増子 金八(ましこ きんぱち)
文政6年(1823)~明治14年(1881)10月12日/病死/59歳/浪人(元水戸藩士)
金八は桜田事変にあってに参加した18人中、海後磋磯之介とともに生き残って生涯を全うした人物。
名は誠三郎。号は正木。大畠誠三郎が本姓。父は増子甚八郎武之、母は宇佐美久秀の妹。
天保4年4月初めて藩主斉昭に拝謁する。
安政期の勅諚降下や「安政の大獄」後の混乱に、常に尊攘激派に属して行動。
襲撃計画に関わったのは万延元年2月39歳の時。高橋多一郎らの意をうけて石塚から江戸に上る。商人体をして、杉山弥一郎とともに日本橋井筒屋に投宿。後から次々に江戸に集まる同志達のため、潜伏すべき宿を用意したり、夜毎に桜花を描いた提灯を持って目印とし浅草観音にお百度詣りと見せかけたりするなど、苦労して厳しい監視下での連絡役を果たした。
決行当日は黒沢忠三郎の組に入り、左翼(杵築藩邸側)から大老一行を襲撃。剣の腕を発揮して奮戦。襲撃後は腕や肩に傷を負ったが浅手であったため、現場を脱し西国を目指すも警戒が厳重で叶わず帰郷。商人と偽りながら捕吏の手を逃れて県央・県北の各地で潜伏。
明治となってから石塚村に戻る。事変後の同士達の処分を知り、自分が生きながらえていることにたいする後ろめたさを感じながらも、天下の動きを見極めた後、身を処することと決する。事変に関しては黙して語ろうとしなかった。晩年は体調を崩し同志の冥福を祈りながら、読書と狩猟の余生を過ごした。
明治14年病没。墓所は城里町石塚。
【参考文献】
【墓所】
金八は桜田事変にあってに参加した18人中、海後磋磯之介とともに生き残って生涯を全うした人物。
名は誠三郎。号は正木。大畠誠三郎が本姓。父は増子甚八郎武之、母は宇佐美久秀の妹。
天保4年4月初めて藩主斉昭に拝謁する。
安政期の勅諚降下や「安政の大獄」後の混乱に、常に尊攘激派に属して行動。
襲撃計画に関わったのは万延元年2月39歳の時。高橋多一郎らの意をうけて石塚から江戸に上る。商人体をして、杉山弥一郎とともに日本橋井筒屋に投宿。後から次々に江戸に集まる同志達のため、潜伏すべき宿を用意したり、夜毎に桜花を描いた提灯を持って目印とし浅草観音にお百度詣りと見せかけたりするなど、苦労して厳しい監視下での連絡役を果たした。
決行当日は黒沢忠三郎の組に入り、左翼(杵築藩邸側)から大老一行を襲撃。剣の腕を発揮して奮戦。襲撃後は腕や肩に傷を負ったが浅手であったため、現場を脱し西国を目指すも警戒が厳重で叶わず帰郷。商人と偽りながら捕吏の手を逃れて県央・県北の各地で潜伏。
明治となってから石塚村に戻る。事変後の同士達の処分を知り、自分が生きながらえていることにたいする後ろめたさを感じながらも、天下の動きを見極めた後、身を処することと決する。事変に関しては黙して語ろうとしなかった。晩年は体調を崩し同志の冥福を祈りながら、読書と狩猟の余生を過ごした。
明治14年病没。墓所は城里町石塚。
【参考文献】
桜田門外ノ変、維新前史桜田義挙録、桜田烈士銘々伝、桜田烈士伝、水戸市史 中巻(四)、
歴史読本1993年5月号
【墓所】
茨城町石塚