2014年05月08日

書こうか書くまいか悩みました。

また魚拓とか言い出し、なんだかんだと言い出すのかもしれないが、書いておきます。
いい機会なので、スッキリさせておきましょう。
基本、削除前提です。


web上であれ、何であれ、公共の場所で、
他人のことをとやかく言うことは、
最後は――


・思想の自由
・言論の自由
・表現の自由


を奪うことになる。

教義に関しても、同じである。
創価学会の公式見解以外、一切認めないということはない。
そんなことは絶対にありえないそうだ。

御書を拝し、また、池田名誉会長の指導を拝し、
個人個人が思った感想を書いていいそうだ。

ただし、意識的に歪曲したり、
いらぬ誤解を生む可能性を良く考慮し、
表現には「慎重」さをもってお願いします。

――ということだそうだ。
ここまでが、とある幹部の指導。


大なり小なり、他人の書いた文章に、
難癖をつけ、あれこれ要求し、それが積み重なって、
その人の、文章表現する気力や場所を奪ったなら、
もはやただの批判などではない。

私は以前、そういう事例をしかとこの眼で見てきた。
過去のこととはいえ、その点も誤解されているようなので、
ここでそのこともお話しする。
ただし、名誉のため、当事者のお名前(HN)は伏せます。


とあるブロガーAさんが、他人の記事に反応して、
とやかく言い始めた。
それに気づいた私は、そういうことはやめたほうがよろしい。
そう自身のブログで記事を書き訴えた。
(ブロガーAさんは、コメント欄を閉じて運営し、連絡先のメールアドレスを表示していなかったので、仕方のないことだった。自分のところで記事を書く以外、方法がなかったのです)

ブロガーAさんは、私が記事を書いたことで、晒し者にされたと勘違いされた。
私は、記事上で事情を説明し、理由も述べ、丁寧に説明もした。

恐らくそうしたやり取りを見ていたブロガーBさんが、
それとは無関係であったAさんの信心の姿勢に難癖をつけはじめた。

誰しも人間革命の途次である。決して完璧ではない。
確かに、Bさんが指摘したとおり、Aさんの信心の姿勢には未熟な部分もあった。
そういう話になったのなら、その点も含めてAさんが成長できるようにと、
私は信心の姿勢(というよりも、それ以前の人間性の部分について)
記事を書いて、意見を述べた。

勘違いしないでほしいのはこの部分だ。
ブロガーAさんは、それはそれは立派な唱題の人だった。
いつも唱題時間を書き、悩みと必死に戦っている人だった。
その唱題する姿勢には感心し、何があっても乗り越えて欲しい。
そういう応援する気持が私の中には、あった。
だから私は、Aさんに好感を持っていた、だからこそ、人間性の部分も修正してほしかったのだ。

そういうAさんであったが、ブログ村という場所を見渡せば、
そこに登録している多くのサイトにコメントを書き込んでいることに気づいた。
そのコメントはほとんどの場合、サイト主に対する苦情であり、
Aさん自身の不平不満を晴らそうとする行為であり文言だった。
別の言い方をすれば、愚痴と文句だったのです。

そうしたものを見た私は残念でならなかった。
あんなに一生懸命唱題し、頑張っていても、
同志に感情をぶつけていては(怨嫉していては)、何の意味もないからだ。

なんとしても気づいて欲しい。
そういう思いで、私はいくつかの記事を書いた。
渾身の思いで、唱題の中、書いた記事がこれだ
(当時の私は、真剣に悩んだゆえ、円形脱毛ができ、不眠症にもなりました)

でも、思いは通じましたよ。

AさんはBさんから批判されたことで、
自分のブログにBさんへの抗議の気持ちを綴っていたが、
私の記事を読んだのでしょう、
そうした文言を自主的に削除されました。
大切なのはここでしょう。
批判という形で、無理やり相手の言動を変えさせるのではなく、
相手の自主性を促すことこそが大切なんですよ。
だから、批判に意味はないのですよ。
必要なのは、激励なんですよ。

私はこれでAさんは大丈夫だろう。
そう感じました。
しかし、不安材料がひとつあったのです。
Bさんです。
いまここで、Bさんが再度、Aさんを批判するようなことになったなら・・・。
そう考え、私はBさんのブログに非公開コメントで、Aさんも反省されたようだから、
これ以上、批判し続けるのはやめてください、とそうお願いしたのだ。

だが、Bさんは、私の訴えを聞き入れず、Aさんを批判する記事を書いたのだ。
トドメでしたね、あれが。
Aさんは、さすがにショックを受けたのでしょう。
ブログ村を退会し、最後にはブログを削除しました。

関わった手前、私は、最後までAさんを見守っていきたかった。
だから、削除したあと、また新たにブログを立てていないかと探したこともあった。
みつけましたよ。
ひっそりと、ひっそりとではありましたが、
唱題ブログを再開しているAさんを見つけました。
あのときの喜びは忘れようもありません。

他のブロガーへのコメントも、謙虚な姿勢になっていました。
でも、残念ながら、Aさんは、しばらくしてそのブログも削除されました。
それから今まで、Aさんを見かけたことはありません。

