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お役所に関わらなきゃならないすべてのひとのために
公務員の(ための?)社会学

 
社会学は使えるのか? 「リクツ」が何の役に立つのか?
政策評価の本格的な導入がはじまったことで、「日本の社会科学の応用部分の弱さ」と「応用を生かした政策論の蓄積不足」を原因とする「評価手法と評価主体」の未成熟の問題が浮かび上がりつつある。
要するに、お役人はこれまで「リクツ」をてんで受け付けなかった(言い訳に使うことはあったにせよ)。いよいよ、そのツケがまわってきているのだ。
けれども「リクツ」軽視は、お役所だけの問題ではない。お役所も一枚かんだ「役に立たない社会科学」という神話のワケをさぐってみる。

「役に立たない」社会科学
 

 1975年6月、OECD科学技術政策委員会の「社会科学の開発と利用」に関する調査団が日本に派遣され、2年後『日本の社会科学政策』 と呼ばれる報告書が作成された。
 この報告書は、日本の政策形成システムや大学やシンクタンクなどの研究機関、中学高校を含む教育システムなど広範な分野について、極めて厳しい評価と多くの提言を行った。報告書が多くの反響を引き起こしたこと、特に日本の社会科学者から反発を招いたこと、それにもかかわずその後の日本の状況は、いくつかの改善がなされたにせよ、四半世紀経った現在も根本的には相変わらずであることなど、取り上げるべきトピックは多いが、報告書の詳細な分析にふれる前にまず気づくのは、調査団及び報告書を最終的にまとめたOECD科学技術政策委員会事務局の前提と、調査の対象になった日本の社会科学の現状に対して責任を持つ人々との間に横たわる大きなギャップである。
 すなわち、報告書の強い主張は次の信念に基づいている、「社会科学は有用である(もちろん日本でも)」。これはおそらく日本の政策・研究・教育システムを担う人々が、共有していない信念である。したがって調査団はまず、「日本人はなぜ社会科学は役に立たないと信じているのか」を、日本の社会システムやその歴史にまで踏み込んで分析する必要があった。そしてこの分析は、「社会科学は役に立たない」ことを当然とする人たちからは生まれないものであった。

 事態をごく単純化して述べるならこうだ。
 「社会科学は役に立たない」という信念が、実際に社会科学の活用・活躍を妨げる。そしてそのことが「社会科学は役に立たない」という信念をますます強化する。つまり、「社会科学は役に立たない」という信念は、自己成就的予言となっている。
 「社会科学は役に立たない」という信念は、人々の「常識」の中のみならず、多くの政治社会システムにゆきわたっている。あるいは、その信念は(常識という信念システムも含めて)さまざまな社会システムの形をとっている、ともいえる。報告書の主張は、これら社会システムが社会科学の活用・活躍において障害として機能し、結果、「役立たずの信念」とそれに基づく社会システムが強化・再生産されるということである。以下では、社会科学に関わりの深い社会システムを「活用・活躍における障害」として概観することにしよう。

