣術、兵法、槍術、抜刀術、柔術、水泳の武芸のいずれも上達した。
天保10年(1839)3月24日、床机廻に抜擢、家督を継ぎ歩行士に。以降、歩行目付、そして藩主の側近である奥右筆となり、斉昭公の藩政改革の担い手の一人として重きをなした。
世襲制度の厳しい時代にかく出世したことは、多一郎がいかに優れた人物だったかを物語る。
藤田東湖との交友も厚く、詩を詠んで贈ったりした。 弘化年間、斉昭公が幕府から嫌疑を受け致仕・謹慎となると、雪冤のために奔走。しかし多一郎も免職、小普請入り、嘉永元年(1848)には蟄居となった。斉昭公の復権後、歩行士に。以後、矢倉奉行、寺社役を経て安政2年(1855)北郡奉行となり、農兵の組織や郷校の建設に携わる。同年12月に奥右筆頭取、安政5年(1858)に小姓頭取となった。
その後「戊午の密勅」の混乱、「安政の大獄」と続き、水戸藩への弾圧は厳しさを増した。この解決のために、関鉄之介らを各藩に派遣する。 安政6年(1859)斉昭公の永蟄居の処分を受け、多一郎も蟄居させられる。この頃から密かに金子孫二郎らと井伊大老暗殺計画を練る。また、密勅が江戸へ運ばれるのを防ぐため急進派藩士らを指揮して長岡に屯集させた。
大老襲撃の総裁は金子、現場の指揮は関鉄之介に任せ、多一郎は嫡男・庄左衛門と黒澤覚蔵を連れ2月20日、水戸を脱出、木曽路を経て、3月6日、大坂へ。
襲撃は成功したが薩摩藩兵の挙兵はなく、金子、有村雄助らも薩摩に捕縛されたことを知った。
同23日、追手に囲まれ、四天王寺境内の寺役人宅で庄左衛門とともに自刃した。 贈正四位。
【参考文献】
桜田門外ノ変、維新前史桜田義挙録、桜田烈士銘々伝、桜田烈士伝、水戸市史 中巻(四)、
歴史読本1993年5月号
【墓所】
水戸市松本町 常磐共有墓地