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海後 磋磯之介(かいご さきのすけ)

文政11年(1828)5月7日~明治36年(1903) 5月19日/病死/76歳/水戸藩領本米崎村(那珂市)神官

名は宗親。のち菊池剛蔵と改名する。父は那珂郡本米崎村・三島神社神官の海後大和宗邦、母は黒沢氏賀禰子の三男(四男とも)として生まれる。
天保年間、大久保(現日立市)の医学館に学ぶ。ここで、薩摩藩士・日下部伊三治と出会う。水戸城下へ出て剣術及び砲術の修行をする。時に藩校の「弘道館」でも学んだ。ここでは佐野竹之介ら尊攘派の志士と親交を深める。水戸領の神官たちは天保の改革以後優遇された。斉昭公は領内の神官たちを七つの「連」という組織に組み立て、軍事教練である「追鳥狩」にも参加させた。神官出身の海後が尊攘派に接近していくのは自然な流れであった。

安政5年(1858)の「安政の大獄」には斉昭雪冤のため同志とともに南上した。
安政7年(1860)2月、野村彜之介と会い町人風に改め21日水戸を出立。

桜田門外には佐野らとともに右翼(お濠側)から襲撃隊に参加した。このとき中指(一説には小指)を切り落とされながらも現場を脱出。水戸藩領の小田野村(現常陸大宮市)にある親戚の高野家に隠れた。
郡山へ逃がれた際、高橋親子の自刃や金子の捕縛を聞き自首を考えたが、村出るとき兄・粂之介が固く手を握って「あくまで生き延びろよ、世の中は必ず良い方に変わってくる」と涙ながらに励ましてくれたことを思い出し、自首を思いとどめた。その後、越後へと逃亡生活を続ける。

文久3年、自宅へ戻り、元治元年(1864)の「天狗諸生の乱」には変名で天狗側として参加し、関宿藩に預けられるが、ここも無事に逃れることができた。

明治になり水戸藩士身分となる。茨城県庁や警視庁などに勤務し、退職後、自宅で没する。遺稿に大老襲撃の一部始終を伝える記録「春雪偉談」や「潜居中覚書」などがある。死の直前に従六位を受ける。墓所は常磐共有墓地。


【原作にある人相書き(下巻225頁)】

一、年三拾二歳位
一、丈常体
一、顔色黒く、眼、鼻、口、耳常体
一、髪毛濃き方
一、言舌かん高き方



【参考文献】

桜田門外ノ変、維新前史桜田義挙録、桜田烈士銘々伝、故老実歴水戸史談、茨城県大百科事典、
歴史読本1993年5月号



【海後磋磯之介の肖像画】

吉田八幡神社(常陸太田市小田野)蔵


三嶋神社 (那珂市本米崎)



【墓所】

水戸市松本町 常磐共有墓地

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