1 教育システム

 日本の高等教育は大きく「文科系」と「理科系」とに分けられ、文科系の中心は伝統的に法学部が担ってきた。このことは、後発国として急速な産業化と近代国民国家形成を求められた日本の近代化に由来する。西洋諸国からの技術移転を担う人材と、同じく近代国家制度の構築を担う人材とを速やかに育成することが、高等教育の第一目標に据えられたからである。国家制度の樹立後は、その運営に当たるゼネラリストたちを供給する訓練・スクーリング機関として法学部は機能を果たしてきた。
 こうして日本における近代国家建設時において「社会科学」とは実利的価値が高いと考えられた法律学と(ややおくれて)経済学を意味するものとされてきた。それ以外はすべて----心理学も人類学も言語学も哲学も社会学も----リベラル・アーツを思わせる「人文科学」として文学部におさめられたのである。リベラル・アーツとしての「人文科学」は、後発国に求められた急速な近代化にあっては、「実利の学」の残余として、直接は国家利益につながらない「教養」に近いものとされた。それは、よく言えば「人格の完成」に関わるが、悪くいえば全体としての国益につながらない(個人化されやすい)ものであった。
 社会科学の分類は、その国の文化に左右されるものであるから、『日本の社会科学政策』が前提とする「社会科学」を我が国に当てはめるのは無理がある、との反論が日本側から出されたが、「ではなぜそうした日本独自の分類ができあがったか」について分析されることはなかった。『日本の社会科学政策』は、こうした議論を無効化するためだけの「文化相対主義」にとどまることなく、そうした分類自身が「社会科学は役に立たない」という信念のひとつの表現であり、同時にその信念の成り立ちを突き止める鍵となると指摘する。すなわち、この分類は、日本の近代国家樹立時における「実利性」において行われた分類であること、この分類において日本の高等教育の学部編成が行われ基本的には現在も継承されていること、そうして学部編成が行われた後に輸入・導入された多くの社会科学social sciences(人類学、地理学、歴史学、心理学等の行動科学、社会学など)は、残余の学として「人文科学」に放り込まれた。すなわち「役には立たない教養の学」「好きな者がやればいい学問」として。
 この分類の影響は、遠く現在の中学・高校の「社会科」にも及んでいる。その内容の大きな部分を占めるのは、「教育内容」(の偏向?)だけが問題になる暗記科目としての歴史・地理であり、現代社会を扱う科目は政治制度や経済制度の用語を紹介するだけで、その内容は新聞を読むにも足りないほどである。社会を分析するツールとしての(使える)社会科学ではなく、教養としての(受け取るだけの)社会科がここにある。加えて、共通一次がセンターテストに変わった後は、多くの学校が受験科目から外したせいで、これらはすでに「暗記科目」ですらない。
 たまたま大学で学ぶことになったとしても、最初に学ぶ(そして最後の学びでもある)社会科学は、少なからず、社会科学者の学説紹介や用語解説にはじまり、そして終わる。学生が社会科学を使う場面は、それを専門とした者以外はほとんどない。多くの人が社会科学social sciencesを、少しも「使わない」ままに----しかもそれらが「道具=使えるもの」だと知らされないままに、社会に出ることになる。
「しかも、中学校、高等学校、大学の入試、就職のための試験はいずれも経験科学的な社会科学の手法には重きをおいていないので、社会全体もまた、このような手法に実用的価値を認めなくなり、このような学習に時間を割くのは無駄だという考え方が一般化している。」(『日本の社会科学政策』)

2 研究システム

 「日本学術会議の有権者数は、18万名であるが、そのうち政治学者、経済学者、社会学者、人類学者、社会心理学などの社会科学関係の有権者はわずか3500人程度で、全体の恐らく2%に満たない
 さらにこの数少ない社会科学者の中で、専門分野間の分布はまことに不均等である。経済学者が2000名を越す一方で、例えば人類学者は100名に満たない。現在の大学院学生の分布からみて、将来この不均衡が是正される見込みはない。1972年(昭和47)に収支以上の学位を授与された16914名のうち、649名、すなわち4%に満たないものが厳密な意味での社会科学専攻者であり、法学、商学、経営学を専攻したものと合わせても1628名、すなわち10%に過ぎない。このように自然科学と工学に対する社会科学の著しい弱さが、日本の大学とほかのOECD加盟国の大学との重大な相違である。」(『日本の社会科学政策』)

 この傾向は、調査が行われた1975年と、さほど変わっていない。1995年の文部省・科学技術研究調査によれば、法学部・経済学部をのぞく社会科学研究者は、全体の3.06%である。法学部・経済学部まで含めれば10%近くとなるが、これは私学大学が多くの社会科学研究者を抱えているためで(約4倍)、国公立における理系研究者の優位は相変わらず揺るがない
 教育システムの項で述べたように、日本で社会科学の本格的な研究が始められたのは主な学部や講座が確立されてしまってからであり、また社会科学の様々な分野の間の相互依存関係が認識される以前のことだった。この結果、ただでさえ少ない社会科学系の研究者及び学生は、「人文科学」のうちで細かく分けられたいろんな学科にバラバラに配属されることになる。社会科学系の各学科は、法学・経済学のほかは実に小さなものとなり、研究者の育成及び研究成果の再生産は余計に弱体化する。
 研究者が少なければ、研究成果も少なくなり、社会科学の成果に人々が触れることも少なくなる。現実に行われている研究(特に大学院院生による研究)は基礎的なものであり、かつ、難解で理解しがたいものが多いことも、これに拍車をかける。結果、社会科学の活用・活躍もまた減り、たとえあってもそれを理解する人は少なくなり、「社会科学は役に立たない」という信念は強化される。このことから、社会科学の活用・活躍はさらに減少し、社会科学研究者や社会科学を学ぶ者の就職先は減り、したがって社会科学研究者への志願者もまた減少する。研究者が少なければ、研究成果も少なくなり、……(以下、繰り返し)。