1年半も前の話です。
でも、それ以来私は反省し、他者のことを書くまい。
決して書かないようにしようと徹してきたのです。
批判はするなと何度も書いてきました。
批判をすることは創価の魂に反するとも書いてきたのです。

以下、Bさんの名誉のためにお話しさせてもらいます。
確かに批判は批判であったのだが、
そこには素晴らしい内容もあったんです。
今でも忘れていません。鮮明に憶えていますよ。

ほんの少しのズレ、例えば角度にして1度とか3度であっても、
それが百メートル、1キロという距離になったらどうなりますか?
物凄いズレになるのです。
ほんの少しのズレをそのままにしておくと、
5年後、10年後に大変なことになるのです。
という、比喩を使ったお話しでした。





そして、昨年7月。
このブログがアンチの攻撃対象になったのです。
そして、そうした状況に便乗といった形で、
とある人物から私は批判を受けたのです。
そこからは酷かったですね。
便乗する人がどんどん増え、
私は叩きに叩かれましたよ。

私のことを擁護しようとしてくれた人もいました。
しかし、私はそうした人を巻き込み、事が大きくなることを杞憂し、
お気持ちは受け取るが、黙っていてくださいとお願いし、
1対多数という形で、自尊心を守るためにずっと戦ってきたんですよ。

とある人が、あまりにも酷い私への批判に業を煮やし、
私に言いました。
「もう我慢ならない、私も戦う」と。

もう止めることも出来ませんでした。
もちろん、やめてくれ、そうはお願いしましたが、
何事も強制すべきではありませんでしたからね。
最後は自由なんですよ。

どろ試合、遺恨試合。呼び方はどうでもよいのです。
そうしたものが続きました。

もうやめてくれ。
相手にせず、スルーしてください。
なんども当事者のひとりには、完全無視をお願いしたんです。

そうして一時鎮火していた批判合戦が再開されたのは、最近のことです。
今現在、すべては鎮火し、全ては終わっています。

結局のところ、
あらゆる出来事は、誰が悪いのではないのです。
それが悪であると決めてしまうこちら側の心にこそ、すべての原因があるのです。
どんな悪事を見ても、それを善知識として変えていけばいいだけなのです。
不必要に関わって、争いを起こす必要もないのです。

ただひとつ許されない悪は――
自分が法華経を誹謗すること、それだけなのですよ。
無論、その当体であるご本尊を受持する人を誹謗したり、批判することも悪になります。
だからこそ、相手が悪に見えたとしても、
こちら側の心では、悪であると決めずに、善知識にしていけばいいのです。
そして批判などせず、相手の幸せを、自他の罪障消滅を、陰で祈っていけばいいのです。

私は騒動の最中。
真剣に、腹の底から、心の底から、
相手の幸せを祈りました。
そうなれるまで、時間はかかりましたけどね。

で、そうなれた瞬間、自分の言動を省みて、素直に相手に対して謝罪することで、
どろ試合をひとまず落着させたのです。

先生も仰っています。
嫌いな人のことも、少しでもいいから祈っていけるようになってください、と。
そう、嫌いな人こそ、自分を一番成長させてくれるんですよ。
私は、やりあった人たちに感謝しています。

でもね、そういう気持ちになれるまでは、時間がかかるのも事実でしょう。




皆さんもお気をつけになったほうがよろしいでしょう。
安易な気持で、他者のことを書くべきではない。
軽い批判のつもりが、ブログ削除というところに結び付けば、
それは一種、表現の自由を奪ったという結果になるからだ。

以前、創価の名を汚すようなブログをネット上から全て消し去りたいと言った人がいた。
つまり、こういう思想こそが、
善意のつもりであっても、結果的に思想の自由を奪い、思想を統制することになる。
そういう意識を持って欲しく思います。

言い方は良くないが、
間違ったものもあっていい、誤解を生む表現があってもいいのです。
なぜなら、そういうものがあるからこそ、
正しいものはどれだ? と考え、正邪・善悪を見抜く力量を養え、思想は進化していくのですから。

思想は常に進化していくべきものだからです。
仏法は無上道だからです。
公式見解を振りかざして、思想の進化にブレーキをかけることも間違いなのです。

ゆえに――

web上であれ、何であれ、公共の場所で、
他人のことをとやかく言うことは、

最後は――

・思想の自由
・言論の自由
・表現の自由


を奪うことになる。

教義に関しても、同じである。
創価学会の公式見解以外、一切認めないということはない。
そんなことは絶対にありえないそうだ。

御書を拝し、また、池田名誉会長の指導を拝し、
個人個人が思った感想を書いていいそうだ。

ただし、意識的に歪曲したり、
いらぬ誤解を生む可能性を良く考慮し、
表現には「慎重」さをもってお願いします。

――ということだそうだ。



お前の言ってることなんて信用できるか。
そう仰るかたは、
地元の信頼できる幹部に指導をうけて、納得できる答えを出してください。

それでも納得できなければ、
学会本部に相談室もありますので、
そこで指導を受けてください。

人間ですから、
真面目に純粋に何かに取り組んでいれば、
熱くなりすぎて、たがが外れてしまうこともあるでしょう。
思いあまって、ああしろ、こうしろとなってしまうのが人間です。
でも、そこから生まれるのは争いでしかないのです。
「変わって欲しい」「解って欲しい」で他人にものを言わないほうがいいのです。

