2014年05月08日
とある幹部の指導
書こうか書くまいか悩みました。
また魚拓とか言い出し、なんだかんだと言い出すのかもしれないが、書いておきます。
いい機会なので、スッキリさせておきましょう。
基本、削除前提です。
web上であれ、何であれ、公共の場所で、
他人のことをとやかく言うことは、
最後は――
・思想の自由
・言論の自由
・表現の自由
を奪うことになる。
教義に関しても、同じである。
創価学会の公式見解以外、一切認めないということはない。
そんなことは絶対にありえないそうだ。
御書を拝し、また、池田名誉会長の指導を拝し、
個人個人が思った感想を書いていいそうだ。
ただし、意識的に歪曲したり、
いらぬ誤解を生む可能性を良く考慮し、表現には「慎重」さをもってお願いします。
――ということだそうだ。
ここまでが、とある幹部の指導。
大なり小なり、他人の書いた文章に、
難癖をつけ、あれこれ要求し、それが積み重なって、
その人の、文章表現する気力や場所を奪ったなら、
もはやただの批判などではない。
私は以前、そういう事例をしかとこの眼で見てきた。
過去のこととはいえ、その点も誤解されているようなので、
ここでそのこともお話しする。
ただし、名誉のため、当事者のお名前(HN)は伏せます。
とあるブロガーAさんが、他人の記事に反応して、
とやかく言い始めた。
それに気づいた私は、そういうことはやめたほうがよろしい。
そう自身のブログで記事を書き訴えた。
(ブロガーAさんは、コメント欄を閉じて運営し、連絡先のメールアドレスを表示していなかったので、仕方のないことだった。自分のところで記事を書く以外、方法がなかったのです)
ブロガーAさんは、私が記事を書いたことで、晒し者にされたと勘違いされた。
私は、記事上で事情を説明し、理由も述べ、丁寧に説明もした。
恐らくそうしたやり取りを見ていたブロガーBさんが、
それとは無関係であったAさんの信心の姿勢に難癖をつけはじめた。
誰しも人間革命の途次である。決して完璧ではない。
確かに、Bさんが指摘したとおり、Aさんの信心の姿勢には未熟な部分もあった。
そういう話になったのなら、その点も含めてAさんが成長できるようにと、
私は信心の姿勢(というよりも、それ以前の人間性の部分について)
記事を書いて、意見を述べた。
勘違いしないでほしいのはこの部分だ。
ブロガーAさんは、それはそれは立派な唱題の人だった。
いつも唱題時間を書き、悩みと必死に戦っている人だった。
その唱題する姿勢には感心し、何があっても乗り越えて欲しい。
そういう応援する気持が私の中には、あった。
だから私は、Aさんに好感を持っていた、だからこそ、人間性の部分も修正してほしかったのだ。
そういうAさんであったが、ブログ村という場所を見渡せば、
そこに登録している多くのサイトにコメントを書き込んでいることに気づいた。
そのコメントはほとんどの場合、サイト主に対する苦情であり、
Aさん自身の不平不満を晴らそうとする行為であり文言だった。
別の言い方をすれば、愚痴と文句だったのです。
そうしたものを見た私は残念でならなかった。
あんなに一生懸命唱題し、頑張っていても、
同志に感情をぶつけていては(怨嫉していては)、何の意味もないからだ。
なんとしても気づいて欲しい。
そういう思いで、私はいくつかの記事を書いた。
渾身の思いで、唱題の中、書いた記事がこれだ。
(当時の私は、真剣に悩んだゆえ、円形脱毛ができ、不眠症にもなりました)
でも、思いは通じましたよ。
AさんはBさんから批判されたことで、
自分のブログにBさんへの抗議の気持ちを綴っていたが、
私の記事を読んだのでしょう、
そうした文言を自主的に削除されました。
大切なのはここでしょう。
批判という形で、無理やり相手の言動を変えさせるのではなく、