3 政治システム

「教育制度を通じて、日本人はその伝統の基盤の上に西洋の学芸を取り入れ、あくなき経済成長----以前には軍事力----が必要とした自然科学と技術の吸収に見事な能力を示した。しかしその過程において、日本人は経済学以外の社会科学には比較的わずかな関心しか払わなかった。この結果、日本がその将来の社会問題を解決する能力は、現在の教育制度の示す規模に比べてはるかに遅れていると言わざるをえないであろう。」

 この能力不足は、教育政策および学術研究政策を決定する政治・政策システムにおいても見てとれる。

「また日本には、変化する社会的なニーズに適宜対処していく力が欠けているようであり、また政策立案者はこのような能力を持っていないように思われる。幾つかの顕著な例外(たとえば環境問題プロジェクト)を除き、社会問題の重大性によって研究の優先順位を導き出す試みはほとんどないようである。」(『日本の社会科学政策』)

 その理由の第一は、日本における政策決定者がゼネラリストであることがある。彼らに専門的知識や専門的経験を持っていることを期待することはできないし、実際彼らが専門的な知識や経験を得るために必要な時間を確保することかなり難しい。少数の官公庁は、一定期間専門的知識を修得させる機会を設けているが、「社会科学は役に立たない」という信念(少し上品に言えば「社会科学についての無関心さ」)がある以上、これも経済学の分野に限られる。しかもこれには、大学教員である経済学者が動員されるので、これら教員の下で学んだ人材を活用することに比べると、2重の資源(人的リソース)の無駄遣いになっている。
 したがって現代社会の持つ多くの複雑な問題に関して、ゼネラリストたる政策決定者は専門家に助言を求める必要があるが、第二の理由によりこれもうまくはいかない。専門家の研究成果や専門的な知識を活用できるか否かは、政策決定者と専門家との間に高度な信頼関係が確立しているかどうかに依存するが、「社会科学は役に立たない」という信念はこの信頼関係の樹立を阻害する。たとえば各省庁の多くの審議会に参加する社会科学者を見れば、経済学者が圧倒的に多く、それ以外の分野の科学者はきわめて少数であることがわかる。
 第三の理由は、知識と情報を中心的な資源とする政策決定者の集団が、集団自身が保持する固有の「知識」や「文化」に相反する知見を受け入れがたい点である。一般に、集団の有する「知識」は一定の「有意性relevance」を持っている。つまりある集団は、その集団に固有な「知識」によって「現実」を把握し、そのことでいわば集団にとっての「現実」を切り取り汲み上げる。この「知識」は、集団行動の領域を規定し、その領域内に入ってくる状況を規定し、さらにこの領域内で遂行されるべき役割を規定する。逆にいえば、こうした「知識」や制度的秩序から逸脱した事態の出現は、彼らの眼には「現実」そのものからの逸脱と映る。たとえば彼らが自己の「有能さ」を発揮しうるのは、この「知識」や「現実」にそって努力する限りにおいてである。各メンバーが、この有意性を無視したいかなる優れた意見をもとうとも、それはあくまでも「個人的見解」という枠にとどまるのが通常である。
 対して社会科学の知見は、しばしば常識や現状あるいは既成の知識に対する批判としてもたらされる。これはしばしば、政策決定者の集団にとっての「知識」と「現実」から逸脱しかねないものであることは言うまでもない。梶田孝道 は、日本における優れた社会科学研究の成果でありながら、政策決定者たちにとって「逸脱」と見なされた知見として、宮本憲一氏や宇沢弘文氏らの研究を上げている。
 

「役に立つ」社会科学

 では『日本の社会科学政策』の分析と提言を支える、「社会科学は有用である」という信念は何に由来しているのだろうか。議論を単に「思いこみの違い」に還元しないためには、「社会科学は役に立たない」なる信念を検討したのと同様、「社会科学は有用である」の方も分析にかけなければならないだろう。