そうならないためには、他人のことをとやかく書かないことです。
自分のやっていること、やってきたこと、自分の思いを書いていけばいいのです。
それが創価の思想と一致していれば、自身宝塔として輝いているのですから、
評価され、信頼され、信用されていくのですから。

思いといっても、世間や他者への思いではない。
自分がどうなりたいかという思いを書けばいいのです。

私自身も気をつけていきますよ。
とはいっても、更新停止を宣言したので、
ここではその気をつけている姿を見せることは出来ませんけどね。

ともあれ、批判されたら完全スルー。完全無視です。
批判に反応することは、
怒りに対し怒りを持ち、悪(怒り)を増長させるからです。

でも、戦うべきときには戦わなければいけませんよね?
すべてはTPOですよね?
ようはそういうことですよね?
という私の問いかけに、
とある幹部は、その通りです、そういうことですと、大きく肯いてくれました。
つまり――
「時」を知って行動しなさい、ということでしょう。


ここで言うのも気が引けますが、
私は私のしてきたことが間違っていなかったことを、
きちんと確認しましたよ。

皆さんも、疑問に思うことがあったなら、
まず自分で考えに考え、それでも答えが出なかったならば、
指導を受けるといいのではないでしょうか。
学会は指導主義です。

しかし、最後の納得は自分自身でするしかないのです。
ご本尊と向き合う。自分と向き合う。
このことこそが、それに相通ずるのです。

ともあれ、お節介もほどほどにということでしょう(笑)
「良い加減」=中道を見つけて、相手と関わっていかないと、
お互いに傷つけあうだけですからね。

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 創価学会へ


ipsilon at 11:33コメント(0)トラックバック(0) 

2014年05月07日

もう疲れました。本当に疲れました。疲れきりました。
そんなに私が悪いことをしたのですか?

記事を書けばあーでもない、こうでもないと、
コメントとメールが殺到する。

ほとんどが善意の内容ではあるが、
もうね、そうでない内容に目を通すだけで、
瞬間的に生命力を奪われるんですよ。

あの記事はだめ〜。
あれはやめろ〜。
あーでもない、こーでもない。

思想の自由とか――
言論の自由とか――
表現の自由さえ許されない。
こんな世界は嫌だ。


これっぽっちも我慢の出来ない子供ばかりの世界に吐き気がする。

去年の7月29日にはじまり、
今の今まで、9ヵ月以上、何人もの人から、
寄ってたかって、あーでもない、こうでもない、
あれをするな、これをするな、馬鹿だアホだ、なんだかんだ・・・
言われまくってきたんだよ。
もう無理、限界。

そうじゃないでしょう。
と訴えるために、私が口を開けば開くほど、私が悪者にされていく。
私は極悪ですか? そうなんですか?
どうしてここまで叩かれなきゃいけない。
魔だという自覚がない? 難を乗り越えろ!?
言うのは簡単だわね〜。
でもさ、そう強い口調で言ってきた人に限って、
実際は何もしない。ただ言うだけ。
ま、言うだけならタダだもんなぁ。
言う方は爽快だろうし、傷つきもしないもんねー。

あれこれ言い訳をするな。
あーでもない、こーでもない。
もうホント疲れましたよ。



も、どうでもいいわ。
ほっといてくれと訴えても、
いつまでもネチネチ当てつけがましいことを書かれてさ、
結局お前が弱いとか、うつは自己愛の塊だからどうの、
私をけちょんけちょん言いだした人が評価されちゃったり。
狂ってるは、この世界は。


ということで、更新停止します。
コメントやメールへの返信も、
私が必要と思ったもの以外、一切しません。

リアルで引きこもり、ネットでも引きこもり。
も、それでいいですわ。

やられてみなさいよ。
9ヵ月にわたって、何人もの人からボロクソ言われてみなさいよ。
そんな経験もないくせに、
それに対して私があれこれ言えば、
今度は被害妄想だとか言ってくる。

えー加減にせいや。


俺をなんだと思ってる。
人間だぞ。一応心のある人間だぞ。
ロボットじゃないぞ。

ま、私を潰したかった人からすれば、思う壺だろうが、
そんなことはどうでもいい。

さようなら。
永遠にさようなら、かもねーだ。

人間て恐ろしいね、
1人の人間を寄ってたかって虐めてさ、
そういう状況になっていることさえ意識もしないで、
そういう状況がどんどんエスカレートしていく。
無意識の連鎖。
追い詰め、追い込み、死へと誘う。なんちゃってーってか。


もう思ったことが言葉にならないくらい頭ボーだわ。
今書こうと思ったことさえ、すぐ忘れる。
そんだけ脳が、心が、この世界にアクセスすることを拒否してんだろうね。

さようなら〜。


最後にこれだけは言っておく。どう思われようとかまわない。
円形脱毛が3カ所もできて、
半年引き籠っていたのに、なんとか前に進もうとして歩きだし、
死ぬ思いで立ち上がったボロボロの時に、
私に対して好き勝手言いまくったあなた。

