広木 松之介(ひろき まつのすけ)
天保9年(1838)4月~文久2年(1862) 3月3日/自刃/25歳/水戸藩評定所物書雇
名は有吉。父は広木善蔵有清、母は宮崎氏。広木はのち実兄から提出された履歴留によると、大関和七郎に常に随従して行動したとある。安政の初めに藩に仕えて、評定所物書雇となり、のち寺社方にまわった。身分は低かったが、職務に熱心なほか忠義の志厚く、武芸にも秀でていた。
安政5年7月、前藩主斉昭が処罰される。この宥免のため、大関に従って上府し行動。勅諚の返納論が起きると、安政7年2月、絶対反対の尊攘激派として同志とともに水戸街道長岡宿に屯集し、これを阻止。
金子孫二郎から井伊大老襲撃の計画を知らされ,大関,山口らと共に最年少で参加。
決行当日は斉藤の組に入り、左翼(杵築藩邸側)から大老一行を襲撃。激しく井伊家の家中と切り合うも大きな負傷もせず1人で現場を脱す。西国を目指すが警戒が厳重で叶わず帰郷し父親に事情を話す。父親には大阪で義兵を挙げる計画を打ち明けられず、自訴しなかったことを責められる。
数日後再び西を目指すが、幕府の詮議が厳しく、能登の国の本住寺に潜伏。のちに鎌倉の上行寺に移ったものの、文久元年7月、自訴した仲間の処刑が行われたことを知ると、ついに意を決し、文久2年3月3日、一挙の三周忌の日、上行寺の墓地で切腹。墓所は水戸市見川の妙雲寺。贈正五位。
【参考文献】
【墓所】
名は有吉。父は広木善蔵有清、母は宮崎氏。広木はのち実兄から提出された履歴留によると、大関和七郎に常に随従して行動したとある。安政の初めに藩に仕えて、評定所物書雇となり、のち寺社方にまわった。身分は低かったが、職務に熱心なほか忠義の志厚く、武芸にも秀でていた。
安政5年7月、前藩主斉昭が処罰される。この宥免のため、大関に従って上府し行動。勅諚の返納論が起きると、安政7年2月、絶対反対の尊攘激派として同志とともに水戸街道長岡宿に屯集し、これを阻止。
金子孫二郎から井伊大老襲撃の計画を知らされ,大関,山口らと共に最年少で参加。
決行当日は斉藤の組に入り、左翼(杵築藩邸側)から大老一行を襲撃。激しく井伊家の家中と切り合うも大きな負傷もせず1人で現場を脱す。西国を目指すが警戒が厳重で叶わず帰郷し父親に事情を話す。父親には大阪で義兵を挙げる計画を打ち明けられず、自訴しなかったことを責められる。
数日後再び西を目指すが、幕府の詮議が厳しく、能登の国の本住寺に潜伏。のちに鎌倉の上行寺に移ったものの、文久元年7月、自訴した仲間の処刑が行われたことを知ると、ついに意を決し、文久2年3月3日、一挙の三周忌の日、上行寺の墓地で切腹。墓所は水戸市見川の妙雲寺。贈正五位。
【参考文献】
桜田門外ノ変、維新前史桜田義挙録、桜田烈士銘々伝、桜田烈士伝、水戸市史 中巻(四)、
歴史読本1993年5月号
【墓所】
水戸市見川町 妙雲寺