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山口 辰之介(やまぐち たつのすけ)

【錦絵 近世義勇伝】

※この画像は国立国会図書館の許諾を得て、
同館ウェブサイトより転載しています。

天保3年(1832)~安政7年(1860)
3月3日/負傷のため自刃/29歳/水戸藩士
(父は郡奉行、目付けなど歴任)

名は正。父は山口頼母徳正、母は加治伝兵衛の娘。第4子として生まれた。辰之介が幼年の頃、父は帰らぬ人となり、長兄の正道が家督を継ぐ。幼少より武芸、歌道にすぐれ、安政4年(1857)11月14日、学問出精により賞された。藩に出仕し累進して大番となり、禄高二百石を受けた。

辰之介は同藩の住谷信、大関和七郎らと仲が良く、酒を飲みながら天下国家を論じあった。小金屯集に加わることを母に打ち明けたところ、気丈な母は賛成し「目的を果たすまでは帰ってくるな」と励まされた。長岡屯集にも参加し、水戸の重役たちの武力で解散させられそうになった時「同じ水戸藩の者が刃を交えることは主旨に反する。」と、抵抗しなかった。

大老暗殺が計画されると、その実行部隊に参加した。2月23日、辰之介は大関の家を訪ねこれからのことについて話し合った。


かねてから切れ味のいい刀を望んでいた辰之介の思いを知っていた大関より、先祖から伝わった刀から好きなものを選ばせもらった。そのまま大関家に厄介になり、25日、大関、黒沢、広岡とともに上府。3月3日には左翼(杵築藩邸側)から果敢に井伊の行列へ切りこんだ。辰之介は全身に数創を帯び、血がおびただしく流れるほどの重傷を負いながら現場を脱した。引き揚げ途中、海後に介錯を頼むが、関があとから来ると断られたという。

その後、鯉淵要人と連れ添って歩き、日比谷御門を過ぎ八代洲河岸を通り、馬場先門と和田倉門の間の濠沿いにある増山河内守屋敷の角を右身曲がり、織田兵部少輔の塀で膝をついた。辰之介の手にした刀は弓のように曲がっていたという。鯉淵に介錯を頼み、自刃した。
織田家からの届けによると「左の後ろより首落ちかかり、左腕切れかかり、二の腕落ちかかり、そのほか数か所」の傷があったという。
墓所は東京の回向院と水戸市松本町の常磐共有墓地。贈正五位。


【参考文献】

桜田門外ノ変、維新前史桜田義挙録、桜田烈士銘々伝、桜田烈士伝、水戸市史 中巻(四)、
歴史読本1993年5月号



【墓所】

水戸市松本町 常磐共有墓地

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