あなたには人間としての想像力も、思いやりも、配慮も欠けている。
まさか、あなたのパンチが、ここまでボディーにくるとは思っていなかったが、
まいりました。

もうその話はしたくない。
やめてくれ、お願いします。
そう私がメールしてから、一体あなたは何通メールをしたんだ。
思いやりのなさ、配慮のなさが明確に表れているじゃないか。
自分は言いたいことを言いまくり、返事はいりません。
子供過ぎるわ。

今までで最強のパンチでしたよ。
ありがとう。

でもさ――
あなたのしていたことは、
自分の中の不平不満を私にぶつけていただけだからね。
文字面すら大人気なかったけど、内容はもっと杜撰でしたよ。
「わかって欲しい」「わかって欲しい」「わかって欲しい」以下無間ループ。
単なる子供の我儘でしたからね。気づいたほうがいいよ。自分を見つめてね。

私にはじめにパンチしてきた人が言った言葉。
「こっちの気持ちもわかれよ」――
はからずも同じ心理なんだよねぇ。
思わず笑っちゃいましたよ。
結局最後は「わかってちゃん」なだけじゃん。
それも私なんかの何倍も酷いわかってちゃんね。

私にあれこれ言ってきた人はみんなそう。
堪え性のない人たちばかり、忍耐のにの字すらない人たちよ。
さようならー。

久々にマジギレしたわ。
いつかの誕生日以来だわ。
怒りやすいけど、ここまでキレたのは久ぶり。

ありがとう〜。
ほな、さいなら。

なんだよ、最後は結局太宰と同じ言葉かよ(笑)

グッバイ!



も少し言いますよ。

あのね、私はあらゆるものを善知識としていこうとしてるだけなの。
でもあなたは違う。

私はあらゆるものを善知識にして自分の思想を進化させようとしていただけ。
けどあなたは違うの。

そういう私の言動を見て、
ああ、これは私に対するあてつけだ!
そう受け取っただけの話。
そう受け取らないこともできるんだよ。
それがいかなる悪も善知識に変えていくってことなの。
おわかり?

誰かに楯突いて怒る前に、
自分の心が何に怒ってるのかくらい見なさいよ。
でもって怒りを制禦くらいしなさいよ。
それから発言するのが大人ってものだよ。

私の記事は、あくまでも私の思想。

それを当てつけだととったのはあなたの勝手だし、あなたの境涯の産物だ。
そこまではいい。

けどね、そのあとあなたは何と言った。
ああいうことは書くべきでないと言ったんだよ。
書いたあとそういうことをいう権利はないけどといっても遅いんだよ。
いくら私信とはいえ、そこまで言ってきた人ははじめてだね。
意見とか提案はあった。けどね、そこまで言った人はあなたがはじめてだ。
他人に何かを強要するような言動をする前に、ちゃんと考えたほうがいいよ。
マジで。

いいかい、「べき〜」とか「べきでは“ない”」という表現が、
どれほど高圧的で強制力のある言い方はわかってるの?
わかってないなら、日本語からちゃんと勉強しなおしたほうがいいよ。
マジで。

英語に訳してみなよ。
had betterだよ。特別な場合にしか使わない表現なんだよ。
例えば、そんなことをしたら命にかかわる。
そういうときの警告に使うんだよ。

普通の人はさ、should なのよ。
〜したほうがいいですよ、なの。
おわかり?

あなたは、私が思想を表現することを強制し、自分の思い通りにしようとしたの。
自由とは程遠いファシズムな発言をしたんだよ。
ある意味、他の人もそう。
自分の支配欲を満たす自己欲求をさ、俺にぶつけるなよ。

ものを言うってのは難しいんだよ。
だから散々言ってきたはずだ。
他人のことをあれこれ言うな、と。
自分のことをやればいいし、自分のやったことだけ話せばいいとね。

自身宝塔として輝く以外、何があるんだ?
なんだい、他身宝塔にいちゃもんつけるために信心してるのかい?
そんな信心、やめちまえ。
それは紛れもない自己破壊だからね。
みんなにも迷惑です。広宣流布の邪魔だよ。

私信、ネット上に限らず、
常にあなたの発信してきた言葉はそうだった。
〜すべき。〜しなさい。
なぜそこまで他人に、自分の思想を押し付けるんだ、異常だぞ。
その支配欲をだ、自分でなんとかしなさいな。
その子供じみた我儘をどこにでも吐き散らすのを、自分でなんとかしなさい。
ずっと黙ってきたけど、言ってみたわ。

これで終わり。
グッバイ。

ipsilon at 22:43コメント(5)トラックバック(0) 
信じるものを見る

もう一度リンク先を読んでみた。
なんだよ、ちゃんと書いてるじゃねーか(笑)

あまりにも衝撃的だったから、ちゃんと読んでなかったヨ(´・ω・`)

ここね――
本当の意味において、あなたが目にしている社員は、あなたの認識が描き出した幻影であることを信じて下さい。あなたの前にいる人はどんな人もその「本質において」光そのものです。大いなる光がただあなたの意識の進化を手助けするためにのみ、あなたの前に姿を変えて現れます。

