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金子 孫二郎(かねこ まごじろう)

【錦絵 近世義勇伝】

※この画像は国立国会図書館の許諾を得て、
同館ウェブサイトより転載しています。

文化元年(1804)~文久元年(1861)
7月26日/刑死/58歳/水戸藩士・郡奉行

名は教孝。幼名は子之次郎。号は錦村。孫三郎とも称す。
父は川瀬七郎衛門教徳(田丸稲之衛門の次男)。母は川瀬教方の娘。次男として生まれ、金子孫三郎能久の養子となり、金子姓を名乗る。幼くして学、剣、馬術を学び、いずれも上達した。

文政2年(1819)7月、小普請組として出仕。
同12年、水戸藩で継嗣問題が起こると父らと斉昭公を擁立し、その後は改革派として藩政に参画する。天保元年(1830)徒目付となり、同3年吟味役、同9年奥右筆、続いて郡奉行となる。西郡奉行となると直ちに管内を巡回し、農村の実情をつぶさに調べ、米作のほか養蚕、製茶等の奨励にも努めた。人々と接して声を聞き、医薬の手配をして病人を救う等したので、人々は孫二郎を尊敬し、親しんだのであった。
弘化元年、斉昭公が罰せられると雪冤運動をするが、それにより蟄居・謹慎となる。斉昭公復権後の小普請組を経て再び南郡の郡奉行となる。


安政期に水戸藩が幕閣と対立し混乱が増すと、その対策に奔走。高橋多一郎とともに幕政改革を願い関鉄之介らを西南雄藩へ使者に出すが失敗。その後、井伊大老を斃すことを計画し、薩摩藩有志と手を結んだ。
安政7年2月18日の夜、息子の勇二郎、稲田重蔵、佐藤鉄三郎、飯村誠介らと忍びやかに水戸を脱し、小場村(現常陸大宮市)~結城~古河を経て2月25日江戸に入る。

襲撃当日は品川で報を待ち、成功を聞くと佐藤鉄三郎と薩摩藩士・有村雄助とともに大坂へ向かう。
しかし、3月9日深夜伏見で捕縛され、江戸に送られる。
稲葉家(臼杵藩)に預けられ、文久元年(1861)7月26日、大関、蓮田、森山、杉山、森、岡部とともに斬罪に処せられた。墓所は水戸市松本町の常磐共有墓地。贈正五位。


【参考文献】

桜田門外ノ変、維新前史桜田義挙録、桜田烈士伝、桜田烈士銘々伝、茨城県大百科事典、
歴史読本1993年5月号



【墓所】

水戸市松本町 常磐共有墓地

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