斎藤 監物(さいとう けんもつ)
【錦絵 近世義勇伝】
文政5年(1822)~安政7年(1860)※この画像は国立国会図書館の許諾を得て、
同館ウェブサイトより転載しています。
3月8日/負傷のため没/39歳/水戸領那珂郡静村(那珂市)神官
名は、一徳。号は文里。変名佐々木馬之介。父は斎藤式部文静。母は須藤氏きの。代々常陸二宮である静神社の神官。背が高く面長で力があり、意志強固の上、物覚えが良かった。学問ははじめ父から教えてもらったが、のちに加倉井砂山に入門。武芸は神道無念流指南の道場に通った。後に、藤田東湖に師事する。
京都から梅田雲浜が東湖を訪ねた時、斎藤もともに会食した。その席上、三人で夜明かしで飲み比べをしたところ、さすがの雲浜も監物には敵わなかったという。
弘化年間に斉昭公が罰せられると、神官たちの代表格であった斉藤は、尊攘派水戸藩士の主だった者とともにその主冤を雪がんと、老中阿部正弘へ陳情書を提出。しかし、訴えは取り上げられずに、水戸において長く謹慎させられる。
嘉永2年3月に斉昭公が復帰、同年10月に監物も自由の身となる。時、外圧が増し、開国への方針が見え始めると攘夷に対する行動は積極的になった。
安政5年(1858)8月、「戊午の密勅」が出されると、勅諚の全国回達を願って行動。
すぐ「安政の大獄」が始まり、水戸藩が苦しい立場に陥ると、同6年7月、斎藤らは高松藩主に歎願を行うなどした。
安政6年の長岡の屯集の前には、神官百十四名連書の書面を慶篤公に提出し、勅諚返還不可ならびに幕府の専横抑制方を陳情したが、なんら回答を得られなかった。
翌年2月、静村に帰り次男にかねて約束の習字教本を与え、浪人風に姿を変え、江戸に向かう。
襲撃時、斎藤は一同を率いて趣意書を提出する役でありながら戦闘に参加、身に数創の深手を負う。佐野、黒沢、蓮田とともに脇坂家へ自訴した。同3月8日、同志の看護もむなしく細川家で深傷のため没す。
墓所は東京の回向院と那珂市古徳・静神社前。贈従四位。
【参考文献】
桜田門外ノ変、維新前史桜田義挙録、桜田烈士伝、桜田烈士銘々伝、水戸市史(中四)、
歴史読本1993年5月号
【墓所】
那珂市(旧瓜連町)静 静神社前