 これも結論から述べれば、「有用たるために、できるだけのことをやり、また実績をあげてきた」からである、と言うことができる。

 社会科学の理論研究とその応用の歴史は、社会科学そのものの歴史と同じくらい古く、また社会科学自体の存亡と堅く結びついていた。
 たとえばフランスで社会科学science socialeの名を冠した最初の講座の初代担当者であったデュルケムは、未だ歓迎されざる知scientia non grataと見られていた社会学に、社会生活に関する経験科学としての内実と方法論的基礎付けと、その他確固たる地位を与えるためにあらゆることを行った人物であるが、彼が世紀末不安の中にあった時代のアクチュアルな問題として「自殺」を取り上げ、その社会学的方法を総動員して問題提起から理論構成にとどまらず実践的提言まで含めた単行本として発表したのは、「社会学は何の役に立つのか」なる人々の疑問に応じ、その存在意義を強く世人に示すためだったという。社会科学はその創設時から「有用たること」を求められ、それを証明することで「生きながらえてきた」。

社会科学の実績づくり:アメリカの場合

しかし、もっとも早く社会科学を大学に招聘し、それ故もっとも多く蓄積を重ねたのは新興国アメリカだった。これは学長に強力な権力・決定権を集中させるアメリカの大学システムが働いた。アメリカの大学では、「教授会」を通じた既存の学部や教授陣の反対によって、新しい学問の導入や新しい学部の創設が邪魔されることがない。彼らが反対しても、学長は改革や学部新設を実行できるのである。逆にテニュア(終身教授権)を持った教授をクビにすることはできないから、ある学問や学部があまりにも時代遅れになったりお荷物になった場合には、教授単位ではなく学部単位で存在が消される。学部存続のためには、いずれも成果を上げなければならない。
 アメリカにおいて、社会学が導入された当時、それは社会改良運動とほとんど区別されなかった。たとえば1865年に創設されたアメリカ社会科学協会の目的は次のとおりだった。
「社会科学の発展を援助し、公共精神を指導して、法律の改正、教育の進展、犯罪の防止と抑止、犯罪者の矯正、公共道徳の進歩、衛生規則の採用、経済、商業・財政問題に関する健全な原理の普及などを促進するためのもっとも良い現実的手段を選択させることである。協会は、貧困とそれに関連した論題へと注意を払うだろう。協会は議論を通じて真理についての実際的要素を獲得しようとする。そうすることによって、疑問は取り払われ、対立する意見が調停され、時代の最大の社会問題を賢明に処理するための共通の基盤が提供されよう」
 現在からすれば楽観的すぎる提案だったかもしれない。やがて社会科学協会は、経済学会、社会学会などへと分かれていった。一方、産業は進歩したが、それだけ多くの社会問題が生まれていった。その後、それぞれの社会科学はますます専門科学としての方法論的洗練を重ねて、また理論的抽象性を高めていくけれど、一方で最初の実践的役割を果たそうとするスタンスは保持された。社会科学の目的と意義は、社会問題とその解決へと明確に向けられていたのである。
 最初期の社会科学と社会改革の幸福な提携関係から生まれたのが社会調査(サーベイ)運動であった。多くの社会問題が実際に調査され、多くのデータを社会科学に提供しただけでなく、調査は実際に改善・改良に向けて活用されていった。1928年までに実に2000を越える全国規模・地域レベルあわせての社会調査が実施され、成果の蓄積がなされた。
 第一次大戦後はまた、世論調査、社会調査の開花時期にあたっていた。多くの民間機関や政府機関が、市場の消費者の動向を知るために新しいランダム・サンプリング法を用い、あるいは彼らに効率よく情報や自分たちの意向を伝えるために、その結果を利用し始めた。
 第二次世界大戦が始まると、これまでの社会調査でのデータ・方法両面での蓄積をふまえ、社会科学者は最初はゆっくりと後には急速に、戦争目的にかり出されることになった。陸軍が最初に社会科学セクションをつくったばかりでなく、真珠湾攻撃以後はあらゆる政府機関が大規模な社会調査活動を行った。戦時情報局は一般市民の志気を高めるために、軍部は兵士の訓練を有効に行うために、戦略サービス局は文化研究から敵国の動きを予測するために、最新のものも含めてあらゆる社会科学の知見と手法を、たとえば内容分析、サンプリング調査、詳細面接法、実験室心理実験、グループ・ダイナミクスなどを、利用・活用した。『菊と刀』という有名な「日本研究」がベネディクトという人類学者(!)によって生まれたのも、こうした流れのなかであった。
 戦争が終わったとき、政府及び民間機関が抱える問題から、社会科学の研究を切り離すことは、もはやできなかった。社会科学は「有用なもの」というより「当たり前に用いるもの」となった。多くの裁判で、議会で、社会科学者は証言した。調査機関だけでなく、販売促進や組織改善を行いたい企業や小学校区の地域変更に取り組まなければならない地方政府、あるいはそれに反対する市民団体が、社会科学者に助言と勧告を依頼した。こうした社会科学の活用の蓄積と承認の結果、そのいくつかは制度化され義務づけられた。

