佐野 竹之介(さの たけのすけ)
【錦絵 近世義勇伝】
天保11年(1840)~安政7年(1860)※この画像は国立国会図書館の許諾を得て、
同館ウェブサイトより転載しています。
3月3日/負傷のため没/21歳/水戸藩士(小姓)
名は光明。変名海野愼八、佐藤武兵衛。父は佐野武衛門光誠、母は三木陸衛門玄秀の娘。
嘉永5年3月、14歳の時に父の隠居により家督を継ぎ、二百石小晋請組で出仕する。
安政3年3月9日には大番組に進み、同4年3月14日、同組頭となる。12月には小姓となり藩主の側近くに仕える。
代々、武を以って使えた家柄であったので、幼いころから剣道を学び、抜刀術、砲術も身に付けた。
一見小柄であったが、全身気力にあふれ、特異な存在として評されていた。短身に長刀を手挟んで闊歩するのを見て嘲った武士の眼前に抜刀術を振るったところ、その武士はひたすら非礼を詫びたという。
弘道館に入って学問にも励み、海後磋磯之介と親しくなり、休暇には海後の家を訪ねて時局を談じ、おそくなって泊まったこともあった。水戸藩尊攘派の中で行動派として中心的な動きを示す。
安政6年8月、幕府は水戸藩の斉昭、慶篤親子への処罰を決め、小石川の水戸藩邸へ上使が遣わされることとなった。この時竹之介は藩邸の門外でその使命の如何を問い、強硬に抵抗した。彼はそのために親族預けとなり、水戸表へ止められた。やがてその元凶井伊直弼を除いて水戸藩の主張を通すとの計画に参加、安政7年1月には水戸を脱し江戸へ上った。
水戸を出る直前に我が家に帰り、家族の歓待を受けたが、すぐ江戸に向かわねばならぬ。
その時に作った「出郷の作」という詩は、現在でも詩を吟ずる方に親しまれている。江戸に上った竹之介は一時薩摩藩邸に身を隠し、決行の時期を待つ。
大老襲撃時には、右翼(お濠側)で大関、広岡、稲田、森山、海後を引き連れ、佐野隊の隊長として奮戦。深手を負いながらも現場を脱す。黒沢、蓮田、斎藤とともに脇坂家(龍野藩)へ自訴し、その晩同士とともに細川家(熊本藩)へ移されるが、重傷のため没す。(一説ではすでに脇坂家で絶命していたとも)
墓所は水戸市酒門町の酒門共有墓地。贈正五位。
【参考文献】
桜田門外ノ変、維新前史桜田義挙録、桜田烈士伝、桜田烈士銘々伝、水戸市史(中四)、
歴史読本1993年5月号
【墓所】
水戸市酒門町 酒門共有墓地