びびっときたわ、ここ。
うん、御書にある通りなんですよねー。
「死んだら光になる」とね。

でもさ大聖人はこうも仰っている。
生きているときは生の仏、死んでいる時は死の仏。
本有常住であり無始無終である――とね。

つまり今この娑婆世界に生きている我々の心ってのはさ、光そのものなんだね。

「あなたの前にいる人はどんな人もその本質において光」であるなら、
そのあなたを見ている私も光なんですよ。

つまり俺っちの心は光。
おースゲー!!
凄いぞー!
ま、私が書いた小説はさ、そういうことじゃーないかなぁーと考えた末に書いたものなんだから、
今さらジローなんだけどね(笑)

けどさ、自分というか、正確に言えば自分の心が光であることは気づいていた。
脳科学でいうところのクオリアだとも言ってきた。
けれども、自分の肉体が見て感じているものが光だいう部分まで、思索を推し進めてなかったんだなぁ。

人間の心は物質ではありません。
光は物質ではないからね。
人間の心に質量はありません。
光には質量はありませんからね。

当然のことながら、古来からある思想や宗教は、
その根幹に太陽や光を崇めることからスタートを切っているのがほとんど。

wikiによれば――
『新約聖書』ではイエスにより「私は、世にいる間、世の光である」(ヨハネ福音書 9:5)と語られる。またイエスは弟子と群集に対して「あなたたちは世の光である」(地の塩、世の光)と語る。ディオニュシオス・アレオパギテースにおいては、父なる神が光源であり、光がイエスであり、イエスは天上界のイデアを明かし、人々の魂を照らすのであり、光による照明が人に認識を与えるのだとされた。(中略)
仏教では、光は、仏や菩薩などの智慧や慈悲を象徴するものとされる。

――とある。

ほらね。
キリストも、あながち間違ったこと言ってないんだなぁ。仏法と比べると、微妙にズレてるけどね。
仏教では光=仏・菩薩。
つまりこれさ、量子力学で発見された、光は粒子であり波であると、ピッタリ合致すんだなぁ。
粒子が仏、波が菩薩。波が起れば、必ず誰かに影響を及ぼすじゃん。
波動を起こすともいうでしょ。
心=光と定義すると、全てが気持ち悪い(いや、気持ちいいくらい)ピタリピタリと合致するんだなぁ。
ある意味、畏怖するわ。


けれども、これだけ科学が進んだ現代にあっても、
光ってのは、一番解明されていないものなんだなぁ。

有名なのは、アインシュタインの光速度不変の法則。
あとはまぁ、マックスウェル方程式あたりかな。

マックスウェルうんちゃらは勉強しようとしたんだけど、
もうwiki見ただけで、ヤル気なくしたくらい難しい。
まあ、多分、場の理論に相通ずるんだろうけどね。


ともあれ、私の心は光であり、
あなたの心も光。
そんでもって、われわれは光を見ているにも関わらず、
これはトマト、あれはニンジン、あれは山田、あいつは鈴木だとかいって、物事を物質としてしか捉えずに、
しかも自分自身がその物質に縁し、自分でその物質を変質させた幻影を見ているのに、
それが現実であり、事実であり、実態だとか思いこんじゃってる、
とんでもなくお馬鹿な存在なんだわ。誇大妄想癖症候群野郎なわけだ(笑)

ま、光にも可視光線、不可視光線てのもあるし、
光は電磁波の一種ともいわれているので、
この辺を考察していくと、
信じる以外の方法で、われわれは光を認識できない=
カントの言った知情意の統合だけではすべてを認識できないということも、
ピタリ整合性を持つということですわ。

そうかぁ、依正ともに光だったかぁ。
凄いなぁ。
素晴らしいじゃーないかぁー。


まあね、そういうことであれば、
あの人の心は光、この人の心も光。
そういう風に見れれば、
んーわかんない。よくわかんない。
でも君は光だー!
といって受け入れるしかないということだけはわかる。

けれども、物質として存在する生命体である、われわれ人間は、
その物質世界で生きていることも事実。

あれだ、「空」の理論だ。

光であるといえば光である、そうでないといえばそうである。
物質であるといえば物質である、そうでないといえばそうである。
光であるとも、物質であるともいえる。

ああこれ、一生成仏抄の一節を拝借しました(笑)

だからやはり、物質として存在する世界では、
物質としての道理、物の見方に則って生きるべきなんだなぁ。
それを明確に説いてくださったのが、大聖人。
そしてそれを実践し、体現されたのが大聖人。
もちろん、師である先生もそうだよね。

でもさ、本質的に見れば、われわれは「空」なる存在なわけですよ。
だから大聖人は仰っている。

心地を九識に持ち、修行をば六識でせよ
――とね。

つまり、本来私たちは光ですよ(というよりも空なる存在ですよ)、
けれども、娑婆世界は物質世界であるから、修行は六識でするんですよ、
とそう分りやすく教えてくださってるんじゃないでしょうか。

まああれだ、私が悩んでいるのは、後者。
六識(娑婆世界)での修業のしかたであり、六識での正しいものの見方なんですわ。
んま、これも薄々気づいてはいる。けどね、まだ確信できるほどじゃーないんだなぁ。
んま、時間の問題ともいえますがね。思索し続けていれば、行動し続けていればの話ですがね。

あのね、私見なの。
あくまでも私見なの。
私見だよー!
私見、私見、しけーん! シケーン!

