2014年05月08日

プリズナーズ/俺がもってる悪い癖

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※ネタバレ注意

俺にとってのこの赤いホイッスルは、父親の場合いったい何だったんだろうとケラー(ヒュー・ジャックマン)は真っ暗な穴の底で考えただろうか。常に備えよ(Be ready)、すなわち偶然を必然で迎え撃てという教えが、世界の不安定を理(ことわり)で杭打つという意味で宗教のある側面を端的に表わしているのだとすれば、赤いホイッスルは偶然と必然がクロスするところに在るものの象徴としてケラーを揺さぶり続け、おそらくは彼の父親がそうだったように祈りを拒絶された人へと追いやっていく。一方でロキ(ジェイク・ギレンホール)は自ら祈りを拒絶した人であり、彼が信仰するのは人生から不確定要素を取り除き支配下におくという自らの野心だけであったはずが(だから例の指輪は背景描写にすぎず宗教的な対立構造とは関係ないと思う)、ケラーとは正反対の場所からやはり赤いホイッスルの揺さぶりを受けていく。そうやって彼らにつきつけられた切っ先を運命と呼ぶならば、真の救済はその運命を受け入れることではなく、その刃渡りをすることで運命の先へと向かう人にこそ訪れるとヴィルヌーヴは考えているように思うのだけれど、ケラーの場合は工具箱に拳銃をしのばせた瞬間を(監禁時はまだ祈りで武装している)、ロキの場合は取調室でテイラーを殴りつけた瞬間を、それぞれが足を踏み入れた合図だとした場合、ヴィルヌーヴは暴力や苦痛によるほの暗い支配までも選択のひとつとして排除していないし、そうやってたどり着いた白く透明に思える場所にしたところで、それは幸福を保証するというよりは再生の許可を半ば強制的に与えるにすぎず、もう以前の自分と同じままでいることは許されないと謳うエンディングは『灼熱の魂』と同様、自ら書いた死亡宣告書のようだったのである。そして今作がその縁どりをいっそう色濃くしていたのは主にロジャー・ディーキンスの筆さばきによっていて、ひたすら抑えに抑えてきた光を突如解放する死神とのカーチェイスは暴れ馬を駆るような編集のリズムと相まったことで、まるで大量の流血に昂奮したような感覚にとらわれたし、ロキとホリー(メリッサ・レオ)のガンファイトになだれこむシーンでのフロアランプによる光と影のデモニッシュな切り取り、ロキのPC破壊に至るワンカット、ケラーのピックアップとロキのパトロールカーおよびホリーのトランザムにアレックス(ポール・ダノ)のRVといった車へのドライヴァーの精神風景の凍てつくような投影、松の木ごしにバーチ家の玄関を超低速でクロースアップしていくただそれだけですべてを了解させる完璧な経過ショット(ヨハン・ヨハンソンの劇伴がこのカットに限らず全篇で眩ませる)等々にうかがえるカメラの刻印にはディーキンスと仕事をともにするヴィルヌーヴの喜びがあふれていて、この映画の成果をディーキンスにあけわたしたところで自分は一向にかまわないというぎりぎりのケレンがこの映画の猟奇趣味に優雅な身のこなしを与えていたのは間違いがない。ジェイク・ギレンホールは倦怠がにじむにつれテリー・ホールのようなメランコリーへ沈潜していき、ポール・ダノはいったいこれからどうしていくんだろうと心配になるくらい、はきだめのフィリップ・シーモア・ホフマンとして他の追随を許さないままである。メリッサ・レオはケラーの最初の訪問時、彼が仕掛けたある言葉に反応するコンマ数秒の沈黙と凝視が冷え冷えと鋭く、ケラーが手玉に取られるのも無理はない役者の違いを既に見せつけている。前作に続き、他人の考えた物語を極北の感情で跋扈する怪物に育てたあげく、番犬のように飼いならしてはけしかけるヴィルヌーヴの悪癖はすなわち映画の性質そのもので、何なら噛まれて血の一筋でも流そうかというこれまた悪癖を持つ客は2時間半の間のたうちまわるはずだし、サスペンスとしての底はいくらか抜けてはいるものの、原題ママでスマートなタイトルを頭に叩き込んでおけばまあ見誤ることもないように思う。
posted by orr_dg at 02:22 | Comment(0) | TrackBack(0) | Movie/Memo | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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