「社会学の利用」のケーススタディ

1960年、アメリカ社会学会会長に就任したラザースフェルドは、62年の年次大会で「社会学の使用」という特別部会を開催し、そこでの報告をもとにした論文集(The Uses of Sociology)を1967年刊行した 。ラザースフェルド自身がこの論文集に長い序文をつけ、「社会学の使用」に関する諸局面について分析枠組みを提示した。この枠組みは、必然的にギャップの伴う政策立案者と社会科学者の相互作用に関して、政策立案者の関心事や実際的問題がどのようにして社会学的な調査プログラムへと変換されるか、また調査結果から得られた知見と実際の政策決定や実践のための勧告とのギャップはどのように克服されるのか、等に関する事例研究へと生かされることになった。これらに加え、生涯に渡る多くの調査体験と様々な協同研究の経験をもとに、死の前年、ラザースフェルドは『応用社会学 An Introduction to Applied Sociology』 を出版した。すなわち「(社会)科学の応用」についての社会学である。
 ラザースフェルドらの「社会学の使用」に関する研究は、理論と実践のあるべき論や「社会工学」の体制内的・技術主義的性格の批判といったものではなく、こうして蓄積されたおびただしい事例を相手にしたケーススタディでなければなかった。つまり「果たして社会学を応用すべきか」や「どのように社会学を応用すべきか」といった未来に応用を据えたものではなく、「あれやこれやに社会学が活用された事例をどう捉えるべきか」「そこから得られる教訓は何か」という、すでになされた応用の後に来る反省的議論となった。

 ラザースフェルドは、
 
 

問題確定→スタッフ構成→問題の変換→知識の探索(調査研究)

→乖離を埋める(gap-leap)→勧告→実施→査定→

問題確定→……(繰り返し)

 

といった社会科学の利用過程における各段階を分析している。いずれの段階も、クライアントと社会科学者の間のやり取りや関係が大きな鍵を握る。中でも重要なのは、クライアントの問題を社会科学者の研究にする「変換」のステップと、逆に科学者たちの研究成果をクライアントに返すための「乖離を埋める(gap-leap)」である。ラザースフェルドは、社会工学や政策科学で等閑視されがちな、このギャップを重要視して、クライアントと社会科学者との間をつなぐ「第三の者the third man」の必要を説いた。
 異なる意向や利害関係を持っているクライアントと社会科学者は、同じ「現実」をみても受け取り方が異なる可能性がある。しかしギャップの問題は、単なるコミュニケーションの問題でもなければ、社会科学が「浮世離れ」しているからでもない。それならば、最初から「政策」志向した社会科学(政策科学) が提示する案は、ほとんどすべて実施されることになるだろう(そんなことはある訳がない)。
 ラザースフェルドは、政策科学に対してその実践的意図に賛意を示しながらも、その言葉がカバーする範囲があまりにも茫漠としすぎて、たとえば科学者の営為としての「政策科学」のアウトプットと、政策決定者の決定し実行する施策とのギャップにほとんど注意が払われていないことを指摘する。
 確かに政治学の政治過程論から派生した政策課程論は、さまざまな主体の相互作用を通じて政策が作られるプロセスを対象としているが、そこでは社会科学の知見は応用されはするが、社会科学の営為自体が分析対象となる訳ではない。社会科学の応用には、クライアントに反省的知識を要求するのみならず、社会科学自身の対象化・反省的知見が必要となる。

