岡部 三十郎(おかべ さんじゅうろう)
【錦絵 近世義勇伝】
文政元年(1818)~文久元年(1861)※この画像は国立国会図書館の許諾を得て、
同館ウェブサイトより転載しています。
7月26日/刑死/44歳/水戸藩士・小普請組
名は忠吉。父は岡部五郎衛門忠義、母は永井總次郎忠政の娘の二男として水戸に生まれた。江戸在勤が長かった父のもとで育ったので、頑丈な水戸侍のアクはすっかり取れて、まったくの江戸っ子肌となった。時勢の変化に対応し江戸の町々に精通していた。
磊落で小節に拘泥せず、各地を遍歴することが好きで、旅をしては地理、人情を探るのが趣味であった。そのため各地の方言、俗語をよく知っていて、話題が豊富であり、諧謔を支えて話術に長けていた。
結城の着物に、唐桟の羽織、博多の帯に矢立を挿み、前垂れがけで雪駄を突っ掛け歩いている様子などは、どう見ても日本橋あたりの商人の若旦那としか見えなかった。
井伊直弼襲撃の準備がなされると、偵察探聞に努めたり、同志の宿を選び有用の品々をそろえたり、すこぶる便宜を与えた。
桜田門外での襲撃の時は、43歳という年齢で常に平静を保っていたので、検視見届役として参加。
事が成されてからは関、野村らと大坂へ向かった。しかし大坂での挙兵の無理な事を知って木曽路を信州、甲州を経て江戸から水戸へ帰還し、久慈郡袋田(大子町)や水戸城下近くに潜居した。
追捕を逃れ、その後再び江戸へ出たが文久元年2月、吉原で捕まり、7月26日、金子や自訴した5名とともに処刑された。墓所は水戸市上水戸町の光台寺。贈正五位。
【原作にある人相書き(下巻224頁)】
一、年三拾四、五歳位
一、丈高く躰太り候方
一、顔平顔、赤黒き方。阿ばた之有
一、眼大く、するどき方
一、鼻、耳、唇、歯並常体
一、口大きい方
一、眉毛薄き方
一、髪毛薄き方
一、髭毛薄き方
一、言舌高き方
【参考文献】
桜田門外ノ変、維新前史桜田義挙録、桜田烈士伝、桜田烈士銘々伝、桜田義挙と其一党、
歴史読本1993年5月号
【墓所】
水戸市上水戸 光台寺