相手の自主性を促すことこそが大切なんですよ。
だから、批判に意味はないのですよ。
必要なのは、激励なんですよ。
私はこれでAさんは大丈夫だろう。
そう感じました。
しかし、不安材料がひとつあったのです。
Bさんです。
いまここで、Bさんが再度、Aさんを批判するようなことになったなら・・・。
そう考え、私はBさんのブログに非公開コメントで、Aさんも反省されたようだから、
これ以上、批判し続けるのはやめてください、とそうお願いしたのだ。
だが、Bさんは、私の訴えを聞き入れず、Aさんを批判する記事を書いたのだ。
トドメでしたね、あれが。
Aさんは、さすがにショックを受けたのでしょう。
ブログ村を退会し、最後にはブログを削除しました。
関わった手前、私は、最後までAさんを見守っていきたかった。
だから、削除したあと、また新たにブログを立てていないかと探したこともあった。
みつけましたよ。
ひっそりと、ひっそりとではありましたが、
唱題ブログを再開しているAさんを見つけました。
あのときの喜びは忘れようもありません。
他のブロガーへのコメントも、謙虚な姿勢になっていました。
でも、残念ながら、Aさんは、しばらくしてそのブログも削除されました。
それから今まで、Aさんを見かけたことはありません。
1年半も前の話です。
でも、それ以来私は反省し、他者のことを書くまい。
決して書かないようにしようと徹してきたのです。
批判はするなと何度も書いてきました。
批判をすることは創価の魂に反するとも書いてきたのです。
以下、Bさんの名誉のためにお話しさせてもらいます。
確かに批判は批判であったのだが、
そこには素晴らしい内容もあったんです。
今でも忘れていません。鮮明に憶えていますよ。
ほんの少しのズレ、例えば角度にして1度とか3度であっても、
それが百メートル、1キロという距離になったらどうなりますか?
物凄いズレになるのです。
ほんの少しのズレをそのままにしておくと、
5年後、10年後に大変なことになるのです。
という、比喩を使ったお話しでした。
そして、昨年7月。
このブログがアンチの攻撃対象になったのです。
そして、そうした状況に便乗といった形で、
とある人物から私は批判を受けたのです。
そこからは酷かったですね。
便乗する人がどんどん増え、
私は叩きに叩かれましたよ。
私のことを擁護しようとしてくれた人もいました。
しかし、私はそうした人を巻き込み、事が大きくなることを杞憂し、
お気持ちは受け取るが、黙っていてくださいとお願いし、
1対多数という形で、自尊心を守るためにずっと戦ってきたんですよ。
とある人が、あまりにも酷い私への批判に業を煮やし、
私に言いました。
「もう我慢ならない、私も戦う」と。
もう止めることも出来ませんでした。
もちろん、やめてくれ、そうはお願いしましたが、
何事も強制すべきではありませんでしたからね。
最後は自由なんですよ。
どろ試合、遺恨試合。呼び方はどうでもよいのです。
そうしたものが続きました。
もうやめてくれ。
相手にせず、スルーしてください。
なんども当事者のひとりには、完全無視をお願いしたんです。
そうして一時鎮火していた批判合戦が再開されたのは、最近のことです。
今現在、すべては鎮火し、全ては終わっています。
結局のところ、
あらゆる出来事は、誰が悪いのではないのです。
それが悪であると決めてしまうこちら側の心にこそ、すべての原因があるのです。
どんな悪事を見ても、それを善知識として変えていけばいいだけなのです。
不必要に関わって、争いを起こす必要もないのです。
ただひとつ許されない悪は――
自分が法華経を誹謗すること、それだけなのですよ。
無論、その当体であるご本尊を受持する人を誹謗したり、批判することも悪になります。
