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森 五六郎(もり ごろくろう)

【錦絵 近世義勇伝】

※この画像は国立国会図書館の許諾を得て、
同館ウェブサイトより転載しています。

天保9年(1838)~文久元年(1861)
7月27日/刑死/24歳/水戸藩士(使番)

名は直長。初め大之進。父は森与左衛門直元の第5子。母は岩船願入寺一﨟西念寺某の姉。大きな子だったので母は難産したという。きかん坊で兄たちを困らせ、近所の子をいじめては叱られていた。長兄の三四郎秀直は家を継いだが、のち天狗諸生の抗争の時、天狗として古河藩に幽閉され斬死にあった。五六郎は尊攘派の家系で成長した。
父は兄たちと共に学問を勧めたが遊びに熱中して言うことを聞かなかった。しかし元服の頃からガラリと変わって本を読み武芸にも励み、多くの友人と交わるようになった。その後兄たちに継いで藩に出仕し、二十歳くらいで馬廻り役を命ぜられ、三百石を受けた。友人は血気に逸る若者たちで共に時局を談じ、幕府を攻撃するのが常であった。

安政5年の小金屯集や翌6年の長岡屯集にも参加した。この頃、激派の中に、混乱の原因は井伊直弼にありとする考えが固まっていった。五六郎も襲撃隊として脱藩して江戸へ。


この時、長らく家を空け兄たちにも会っていないので暇乞いをしようと水戸へ戻ったが、家族の顔を見て決心が鈍ってはいけないと思い返し、夜に家の周りを低回しただけで江戸へ出発してしまった。梅の季節だったが、いまだ開かぬ桜を想って一首詠んだ。
「君がため我が里いでし武蔵野に紫にほふ花と散るらん」。

襲撃のときは、剣術の腕と気性の激しさを買われ、先頭攪乱役を指名される。訴人のふりをして井伊の行列の先頭に駆け寄り、刀を抜いて斬りかかった。激しく切り合い、負傷しながら、大関、杉山、森山、森山と細川家(熊本藩)へ自訴し、幕府の取り調べを受ける。
その後、五六郎一人が3月9日には稲葉家(豊後臼杵藩)、さらに4月11日には片桐家(大和小泉藩)へと預け替えとなった。この時、稲葉家家臣が森から聞く事件関係の話を筆記し、それが事件を知る重要な記録『森五六郎物語』として伝わっている。文久元年7月27日、同志とともに死罪になった。
墓所は東京の回向院と水戸市松本町の常磐共有墓地。贈正五位。


【参考文献】

桜田門外ノ変、維新前史桜田義挙録、桜田烈士銘々伝、桜田烈士伝、水戸市史 中巻(四)、
歴史読本1993年5月号



【墓所】

水戸市松本町 常磐共有墓地

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