鯉淵 要人(こいぶち かなめ)
【近世明義傳】
文化7年(1810)1月7日~安政7年(1860)※個人蔵
3月3日/負傷のため自刃/51歳/
水戸領茨城郡古内村(城里町)神官
名は珍陳。父は鯉淵数馬義重、母は桜井氏乃伊で代々上古内村諏訪神社の神官。東茨城郡加倉井の国学者加倉井砂山の塾に入って国学を、水戸の道場では剣術を学びながら、若い武士たちと交友を交えた。
天保の初め頃、父の後を継ぎ神官となる。誠実な性格が氏子の信頼を受け近村数社の顧問となって神道の普及に努める。
かたわら、産業の振興や若者の教育にも力を注いだ。斉昭公が藩主になると水戸領の神官たちは優遇された。「追鳥狩」に参加したり、郷士並みの待遇を受ける。彼らはやがて水戸藩政に混乱が見られると、尊攘派・斉昭派として政治的な行動も起こすようになった。要人は距離的にも近い静神社の斎藤監物に感化を受け、行動を供にしたことが多い。弘化年間の斉昭雪冤運動で、老中阿部正弘への歎願にも従った。そのため藩庁からしばらく城下赤沼の獄に幽閉された。斉昭が再び藩の政権を握ると許され、尊攘派として積極的に参加し、行動していった。
安政5年の「戊午の密勅」降下には、その全国への回達を主張し、「安政の大獄」ではその処分の撤回を主張して行動した。
安政7年2月、斎藤とともに水戸を脱す。3月3日は左翼(武家屋敷側)から襲撃に参加、左肩や鼻、唇に刀を受けながらもひるまなかった。深手を受けながら現場を脱し日比谷御門を抜けるが、八代洲河岸で力尽き、織田兵部少輔邸脇にて山口辰之介とともに自刃した。死後、家人が冠服の襟に縫い付けてあった書置きを見つけたという。墓所は上古内地区の自宅墓所。贈正五位。
【参考文献】
桜田門外ノ変、維新前史桜田義挙録、桜田烈士銘々伝、桜田烈士伝、水戸市史 中巻(四)、
歴史読本1993年5月号
【墓所】
城里町石塚 下古内