だからこそ、相手が悪に見えたとしても、
こちら側の心では、悪であると決めずに、善知識にしていけばいいのです。
そして批判などせず、相手の幸せを、自他の罪障消滅を、陰で祈っていけばいいのです。
私は騒動の最中。
真剣に、腹の底から、心の底から、
相手の幸せを祈りました。
そうなれるまで、時間はかかりましたけどね。
で、そうなれた瞬間、自分の言動を省みて、素直に相手に対して謝罪することで、
どろ試合をひとまず落着させたのです。
先生も仰っています。
嫌いな人のことも、少しでもいいから祈っていけるようになってください、と。
そう、嫌いな人こそ、自分を一番成長させてくれるんですよ。
私は、やりあった人たちに感謝しています。
でもね、そういう気持ちになれるまでは、時間がかかるのも事実でしょう。
皆さんもお気をつけになったほうがよろしいでしょう。
安易な気持で、他者のことを書くべきではない。
軽い批判のつもりが、ブログ削除というところに結び付けば、
それは一種、表現の自由を奪ったという結果になるからだ。
以前、創価の名を汚すようなブログをネット上から全て消し去りたいと言った人がいた。
つまり、こういう思想こそが、
善意のつもりであっても、結果的に思想の自由を奪い、思想を統制することになる。
そういう意識を持って欲しく思います。
言い方は良くないが、
間違ったものもあっていい、誤解を生む表現があってもいいのです。
なぜなら、そういうものがあるからこそ、
正しいものはどれだ? と考え、正邪・善悪を見抜く力量を養え、思想は進化していくのですから。
思想は常に進化していくべきものだからです。
仏法は無上道だからです。
公式見解を振りかざして、思想の進化にブレーキをかけることも間違いなのです。
ゆえに――
web上であれ、何であれ、公共の場所で、
他人のことをとやかく言うことは、
最後は――
・思想の自由
・言論の自由
・表現の自由
を奪うことになる。
教義に関しても、同じである。
創価学会の公式見解以外、一切認めないということはない。
そんなことは絶対にありえないそうだ。
御書を拝し、また、池田名誉会長の指導を拝し、
個人個人が思った感想を書いていいそうだ。
ただし、意識的に歪曲したり、
いらぬ誤解を生む可能性を良く考慮し、表現には「慎重」さをもってお願いします。
――ということだそうだ。
お前の言ってることなんて信用できるか。
そう仰るかたは、
地元の信頼できる幹部に指導をうけて、納得できる答えを出してください。
それでも納得できなければ、
学会本部に相談室もありますので、
そこで指導を受けてください。
人間ですから、
真面目に純粋に何かに取り組んでいれば、
熱くなりすぎて、たがが外れてしまうこともあるでしょう。
思いあまって、ああしろ、こうしろとなってしまうのが人間です。
でも、そこから生まれるのは争いでしかないのです。
「変わって欲しい」「解って欲しい」で他人にものを言わないほうがいいのです。
そうならないためには、他人のことをとやかく書かないことです。
自分のやっていること、やってきたこと、自分の思いを書いていけばいいのです。
それが創価の思想と一致していれば、自身宝塔として輝いているのですから、
評価され、信頼され、信用されていくのですから。
思いといっても、世間や他者への思いではない。
自分がどうなりたいかという思いを書けばいいのです。
私自身も気をつけていきますよ。
とはいっても、更新停止を宣言したので、
ここではその気をつけている姿を見せることは出来ませんけどね。
ともあれ、批判されたら完全スルー。完全無視です。
批判に反応することは、
怒りに対し怒りを持ち、悪(怒り)を増長させるからです。
でも、戦うべきときには戦わなければいけませんよね?
すべてはTPOですよね?
ようはそういうことですよね?