クライアントから社会科学者へ

 クライアントから社会科学者へとつなぐ「変換」問題は、実践的に考えるなら次のようになる。すなわち、クライアントの課題を解決するのに、どんな研究を行えばいいか。
 多くの人が考えるようには、課題そのものの研究が、課題の解決に直結するとは限らない。これはしばしば起こりがちな間違いであり、ここに捕まると「役に立たない社会科学」の方に引っ張られることになる。
 たとえば、ふつう社会科学者は(いくらかの普遍性を備えた法則抽出や理論構築が仕事なので)クライアントが操作できないファクターを課題分析で重くみる。多くの社会問題が、家族の構造、両親の職業、年齢、性別、社会構造や社会にしめる地位などに結びつけられて記述され分析される(これは社会科学にとっては自然なやり方であることに注意しよう)。しかし、これらのファクターはほとんどすべて、クライアントにとって変更不能である。ラザースフェルドは、ケーススタディから得たいくつかの対処法を提案している。
 ひとつは「逸脱事例」の研究である。たとえば貧困問題の解決には、貧困家庭の分析よりも貧困から逃れることに成功した家庭を研究したほうがよい可能性がある。つまり貧困の原因を見極めるよりも(その多くはクライアントにとって操作不能だろう)、貧困に立ち向かって問題を克服した人は(全体からすれば例外的ケースであろうが)クライアントも用いることができる資源を用いたのかもしれない。もちろん逸脱事例であるから、そのケース特有の条件なりに依拠した可能性も大きいが、効果があるケースを分析することで得られるものは大きい。
 もうひとつは、操作不能な要素を研究することも無意味でない、ということである。年齢は操作不能であるが、それが与える影響を分析しておくことは、数年後の状況を予測するために必要となる。クライアントの希望が「いますぐ改善」であるか、「長期にわたる成功」によるかで、研究範囲や方法が変わってくる。また本当に操作不能かどうかは、問題の捉え方で変わる可能性がある。たとえば労働者の不満が、産業構造に根ざしているとの分析があったとしても、クライアントには自分の国の産業構造を変えることはできないだろう。しかし、ある工場での仕事のやり方なら変えることができるかもしれない。「操作できない根本原因」の指摘に終わりがちな社会科学の知見も、活用次第で「操作できない要素」を利用計画の範囲内に納める方法の発見につながるかもしれない。
 社会科学者の研究による知見もそうだが、政策立案者の関心・政策立案者にとっての「問題」も、社会的関係を離れた「真空」で生じるものではない。したがって社会問題は、我々の目の前ばかりではなく、たとえば我々自身が「何を問題と見なすか」自体に潜んでいる場合がある。時に社会的偏見を反映しているクライアントの問題設定をそのまま引き受け、既存の科学的知識から適用できるものを応用する「工学的適用」は、好ましくない結果を生み出す場合がある。こうした「意図せざる結果」を回避するためには、クライアントの問題設定自体を問い直す必要もでてくるかもしれない。

社会科学者からクライアントへ

 社会科学者からクライアントへと返す「乖離を埋める(gap-leap)」ステップにも、研究すべき問題がある。考えられるかぎり最善の提言・提案であっても、実施されないものがいかに多いかを考えればわかる。
 ラザースフェルドはまず、ここでいう乖離には二つの類型がある、という。ひとつは、社会科学者の成果が一般的で問題の複雑さを解明してはくれるが、クライアントに解決策を直接提示するものではない場合である。ここで必要とされるのは一般的研究から具体的政策を生み出す「案出」inventionであるが、これはインスピレーションを必要とする創造的プロセスであって、よく言われるように分析し一般化することが難しいが、ラザースフェルドはよく使われる3つのタイプを事例とともに紹介している。もうひとつの類型は、社会科学者の成果が複数の解決策の提示である場合である。ここではクライアントが課されている諸条件の下で最善の策を選ぶための、一種の質的な費用−便益分析が必要となる。