信じる信じない、思索の糧にするししないは、自由ですよ。
またあれこれ文句言いださないでくださいよー。
思想の自由、言論の自由、表現の自由があるんだからね。
そういう自由を奪う言動をファシズムというんだからね。


便宜上、われわれは空なる存在。
さっきそう書いたけどね、本当は違うの。
光のどこに、自他がある? ないでしょ。
ないんだよ、自分と他人の境界なんてね。
だから釈尊はこう言っている。


世界の有無ではない。
世界は「空」


仏陀の言葉、「空観」スッタニパータ第5章。



つまり、われわれは世界そのもの、我即宇宙となるわけだ。

こんなヘタレな思索をしただけで、すげー生命力使うんだ。
疲れた、寝る(笑)

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 創価学会へ


ipsilon at 16:05コメント(2)トラックバック(0) 
信じるものを見る

いまさら人間が孤独であることを語る気にもならないが、少しだけ。

上のリンク先をお読みになれば、人間がいかに孤独か、
批判がいかに無意味かは、普通の人なら理解できることだろう。

自分が見ているもの(実際には想像し空想し、妄想している目に見えない世界も含む)は、
自分が作り上げているということ。
そしてそれは、可視、不可視に関係なく、自分だけにしか見て感じることが出来ないものだということ。

ここで私がずーーーーーーっと言ってきたことですよ。
つまり――
全ては主観である、ということ。


まあ、そうですね、考えてみれば
ハイゼンベルクの不確定性原理から、今日ここに書いた内容は考察できたことだったんだけど、
今頃それに気づいた私も、まああれです・・・困ったちゃんです。迂闊でした(苦笑)

確かにカントは共通認識は出来る。
そう言っているのだが、ではなぜ各人が主観でしか物事を見て感じることが出来ないのに、
できると言えたのだろうか?

五感や意識は、同じ構造で同じ機能を持っているから。
哲学書などではそう簡単に説明されている。
でもこれ、よーく考えてみると、不正確極まりないわけですよ。
五感と意識だって、個人差があるからです。

じゃあどうすれば、ピタリと共通認識できるというのだろうか・・・。
答えは意外と簡単なんだなぁ。
そう、自分を捨てればいいんです。
自分が見ている世界は、自分だけにしか見て感じれない世界であるなら、
そういう自分という存在をとっぱらってしまえば、他者と完璧にシンクロできるということ。

けれども、これではまだ不十分だ。
自分だけじゃ不十分なんですね。
相対する相手、その対話する相手も自分をとっぱらう必要があるんですね。


できねーよ、そんなこと。
まあ、普通はそう思いますよね。
でも出来るんだな。
少なくとも相手は出来なくても、自分は出来るんですよ。

つまり――
自分で自分の認識しているものをよーーーく見て、
自分という眼鏡を自分で外せばいいんです。
簡単に言えば、自分を見つめるという作業がそれです。

けどさ、
そうなると見える世界が非常に不安定になるんでしょうね。
さあどうする? 君ならどうするぅ?

そのためにあるのが、南無妙法蓮華経でしょ。
つまり、ありとあらゆる生命が則っている法則に則ってものを見ることで、
自分というフィルターを通さずにありのままに物を見れるという仕組み。

それが出来る方法が、唱題。
そして実践的に人と関わることで、ありのままに物を見る習慣をつけていく訓練が、
学会活動じゃあないんでしょうかね。


人間は自分が信じたいものを見ようとする。
よくそういうことを言いますが、
それはその通りなんですよ。

例えば自分はこの人を信じている。
そういう状況で、その人を見る訳です。
ですから、信じられない部分は無意識に排除し、
信じられる部分を検索して見つけ出し、
ほーら、ここを見てよ! ほれこの通りでしょ。
だから、この人は信じられる人なの! いい人なの!
となるわけだ。

これさぁ、突きつめて考えるとこうなってることに気づくはずなんだなぁ。


自分の意見をひっこめない者は、真実を愛する以上に、わが身を愛する人間である。
ジョセフ・ジューベル

( ゚∀゚)アハハ八八ノヽノヽノヽノ \ / \/ \

まあ、ほとんどの人がこういう感じなんですな。
つまりはさ、こういうことに気づいていない人というのは、
どんなに理性的であっても、究極の自己愛人間なんですわ。

ありのままにものを見る。
簡単そうだけど、究極的に難しいんだなぁ。


簡単に言えば、妙法に照らして、仏法の眼で物事を見ていかない限り、
ありのままに物事を見ることができないのが人間。
そうしない人は、究極の自己愛性人格障害を負っているということ。
まあ、ほとんどの人がそういう病気ですよ。
世間ではそれを、ジコチューと言うんでしょうがね。

賢人や聖人は、自分の見ている世界が、自分だけに見える世界だと気づき、
その自分という眼鏡をはずして世界を見た。
そして、みた真実を見れる方法を教えてくれている。

だから、賢人・聖人が見た世界と、我々が見ている世界は別物。
もちろん、ここにいる私の見ている世界と、
いま記事を読んでいるあなたの世界も別物。
ひとりひとりが、宇宙をもっているということ。
昨今の宇宙論――マルチバース論なんて、なかなかいい線ついているわけですよ。