という私の問いかけに、
とある幹部は、その通りです、そういうことですと、大きく肯いてくれました。
つまり――
「時」を知って行動しなさい、ということでしょう。
ここで言うのも気が引けますが、
私は私のしてきたことが間違っていなかったことを、
きちんと確認しましたよ。
皆さんも、疑問に思うことがあったなら、
まず自分で考えに考え、それでも答えが出なかったならば、
指導を受けるといいのではないでしょうか。
学会は指導主義です。
しかし、最後の納得は自分自身でするしかないのです。
ご本尊と向き合う。自分と向き合う。
このことこそが、それに相通ずるのです。
ともあれ、お節介もほどほどにということでしょう(笑)
「良い加減」=中道を見つけて、相手と関わっていかないと、
お互いに傷つけあうだけですからね。
最後に――
ある人のために書いておきます。
恐怖。
そんなものは存在しません。
自分が作り上げた妄想であり、幻想ですよ。
私自身も、恐怖を感じることはあります。
でもそれは、妄想であり幻想であると自分に言い聞かせ、振り払うようにしています。
(参考記事)
生命力が落ち、過去に執着することで、
それまで自分が培ってきた自信を失うという心が、恐怖という妄想を見せているんです。
生命力があり、未来に不安があると、
それは思ったことが思った通りにならないという執着を生み、それはやがて怒りになります。
これも妄想であり、幻想です。
それから、どうやっても自分の力や言動でコントロールしようとしても出来ない事というものがあります。
それを無理やりコントロールしようとすることも、苦を生みだすのです。
非常にストレスを溜める生き方であり思考です。これもまた妄想であり幻想です。
上記3項目は、
うつ病や、心の病の原因です。
全ての執着を捨て、過去や未来に振り回されず、
今を生きること。
それが全てです。
今を楽しんで生きること、それが全てです。
衆生所遊楽。
恐怖も不安も苦も、しょせん、自分自身で作り上げている妄想であり、幻想なのですから。
私たちは、楽しむためにここに生まれてきたのだから。
ともあれ、参考記事にあるように、
私は私なりに自分と向き合い、いろいろなことを知ってきて、ここに書いてきたんです。
最近感じていました。
もう書くことないなぁ、と。
繰返しが大切なことは知っているし、無上道を放棄する気はないが。
もう書くことないなぁが私の正直な気持ちなんですよ。
思索する場所としてあった、このブログ。
その場所を失うのは私からするとショックなことだ。
けどねぇ、このブログの使命は終わったんじゃないかなぁ。
そうも感じているんですね。
ま、当分更新しないことでしょう。
また魚拓とか言い出し、なんだかんだと言い出すのかもしれないが、書いておきます。
いい機会なので、スッキリさせておきましょう。
基本、削除前提です。
web上であれ、何であれ、公共の場所で、
他人のことをとやかく言うことは、
最後は――
・思想の自由
・言論の自由
・表現の自由
を奪うことになる。
教義に関しても、同じである。
創価学会の公式見解以外、一切認めないということはない。
そんなことは絶対にありえないそうだ。
御書を拝し、また、池田名誉会長の指導を拝し、
個人個人が思った感想を書いていいそうだ。
ただし、意識的に歪曲したり、
いらぬ誤解を生む可能性を良く考慮し、表現には「慎重」さをもってお願いします。
――ということだそうだ。
ここまでが、とある幹部の指導。
大なり小なり、他人の書いた文章に、
難癖をつけ、あれこれ要求し、それが積み重なって、
その人の、文章表現する気力や場所を奪ったなら、
もはやただの批判などではない。
私は以前、そういう事例をしかとこの眼で見てきた。
過去のこととはいえ、その点も誤解されているようなので、
ここでそのこともお話しする。
ただし、名誉のため、当事者のお名前(HN)は伏せます。
とあるブロガーAさんが、他人の記事に反応して、
とやかく言い始めた。
それに気づいた私は、そういうことはやめたほうがよろしい。
そう自身のブログで記事を書き訴えた。
