イノシシが土塁が壊す被害が相次いでいる竹原八郎屋敷跡=熊野市神川町花知で
|
 |
南朝の忠臣、竹原八郎が一三三一(元弘元)年に大塔宮護良親王を迎えたとされる熊野市神川町の竹原八郎屋敷跡(市指定文化財)の土塁が、イノシシの襲撃により崩落が進んでいる。四方を土塁で囲んだ「方形城館」で、南北朝時代の遺構として価値は高い。敵の襲撃には抜群の防御機能を誇ったが、獣という伏兵には苦戦気味だ。
人口三十三人の過疎集落、神川町花知(はなじり)の外れに、背丈を超える土塁が一辺ごとに四十メートルほど続く。屋敷跡の更地は花知神社として引き継がれ、大正期に土塁の一部を切り開く形で参道が設けられた。中のお社には竹原八郎らが祭られ、十一月三日に例祭が営まれる。
光厳天皇の日記「光厳院宸記」や軍記物語「太平記」によると、後醍醐天皇による鎌倉幕府を倒す計画が失敗した際、熊野に逃れた護良親王を竹原八郎がかくまった。竹原八郎はその後、伊勢で幕府方の守護代や地頭を襲撃する活躍を見せ、倒幕に一役買った。後世の一九一二年に従四位の位階を与えられ、北山川対岸の北山村にも骨置(こうず)神社などゆかりの史跡が残る。
屋敷跡は木立となっており、竹原八郎を祭るお社がたたずむ=熊野市神川町花知で
|
 |
花知神社総代の前田光義さん(83)によると、近年はイノシシが屋敷跡の土塁を掘り返すようになり、特に西側の土塁の崩落が進んだ。過疎化で獣の生息範囲が集落まで広がったことが原因。二〇一二年以降、住民が土塁の欠けた箇所に土を盛り、獣の侵入を防ぐ網を張ったため、一時的に被害はやんでいる。
北側の土塁は北山川に面していたため、大部分がすでに崩落。一一年の紀伊半島豪雨で川が増水し、屋敷跡の敷地の一部が削られた状態になったという。前田さんは「屋敷跡は祭りの場であり、住民にとって思い入れは深い。獣が集落や神社を荒らすことは残念だ」と話している。
市教委によると、屋敷跡はかつて、北側を除く全ての土塁の外側に堀が巡らされていた。丘陵地ではなく、平地に建てられた方形城館は珍しく、「三重の山城ベスト50を歩く」(サンライズ出版)の番外編でも紹介されている。
(小柳悠志)
この記事を印刷する