だからさ、こんな状態で、議論しても意味ないでしょ。
ゆえに、みんなが物事をありのまま(別の言い方をすれば、同じものを見て)
議論やら共感できるようにしようよ、と勧め導いてきたのが、賢人であり、聖人なんですよ。


これまで、アインシュタインの相対性理論からはじまり、
宇宙論やらカントやらニーチェを学んできたけど、
いや、この発見はヤバすぎるわ。
価値観を大修正せざるを得ませんね。
我が人生、三度目の価値観の崩壊ですわ。
ガラガラガッシャーンて音が聞えますヨ。

でも、その縁をくれた人にまず感謝だなぁ。
まあ、全ては善知識ですね。
どんな困難なことからも逃げない。
悩みに悩んで、苦しみ苦しんで、思索して、今日これに気づいたんだからね。

ま、ほとんどの人が
読んでも意味不明なんでしょうが、それはいいの。
私は私のために記事を書いているのだから。

だから言ってきたんですよ。
正しい生き方は、自分なんてないということだと。
妙法即自分。
そうならない限り、何一つものをありのままに見れないんですよ。

けどさ、人間はそういうのを嫌がるの。
自分は自分である。
運命だとか義務だとかに従って、自分を捨てることが出来ないんだなぁ。
ようするにジコチュー(笑)

別の言い方をすれば小我に囚われてるんだなぁ。
愚かブー。

何でも好き勝手に出来ることが自由じゃないんだなぁ。
ありのままに物を見れるようになったときしか、
自分を捨てたときにしか自由になれないのが実は本当のところなんだなぁ。


ともあれ――
紹介したリンク先の後半を読めば、
祈りが叶うことは当然のなかの当然であることくらいは理解できることでしょう。

なんと素晴らしいことではないでしょうか、この現実が全て自分で生み出している物だとすれば、自分の思い通りの世界を自分で生み出すことが出来るということになります。見たものしか信じない人は、今の自分の現実から自分の限界を認識します。見たものしか信じない人が、自分の意識が世界を創り出していると認識することはなかなか難しいことでしょう。自分の無意識が現実を創り、自ら生み出した幻影を見て自分の信念を持ち、その新たな信念がさらに限定された現実を生み出し、その現実を見てさらに自分の考えを確信していきます。そしてますます見たものだけを信じるようになります。

↑このあたりを読めば、スッキリ納得できますよね。
そう、人間が自分で自分を駄目にしているんだという先生の指導も、
このことを言っているんですね。

カントの知情意なんかはさ、
そういう人間の認識の限界がどこにあるかを提示しているわけですよ。
ゆえにカントは――
理性だけではどうにもならない、
感情だけでもどうにもならない、
意(こころ)だけでもどうにもならない、
この3つを統合すればいいんだけど、
それでも認識には限界がある。
じゃあどうすればその認識の限界という壁をこえられるのか?
そう考え、見つけ出しちゃったんでしょ。

どうしたって宗教が必要だ――と。
認識の限界を超えるために必要なのは、信じることだ――と。
カント・・・まじスゴイよこの人は。



なんとなーく感じていたんですよねぇ。
これまでずっと信じてきた友人のことが、
ここ数日信じられなくなって、凄まじい苛々に襲われていましたからね。
(こんなのは違う! こんな俺はおかしい。なんで信じられないんだ!?)とね。
けど解りましたよ。
信じられなくなった理由が。
無意識にであっても、薄々感じてたんでしょうね、
自分の見ている世界と、他の人の見ている世界があまりにも違いすぎると。

でもそれが当然だと気づけば、なんてことはないのです。
同じようにものを見る方法は知っていたのですから。
けどさ・・・その方法は自分では出来るけど、他人に強制することは出来ないんだなぁ。
化他の実践の意味が、真底理解できましたよ。
化他なくして意味はない。
自分だけありのままに物を見れても、まだ半分。
対峙する人々がそうでなければ、議論も共感も意味をなさない。
そういうことですからねぇ。


あ、そうそう。
自分と他者の見ているというよりは生きている世界が違うなかで、
うまくやり取りをする方法はもうひとつあるんだなぁ。
「承認」。
例え自分と他人が見ているものが違っていても、「うん、君と僕の見ているものは同じだよ」。
そう嘘をついてあげるということ。

まず認める。
そういう行為なしに、いや真実はこうなんだ、と話したところで、
ほとんどすべての人は反撥しますからね。
いわゆる心の機微。人間の承認欲求は三大欲求より強いですからなぁ。

けどねぇ・・・
それは一種の甘やかしなんだよなぁ。

けどねぇ・・・
問題なのは、真実を教えられる人もほとんどいないということなんだなぁ。

それを学べるのは――
私の場合、
師匠と御書と、
唱題にして心に見えるものだけなんだなぁ。

まあ、究極的には、誰にあってもそうなんだから、嘆くこともないんだけど、
なんだかなぁ。

甘やかしの承認を求め、仕方なく承認しあっている姿も、
惨めな姿なんだよなぁ。

真実を知るってのは、
どんどん生きづらくなるってことだとは気づいていたけど、
今回のはかなりきついですわ、マジで。

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 創価学会へ


ipsilon at 11:45コメント(2)トラックバック(0) 