(ブロガーAさんは、コメント欄を閉じて運営し、連絡先のメールアドレスを表示していなかったので、仕方のないことだった。自分のところで記事を書く以外、方法がなかったのです)
ブロガーAさんは、私が記事を書いたことで、晒し者にされたと勘違いされた。
私は、記事上で事情を説明し、理由も述べ、丁寧に説明もした。
恐らくそうしたやり取りを見ていたブロガーBさんが、
それとは無関係であったAさんの信心の姿勢に難癖をつけはじめた。
誰しも人間革命の途次である。決して完璧ではない。
確かに、Bさんが指摘したとおり、Aさんの信心の姿勢には未熟な部分もあった。
そういう話になったのなら、その点も含めてAさんが成長できるようにと、
私は信心の姿勢(というよりも、それ以前の人間性の部分について)
記事を書いて、意見を述べた。
勘違いしないでほしいのはこの部分だ。
ブロガーAさんは、それはそれは立派な唱題の人だった。
いつも唱題時間を書き、悩みと必死に戦っている人だった。
その唱題する姿勢には感心し、何があっても乗り越えて欲しい。
そういう応援する気持が私の中には、あった。
だから私は、Aさんに好感を持っていた、だからこそ、人間性の部分も修正してほしかったのだ。
そういうAさんであったが、ブログ村という場所を見渡せば、
そこに登録している多くのサイトにコメントを書き込んでいることに気づいた。
そのコメントはほとんどの場合、サイト主に対する苦情であり、
Aさん自身の不平不満を晴らそうとする行為であり文言だった。
別の言い方をすれば、愚痴と文句だったのです。
そうしたものを見た私は残念でならなかった。
あんなに一生懸命唱題し、頑張っていても、
同志に感情をぶつけていては(怨嫉していては)、何の意味もないからだ。
なんとしても気づいて欲しい。
そういう思いで、私はいくつかの記事を書いた。
渾身の思いで、唱題の中、書いた記事がこれだ。
(当時の私は、真剣に悩んだゆえ、円形脱毛ができ、不眠症にもなりました)
でも、思いは通じましたよ。
AさんはBさんから批判されたことで、
自分のブログにBさんへの抗議の気持ちを綴っていたが、
私の記事を読んだのでしょう、
そうした文言を自主的に削除されました。
大切なのはここでしょう。
批判という形で、無理やり相手の言動を変えさせるのではなく、
相手の自主性を促すことこそが大切なんですよ。
だから、批判に意味はないのですよ。
必要なのは、激励なんですよ。
私はこれでAさんは大丈夫だろう。
そう感じました。
しかし、不安材料がひとつあったのです。
Bさんです。
いまここで、Bさんが再度、Aさんを批判するようなことになったなら・・・。
そう考え、私はBさんのブログに非公開コメントで、Aさんも反省されたようだから、
これ以上、批判し続けるのはやめてください、とそうお願いしたのだ。
だが、Bさんは、私の訴えを聞き入れず、Aさんを批判する記事を書いたのだ。
トドメでしたね、あれが。
Aさんは、さすがにショックを受けたのでしょう。
ブログ村を退会し、最後にはブログを削除しました。
関わった手前、私は、最後までAさんを見守っていきたかった。
だから、削除したあと、また新たにブログを立てていないかと探したこともあった。
みつけましたよ。
ひっそりと、ひっそりとではありましたが、
唱題ブログを再開しているAさんを見つけました。
あのときの喜びは忘れようもありません。
他のブロガーへのコメントも、謙虚な姿勢になっていました。
でも、残念ながら、Aさんは、しばらくしてそのブログも削除されました。
それから今まで、Aさんを見かけたことはありません。
1年半も前の話です。
でも、それ以来私は反省し、他者のことを書くまい。
決して書かないようにしようと徹してきたのです。
批判はするなと何度も書いてきました。
批判をすることは創価の魂に反するとも書いてきたのです。
以下、Bさんの名誉のためにお話しさせてもらいます。
確かに批判は批判であったのだが、
そこには素晴らしい内容もあったんです。
今でも忘れていません。鮮明に憶えていますよ。
ほんの少しのズレ、例えば角度にして1度とか3度であっても、
それが百メートル、1キロという距離になったらどうなりますか?
