有村 次左衛門(ありむら じざえもん)
【錦絵 近世義勇伝】
天保9年(1838)12月28日~安政7年(1860)※この画像は国立国会図書館の許諾を得て、
同館ウェブサイトより転載しています。
3月3日/負傷のため自刃/23歳/薩摩藩士
名は兼清。父は有村仁左衛門兼善、母は森元高見の娘れん。長兄は有村俊斎のちの海江田信義。その妻まつは元水戸藩に仕えた日下部伊三治の長女。次兄が有村雄助。 薩摩藩島津家のお家騒動により父有村仁左衛門が禄を召し上げられてからは一家の生活は貧窮。そのような中で、助け合いながら生きていく厚い家族愛、兄弟愛が育まれていく。
安政5年8月、中小姓勤役となり江戸藩邸に住す。実践を見据えた剣術である示現流の達人でもあったが、14歳のとき江戸で高名な北辰一刀流の千葉周作の道場に入門、剣の道に磨きをかける。兄雄助とともに江戸で尊攘活動を行い(後に脱藩)、水戸藩士らと交流を深める。
安政6年(1859年)安政の大獄がおこるとそれに憤慨し、薩摩藩士の伊地知貞馨らと水戸藩士と共に井伊大老暗殺を計画。その計画は大老暗殺の後、東西で挙兵し天皇を担いで幕政改革を成し、薩摩藩士は大坂で挙兵するというもの。
薩摩の重臣たちはこの計画を不安に思い、多くの藩士を国表へ引き揚げさせ始める。伊地知も藩命により帰国。次左衛門は兄雄助と暗殺計画の薩摩側の中心となる。最終的に計画に加わった薩摩藩士は有村兄弟の二人のみ。兄雄助は暗殺後、京都への道案内の役となり決行当日は品川で待機。薩摩から参加した襲撃隊員は次左衛門ただ1人。
決行当日は、左翼(杵築藩邸側)から襲撃に参加。
大老の駕籠脇には、稲田重蔵、広岡子之次郎らとともに走りより、井伊の首級を揚げた。深手を負いながら現場を離れ日比谷方面へ、途中井伊方の供目付助役・小河原秀之丞に背後から切られ重傷を負う。辰ノ口付近で力尽き、大老の首を持って自刃。墓所は東京の青山墓地と鹿児島市の旧南林寺墓地。贈正五位。
【参考文献】
桜田門外ノ変、維新前史桜田義挙録、桜田烈士銘々伝、桜田烈士伝、薩摩熱風録、
歴史読本1993年5月号
【墓所】
東京都港区 青山霊園