運命――
なんて重い荷物なのだろうか。
だが、ぼくは運命に翻弄などされない。

ぼくの抱える荷物は運命などではなく、義務なのだから。
責任なのだから。
いいや、それは使命なのだから。

言葉のあやだ。
何とでも表現するがよい。
白手袋の学者どもよ。

ただ僕は、ゆくべき道を往くだけだ。
それが僕の生きる道。
それはいつか小さな轍という道になってゆくことだろう。

This is My Road
道連れは――
いらない。



ipsilon at 05:15コメント(1)トラックバック(0) 
livedoor プロフィール
最新コメント
カテゴリ別アーカイブ
記事検索
ギャラリー
  • 小自分史(1)
  • Thank you my girl
  • 。゚(゚´Д`゚)゜。ウァァァン
  • 勝利のアクビ
  • 一瞬の憩い
  • 笑顔は美しい
  • 4つ目の自分
  • 4つ目の自分
  • 3つの自分
  • アリイ 1:48 三菱零式艦上戦闘機52丙型(a6m5c)
  • ハセガワ 1/700 病院船「氷川丸」 竣工
  • フジミ 1/72 空技廠 零式小型水上偵察機(E14Y) 完成
  • ハセガワ 1/700 重巡洋艦「古鷹」 完成
  • スケッチ アミダラ女王
  • 静止した時間
  • 蝶
  • 祈り
  • チャム・ファウ
  • どこかのお家の猫ちゃん
  • 「みちくさ」
  • ザハロワは美しい!
  • デジ絵「星座と少女」(完成)
  • チュチュがじゃまだよ〜
  • アティチュード
  • 瀕死の白鳥
  • デジ絵「夏の風」(完成)
  • デジ絵「風」(完成)
  • デジ絵 ランカ・リー(完成)
  • 栗木さん 応援イラスト
  • イラスト「天使」
  • 水彩画 愛嶋リーナ 完成
  • 水彩画(デジタルリタッチ)「graduation 」
  • 水彩画(デジタルリタッチ)「アメジストの祈り」
  • 水彩画(デジタルリタッチ)「初雪」
  • 水彩画 愛嶋リーナ
  • デッサン 愛嶋リーナ
  • 水彩画 アリスとネズミ
  • イラスト アリスとドロシー
  • イラスト 眠そうなネフェルタリ
  • スケッチ 微笑の国の人
  • なんでだろうう? と思うこと
  • スケッチ アソーカ・タノ
  • スケッチ ライオン
  • 3DCG X-Wing fighter
  • 3DCG X-Wing fighter
  • 3DCG 缶コーヒー"カフェバニラ"
  • 3DCG 習作 インダストリアル物
  • 3DCG 習作 インダストリアル物
  • 3DCG 習作 インダストリアル物
  • 3DCG 習作 インダストリアル物
  • 3DCG 習作 インダストリアル物
  • 3DCG 習作 インダストリアル物
  • 3DCG 習作 インダストリアル物
  • スケッチ 騎士の左腕
  • アーソウカ、、だった!
  • スケッチ 懐かしのアイツ
  • ニャンとも言えない気持ち
  • 旧作 ペン画
  • デッサン ドイツ兵 in 1944
  • 水彩イラスト ニホンカモシカ
  • デッサン アフリカゾウ
  • 水彩画「水辺の豹」
  • 習作デッサン「豹」
  • 旧作 Gジャンガール
  • イラスト「蜜虫」
  • 「ネフェルタリと豹」下絵
  • イラスト「ネフェルタリ」
  • 水彩画 「装身具をといたクレオパトラ」
  • デッサン+色鉛筆 眼
  • スケッチ 「装身具をといたクレオパトラ」
  • 習作 ネフェルタリ 下書き
  • デッサン 眼
  • デッサン途中 布の研究
  • 旧作 F-4E"Phantom2 & F-5E"Tiger2"
  • 旧作 F-4E"Phantom2 & F-5E"Tiger2"
  • デッサン チャイナドレスの子
  • スケッチ クレオパトラ
  • 水彩画 死せるクレオパトラ
  • スケッチ クレオパトラ
  • デッサン 小野田寛郎さん
  • デッサン 猫
  • デッサン Diane Kruger
  • デッサン ベッキー・クルーエル
  • デッサン 中澤裕子
  • ベッキー デッサン
  • 萌えキャラ 線画 修正 その1
  • 萌えキャラ 下塗り
  • デッサン 杉崎美香 8時間目
  • 習作 フォトショップ 萌えキャラ風塗り
  • デッサン 杉崎美香 6時間目
  • 欝
  • 習作 水彩 その1
  • デッサン 杉崎美香 4時間目
  • 習作 小池栄子 その1
  • 習作 杉崎美香 その4
  • 習作 Face
  • 習作 Formula 1
  • 習作 Formula 1
  • 習作 Formula 1
  • 習作 Formula 1
  • 習作 杉崎美香 その3
  • 習作 杉崎美香 その2
  • 習作 その4
  • 習作 杉崎美香 その1
  • 習作 その2
  • 習作 その1
  • 習作 その1
  • 習作 その1
  • 好き好き大好き
  • 電話中
  • βズガイキング
  • モー様の絵 ハケーン!(笑)
  • Mクン 見っけた!(笑)
QRコード
QRコード
  • ライブドアブログ