物凄いズレになるのです。
ほんの少しのズレをそのままにしておくと、
5年後、10年後に大変なことになるのです。
という、比喩を使ったお話しでした。
そして、昨年7月。
このブログがアンチの攻撃対象になったのです。
そして、そうした状況に便乗といった形で、
とある人物から私は批判を受けたのです。
そこからは酷かったですね。
便乗する人がどんどん増え、
私は叩きに叩かれましたよ。
私のことを擁護しようとしてくれた人もいました。
しかし、私はそうした人を巻き込み、事が大きくなることを杞憂し、
お気持ちは受け取るが、黙っていてくださいとお願いし、
1対多数という形で、自尊心を守るためにずっと戦ってきたんですよ。
とある人が、あまりにも酷い私への批判に業を煮やし、
私に言いました。
「もう我慢ならない、私も戦う」と。
もう止めることも出来ませんでした。
もちろん、やめてくれ、そうはお願いしましたが、
何事も強制すべきではありませんでしたからね。
最後は自由なんですよ。
どろ試合、遺恨試合。呼び方はどうでもよいのです。
そうしたものが続きました。
もうやめてくれ。
相手にせず、スルーしてください。
なんども当事者のひとりには、完全無視をお願いしたんです。
そうして一時鎮火していた批判合戦が再開されたのは、最近のことです。
今現在、すべては鎮火し、全ては終わっています。
結局のところ、
あらゆる出来事は、誰が悪いのではないのです。
それが悪であると決めてしまうこちら側の心にこそ、すべての原因があるのです。
どんな悪事を見ても、それを善知識として変えていけばいいだけなのです。
不必要に関わって、争いを起こす必要もないのです。
ただひとつ許されない悪は――
自分が法華経を誹謗すること、それだけなのですよ。
無論、その当体であるご本尊を受持する人を誹謗したり、批判することも悪になります。
だからこそ、相手が悪に見えたとしても、
こちら側の心では、悪であると決めずに、善知識にしていけばいいのです。
そして批判などせず、相手の幸せを、自他の罪障消滅を、陰で祈っていけばいいのです。
私は騒動の最中。
真剣に、腹の底から、心の底から、
相手の幸せを祈りました。
そうなれるまで、時間はかかりましたけどね。
で、そうなれた瞬間、自分の言動を省みて、素直に相手に対して謝罪することで、
どろ試合をひとまず落着させたのです。
先生も仰っています。
嫌いな人のことも、少しでもいいから祈っていけるようになってください、と。
そう、嫌いな人こそ、自分を一番成長させてくれるんですよ。
私は、やりあった人たちに感謝しています。
でもね、そういう気持ちになれるまでは、時間がかかるのも事実でしょう。
皆さんもお気をつけになったほうがよろしいでしょう。
安易な気持で、他者のことを書くべきではない。
軽い批判のつもりが、ブログ削除というところに結び付けば、
それは一種、表現の自由を奪ったという結果になるからだ。
以前、創価の名を汚すようなブログをネット上から全て消し去りたいと言った人がいた。
つまり、こういう思想こそが、
善意のつもりであっても、結果的に思想の自由を奪い、思想を統制することになる。
そういう意識を持って欲しく思います。
言い方は良くないが、
間違ったものもあっていい、誤解を生む表現があってもいいのです。
なぜなら、そういうものがあるからこそ、
正しいものはどれだ? と考え、正邪・善悪を見抜く力量を養え、思想は進化していくのですから。
思想は常に進化していくべきものだからです。
仏法は無上道だからです。
公式見解を振りかざして、思想の進化にブレーキをかけることも間違いなのです。
ゆえに――
web上であれ、何であれ、公共の場所で、
他人のことをとやかく言うことは、
最後は――
・思想の自由
・言論の自由
・表現の自由
を奪うことになる。
教義に関しても、同じである。
創価学会の公式見解以外、一切認めないということはない。
そんなことは絶対にありえないそうだ。
御書を拝し、また、池田名誉会長の指導を拝し、
個人個人が思った感想を書いていいそうだ。
ただし、意識的に歪曲したり、
いらぬ誤解を生む可能性を良く考慮し、表現には「慎重」さをもってお願いします。
