杉山 弥一郎(すぎやま やいちろう)
【錦絵 近世義勇伝】
文政7年(1824)~文久元年(1861)※この画像は国立国会図書館の許諾を得て、
同館ウェブサイトより転載しています。
7月26日/刑死/38歳/水戸藩鉄砲師
名は当人。謚秀邦。父は鉄砲師・杉山孫十郎。
子供のころから父を見習い、鉄砲師としての技により士分(留守列)にあげられ、藩から手当てを受けるようになった。
同時に剣を学び、塾に入って学問にはげんだ。床机隊が編成された時、一員に加えられんことを願い出るも、藩士でないことと鉄砲師の業を離れ江戸に出ることは良くないということで希望は叶わなかった。
弥一郎は諦めきれず密かに出府、駒込藩邸の周囲を見周り、急変に備えた。床机隊の解散し弥一郎も水戸に戻る頃、高橋、金子に目をかけられるようになった。
安政6年に斉昭公が永蟄居させられると、雪冤運動に加わり、しばしば江戸へ出かけた。また戊午の密勅の返納阻止のために長岡にも屯集した。
事変直前、増子とともに水戸を脱し、江戸では黒沢と落ち合う。
井伊家の動静を探索し同志に報じつつ、その機会を待った。 井伊大老の襲撃時は左翼(杵築藩邸側)から行列へ切り込む。負傷しながら現場を離れ、森、大関、森山とともに細川家(熊本藩)へ自訴した。
厳しい幕府の取り調べが続き、警護の問題などで弥一郎一人が3月9日、堀家(村松藩)へ分預される。
文久元年7月26日、江戸伝馬町の獄舎で金子ら6人と斬刑に処せられた。
墓所は東京の回光院と水戸市松本町の常磐共有墓地。贈正五位。
【参考文献】
桜田門外ノ変、維新前史桜田義挙録、桜田烈士銘々伝、桜田烈士伝、水戸市史 中巻(四)、
歴史読本1993年5月号
【墓所】
水戸市松本町 常磐共有墓地