稲田 重蔵(稲田 重藏/いなだ じゅうぞう)
【錦絵 近世義勇伝】
文化11年(1814) ※この画像は国立国会図書館の許諾を得て、
同館ウェブサイトより転載しています。
那珂郡下国井村(水戸市下国井町)に生まれる。
名は正辰。父は農民稲田孫衛門。
小さい時から利口で寺子屋に通って読み書きを習い、道場に入って剣術を学び、農民になるのを嫌った。しかし武家は世襲制度のため武士として身を立てるのは難しいと言い聞かせても納得しないので、父親がやむなく伝手を求めて田丸稲之衛門の従者として使ってもらうこととした。
やがて田丸に推され町方同心となり、田丸の甥の金子孫二郎が西郡奉公に就任すると、郡吏として抜擢された。田丸、金子に従って重蔵の尊皇攘夷への思想はますます深まり、行動も尊攘派の動向に従うことになる。
弘化元年(1844、)金子らが失脚すると彼も役を追われた。のち尊攘派の復活する安政期になると、南郡奉公となった金子のもと再び登用され、内元取締となり、民政に力を尽くした。
安政5年(1858)、「戊午の密勅」が水戸へ下ると、勅諚の全国への回達を主張し同士とともに小金に屯集した。「安政の大獄」がおき、金子ら水戸藩士を中心に大老井伊直弼襲撃計画が立てられると、志願して参加した。資金調達などに協力もした。
安政7年2月18日、事変に加わるため水戸を出立するときには、いつものように酒を酌み交わし何気なく「このたび止むを得ぬ用事があって、ちょっと江戸まで行ってくるが、少し時間がかかるかもしれない。
けれど、決して気づかいには及ばない」と「温顔これを諭し、すこしも憂慮の色を表さず」言ったので、妻子も怪しまなかったという。
襲撃の際は、刀を真っすぐにして、駕籠の扉に体あたりするも、彦根藩士の刃に斃れ、襲撃側の唯一の戦死者となった。享年47歳。贈正五位。
【参考文献】
桜田門外ノ変、維新前史桜田義挙録、桜田烈士伝、桜田烈士銘々伝、歴史読本1993年5月号
【墓所】
水戸市天王町 神崎寺