――ということだそうだ。
お前の言ってることなんて信用できるか。
そう仰るかたは、
地元の信頼できる幹部に指導をうけて、納得できる答えを出してください。
それでも納得できなければ、
学会本部に相談室もありますので、
そこで指導を受けてください。
人間ですから、
真面目に純粋に何かに取り組んでいれば、
熱くなりすぎて、たがが外れてしまうこともあるでしょう。
思いあまって、ああしろ、こうしろとなってしまうのが人間です。
でも、そこから生まれるのは争いでしかないのです。
「変わって欲しい」「解って欲しい」で他人にものを言わないほうがいいのです。
そうならないためには、他人のことをとやかく書かないことです。
自分のやっていること、やってきたこと、自分の思いを書いていけばいいのです。
それが創価の思想と一致していれば、自身宝塔として輝いているのですから、
評価され、信頼され、信用されていくのですから。
思いといっても、世間や他者への思いではない。
自分がどうなりたいかという思いを書けばいいのです。
私自身も気をつけていきますよ。
とはいっても、更新停止を宣言したので、
ここではその気をつけている姿を見せることは出来ませんけどね。
ともあれ、批判されたら完全スルー。完全無視です。
批判に反応することは、
怒りに対し怒りを持ち、悪(怒り)を増長させるからです。
でも、戦うべきときには戦わなければいけませんよね?
すべてはTPOですよね?
ようはそういうことですよね?
という私の問いかけに、
とある幹部は、その通りです、そういうことですと、大きく肯いてくれました。
つまり――
「時」を知って行動しなさい、ということでしょう。
ここで言うのも気が引けますが、
私は私のしてきたことが間違っていなかったことを、
きちんと確認しましたよ。
皆さんも、疑問に思うことがあったなら、
まず自分で考えに考え、それでも答えが出なかったならば、
指導を受けるといいのではないでしょうか。
学会は指導主義です。
しかし、最後の納得は自分自身でするしかないのです。
ご本尊と向き合う。自分と向き合う。
このことこそが、それに相通ずるのです。
ともあれ、お節介もほどほどにということでしょう(笑)
「良い加減」=中道を見つけて、相手と関わっていかないと、
お互いに傷つけあうだけですからね。
最後に――
ある人のために書いておきます。
恐怖。
そんなものは存在しません。
自分が作り上げた妄想であり、幻想ですよ。
私自身も、恐怖を感じることはあります。
でもそれは、妄想であり幻想であると自分に言い聞かせ、振り払うようにしています。
(参考記事)
生命力が落ち、過去に執着することで、
それまで自分が培ってきた自信を失うという心が、恐怖という妄想を見せているんです。
生命力があり、未来に不安があると、
それは思ったことが思った通りにならないという執着を生み、それはやがて怒りになります。
これも妄想であり、幻想です。
それから、どうやっても自分の力や言動でコントロールしようとしても出来ない事というものがあります。
それを無理やりコントロールしようとすることも、苦を生みだすのです。
非常にストレスを溜める生き方であり思考です。これもまた妄想であり幻想です。
上記3項目は、
うつ病や、心の病の原因です。
全ての執着を捨て、過去や未来に振り回されず、
今を生きること。
それが全てです。
今を楽しんで生きること、それが全てです。
衆生所遊楽。
恐怖も不安も苦も、しょせん、自分自身で作り上げている妄想であり、幻想なのですから。
私たちは、楽しむためにここに生まれてきたのだから。
ともあれ、参考記事にあるように、
私は私なりに自分と向き合い、いろいろなことを知ってきて、ここに書いてきたんです。
最近感じていました。
もう書くことないなぁ、と。
繰返しが大切なことは知っているし、無上道を放棄する気はないが。
もう書くことないなぁが私の正直な気持ちなんですよ。
思索する場所としてあった、このブログ。
その場所を失うのは私からするとショックなことだ。
けどねぇ、このブログの使命は終わったんじゃないかなぁ。
そうも感じているんですね。
ま、当分更新しないことでしょう。