 「案出」のよく使われる3つのタイプは、「既存のニーズに対する新しいサービス」「新規の役割」「新しいニーズに対する新しいサービス」である。社会科学者の調査が問題の構造を解き明かした時から話ははじまる。次になすべきことは、解き明かされた問題に、どう具体的に対処するかである。
 調査が、問題の原因が単純な技術上の障害であることを突き止めた場合には、「既存のニーズに対する新しいサービス」が企画される。つまりニーズはすでに存在し認知されていて現在も何らかのサービスが提供されているのだが、技術上の障害があって、それが適切に満たされていない。したがって「機能不全のサービス」に対して、新しいサービスが提案される訳である。第二次大戦中、アメリカは農家の牛乳増産を計画したが、農務省による生産施設の改良は効果を上げなかった。調査によって、農民の多くが戦争が終われば牛乳の価格暴落が起こるだろうと予想して、増産を躊躇していることがわかった〔←これが調査結果〕。政府は価格補償の制度をつくり、農民に対してそのPRを行った〔←これが創案〕。
 創案(あるいは施策)は、障害を除去することに限らない。「新規の役割」についての事例は以下のとおりである。マルビン・タベスら社会学者は、アメリカの退職者たちが抱える不安と不満の原因が、かつての引退者のような社会的役割が与えられていないことにあると突き止めた〔←これが調査結果〕。また別に、矯正施設の幼い児童たちの健全な発育には、大人との持続的関係が必要ということもわかった〔←これが調査結果〕。タベスは、矯正施設の子供たちと退職者が共同作業することを提案した〔←これが創案〕。つまり彼らの研究結果は、この提案が、少なからぬ高齢者が、この種の児童施設でのボランティアを重要な貢献と見なすだろうし、自分に相談してくれたり友情を結んでくれたりする子供たちに責任を負うことが彼らの地位感情を満足させることも予測していた。この種のプログラムは現在では世界中で取り組まれている。
 調査によって、現場の人間には気づかれていないか重要視されていなかったニーズが浮かび上がってくることも少なくない。マーケティングと呼ばれる応用分野は通常、こうした「知られざるニーズの発見」を中心としている。応用事例で興味深いのは、ここでも「逸脱事例」の研究である。ラザースフェルド自身が大学院生時代に手がけた事例だが(あまり規範的な例ではないと彼はことわっている)、1930年にウィーンに初めて登場したクリーニング店は、当初ほとんどオーストリアの主婦に利用されなかった。研究は、なぜ彼女たちがクリーニング店の利用に抵抗を感じているかを明らかにした。当時の主婦とっては、自分で洗濯することが地位や自尊心の源泉であったのである。実践的に役立ったのはこの原因究明の方ではなく、逸脱事例の発見だった。つまり子供の病気や不意の訪問客などの条件下で〈例外的〉に洗濯を自分で行わない事例があったのである。〔←これが調査結果〕。大学院生とクリーニング店は他にも、洗濯を自分でやりたくなくなる場面を探した。クリーニング店は、最近死亡した人のリストを入手しその遺族にダイレクトメールを出すことにした〔←これが創案〕。家族の死に、洗濯へのモチベーションをなくす人がいるとふんだのである。結果、クリーニング店は得意先を大いに増やすことができた。

 質的な費用−便益分析は、提案された複数の代替案のうち、どれを選択するかを考えるときに行われる。まず「予期せざる結果」と考慮と、それでも避けられない不測の事態への事前対処が行われる必要がある。こうしたことを踏まえて、代替案の選択は「人を変えるか/組織を変えるか」「どの集団をターゲットにするか」「優先される価値はどれか」などを巡って行われることになる。

役に立つ社会科学へ

 膨大な事例研究を背景にしたこのような「社会科学の利用過程」研究が成り立つことをみるに、彼此の隔たりを思わずにはいられない。
 ここで再び、文化論的議論を持ち出して、哲学のような学問ですら「それがなんになるのか?」という問いに耐え、プラグマティズムという答えを出さざるをえなかった「アメリカ社会」という特殊解を提示することもできるが、それではせっかくの比較可能な題材を損なうことになる。すなわちある社会では、社会科学の活用実績と有用性の確信は、お互いがお互いを導き強化・再生産するサイクルを形作っている(ようはどちら向きに、このサイクルを回すかなのだ)。そしてこの中でこそ、「社会科学の応用の問題や限界」を問い直す契機もまた生まれる。「無能か万能か」の幼稚な二元論でなく、限界を見極めた上で使える場面ではどしどし使う、その結果生じた不都合についてはフィードバックして実用性を高める、といった科学として当たり前の蓄積が、社会の「社会問題」に対する能力を向上させていくのである。
 
 


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