粥(しゅく)座 (朝食) おかゆ、漬物 。 斎座(昼食) 麦飯、みそ汁、漬物 。 薬石(夕食)朝昼の
残りものと漬物
臨済宗の天龍寺僧堂(京都市右京区)で、夏90日間、冬120日間続く禅の修行ののあいだ、雲水
(修行僧)の食事は、基本的にはこれだけと定められている。
時には、豆腐などの一品が加えられたり、托鉢中に檀家などで食事を供されたり、ある程度は栄養を
補う工夫があるとはいえ、現在の基準からすると、かなりの粗食といえる。
しかし、僧侶が餓死したという話しは聞かない。天龍寺の宗務総長、栂(とが)承昭さんは「強い空腹感
はありますが少ない食事からエネルギーを吸収する力がつくんでしょう。かなり粗末なものでも生きて
いけますよ」と話す。修行中に太る人さえいるという。食事の時間も、修行の一環とされる禅寺では、
食べ物も厳格な作法に従わなくてはならない。食堂(じきどう)では、食前食後にはお経を唱える以外、
完全な沈黙が要求される。私語は厳禁。汁をすする音どころか、皿や箸の当たる音さえ許されない。
正座して、自鉢と箸を並べる。飯台看(はんだいかん)とよばれる給仕役に飯や汁を盛ってもらい、黙々と
食べる。食事の終わりに、器に茶が注がれる。一切れだけ残した漬け物で、器についた飯粒などを
ぬぐって、お茶とともに飲み干す。食事の様子は、7百年前からほとんど変わっていないという。
プラスチック製の器が増えたぐらいで、作法は昔の人が定めたとおりに行っている。量といい、多くの
決まり事といい、そこには享楽のひとかけらもない。美食、飽食とは対照的な食事の姿だ。
あえてそういう生活に身を置いて、修行僧は、「働いて糧を得ることもせず、人々が供養(寄進)という
形で支えてくれていることを感謝する心」をはぐくむことを求められる。また、好き嫌いをせず、飯の一
粒、野菜の屑さえ大切にする気持ちを持たなくてはならない。すこし子供に論するような話しになって
くる。しかし、食べ物があふれるこの時代に、どれだけの人がそれを切実に感じて、自らの生活で実
践しているか。当たり前のことが、いつのまにか当たり前でなくなってしまったのか。雲水の食事は、
そう問いかけているように思える。「食というのは、最も我欲が露骨にでてしまうものでしょうね。
価値観はひとそれぞれでしょうが、心の持ち方ひとつで、豊な食生活は実現出来ると思います。
『足るを知る』。つまり自分に必要なものは何なのかを考えるのが、修行の基本ですが、食についても
原点に立ち返ってみることが必要かもしれませんね」と栂さん。食堂で読まれるお経「食事五観文」には
こんな一文がある。「正に良薬を事とする形枯(ぎょうこ)を療(りょう)せんがためなり」 薬を呑むような心
がけが大切で、健康を保つことが食事の目的である、という意味だ。 心をはぐくむ雲水の食事