森山 繁之介(もりやま しげのすけ)
【錦絵 近世義勇伝】
天保6年(1835)~文久元年(1861)※この画像は国立国会図書館の許諾を得て、
同館ウェブサイトより転載しています。
7月26日/死刑/27歳/水戸藩士高橋多一郎属吏
名は政徳。父は森山五六正徳。身分こそ低かったが人物はできており、母もしっかり者であったので子供の教育にも力を入れ、水戸の青監塾に通わせた。ここには後に同士となる蓮田一五郎も通っていた。 物覚えが良く話し上手でしかも気概があり、負けん気が強かったため学問も武芸も早く上達した。二十歳ごろ藩に仕えて矢倉方となる。その頃矢倉奉行となった高橋多一郎に認められ、水戸藩尊攘派の一員として行動する。
安政5年、水戸藩に下った勅諚に対し幕府は厳しく返納を命じた。安政7年、水戸藩庁がそれに応じる姿勢をしめすと、繁之介は尊攘激派の同志とともに水戸街道長岡宿に屯集し、その動きを阻止した。この対立の根源を絶つとの目的で、長岡勢の中から井伊直弼襲撃隊員に選ばれ、水戸を脱し江戸へ潜入、同3月3日、桜田門外で大老を襲った。
右翼(お濠側)から参加。激しい切り合いの中で彼は無傷で現場から脱し大関、杉山、森とともに細川家(熊本藩)へ自訴した。
脇坂家に自訴した黒沢、佐野、蓮田、斎藤も細川家へ預けられた。
細川家は元禄の時、赤穂の浪士を預かり、その待遇の良さで評判を取った家であったため、一同への待遇ははなはだよかったという。
その後3月9日、繁之介は田村家(一ノ関藩)へ、4月21日には戸田家(足利藩)へ移された。幕府の尋問を何度も受けたが、同志に誘われて挙に加わったに過ぎず、誰が計画し指導したかはわからない、と言い張った。翌年7月26日、死罪となる。墓所は回向院と水戸市松本町の祇園寺。贈正五位。
【参考文献】
桜田門外ノ変、維新前史桜田義挙録、桜田烈士銘々伝、桜田烈士伝、水戸市史 中巻(四)、
歴史読本1993年5月号
【墓所】
水戸市八幡町 祇園寺