スコット・フィッツジェラルドは自伝的エッセイ「崩壊」の中で、このように綴った。
魂の暗黒の闇の中では、時刻はいつも午前三時だ
(In a real dark night of the soul it is always three o'clock in the morning, day after day.)
村上春樹が好んでよく使っていたので、目にした人も多いフレーズだと思う。
フィッツジェラルドは、このフレーズの前に、このようにも書いている。
ところが午前三時というのは、荷物をひとつ忘れたぐらいのことが、死刑の宣告に劣らぬほどの悲劇的な意味を持つものだから、どんな薬も効きようがないのだ
(But at three o’clock in the morning, a forgotten package has the same tragic importance as a death sentence, and the cure doesn’t work)
わたしは、眠れずにいる本物の午前三時に、このフレーズを思い出す。
本物の午前三時に眠れずにいるというのは、魂の暗黒の闇の中にいるのと、記号的には同じような意味を持つもののように感じる。
犬の優しい体温を抱きしめていても、隣で夫が安らかに寝息を立てていても、本質的にはわたしはひとりぼっちなのだ。その事実がたまらなく寂しく感じることも、ときにはある。
孤独。
孤独について書かれたいくつかの文章や台詞を、わたしは何度も頭の中で繰り返してきた。そのうちそらで言えるようになったものもある。
たとえば、高校生のときに衝撃を受けたのが、次の一節だ。
どうしてみんなこれほどまでに孤独にならなくてはならないのだろう、ぼくはそう思った。どうしてそんなに孤独になる必要があるのだ。これだけ多くの人々がこの世界に生きていて、それぞれに他者の中になにかを求めあっていて、なのになぜ我々はここまで孤絶しなくてはならないのだ。何のために? この惑星は人々の寂寥を滋養として回転をつづけているのか。
(村上春樹「スプートニクの恋人」)
孤独とは何か。
物理的な孤立よりは、おそらくは精神的・存在的な寂しさを表す言葉だろう。両者はクロスオーバーな関係ではあるが、本質的には別物だ。
孤独を感じるのはどういうときなのか。
子どもの頃、上の一節が深く染みたのは、おそらく自分が孤独を抱えていたからだろう。
友達はもちろんいた。毎日忙しくして遊んでいたし、楽しいと感じたこともきっとあったのかもしれない。けれど寂しくてたまらないという気持ちは常にあった。
それは一般的な思春期少年少女のファッションとしての孤独という意味もあっただろう。でもそれにしてはずいぶん切実だったように思う。そしてそれは、現在にも至る気持ちだ。
孤独とはどういうことだろう。
物理的な孤立もある。無人島に一人でいたら寂しいだろう。でもそれは、ただ寂しいだけだ。たとえば無人島に一人でいて寂しくても、期日がくれば家族のいる家に帰れると決まっていれば、孤独を感じたりはしないかもしれない。
一方で、まったく言葉の通じない部族の村に放り込まれてずっと過ごさなければならなかったとする。しかもその部族が、言葉が通じない人はいないものとして扱い、まったく相手にしてくれないとする。それは絶望的に孤独なんじゃないか。そこに人がいるのに「分かってもらえない」「存在を認めてもらえない」
わたしにとって、子ども時代というのはまったくそのようなものだった。
別にいじめられてたわけでも孤立していたわけでもないけれど、友達の話す言葉は全部宇宙の言葉みたいに感じた。なぜか。大人になった今では少しだけ理由が分かるけれど、本質からそれるので書かない。
わたしの子ども時代の気持ちとまったく同じ気持ちを描いた曲があり、とても好きでよく聴いている。この曲を聴くと、子どもの頃から続く様々な感情が想起されるのでときに寂しくてたまらなくなることもある。でも、大人になったわたしは、この曲を聴くことで、小学生だったわたしを抱きしめ、中高生だったわたしを見守っている気持ちになる。一つの自己療養だ。
【初音ミク】ひとりぼっちのユーエフオー【オリジナルPV】 official - YouTube
理解されたいことのすべてが偽物で困ります
人はいつ孤独ではなくなるのだろう。
大人になって、働いて結婚して犬もインコも飼って同僚にも恵まれて、じゃあ孤独ではなくなるのか。
その答えはノーだ。
人は本質的にはずっとひとりぼっちなのだ。
誰かと分かり合えたつもりになっても、心の底から楽しい時間を共有できたとしても、それはひとりぼっちではなくなるということにはならない。
むしろ、それだけ大事な時間を作っていっても、「分かり合えない」どころかそもそも「世界を共有していない」という事実がどんどん浮き彫りになるだけだ。
自分と相手とが別の人間である以上は、世界を共有することは決して無い。なぜなら、世界の認識というのは、個々人の頭の中でそれぞれの枠組みを使って行われているからであり、それらが完全に一致することはおそらくはありえないからだ。
親しければ親しいほど、大切に思えば思うほど、その人やものやこととは本当には分かり合うことができないんだということを思い知る。
本当には、分かってもらうことも、分かることも、絶対にない。
それは、ときにとてつもない孤独として心にのしかかってくることがある。自分に余裕が無いときなどはとくにそうだ。これだけ沢山の人に恵まれていて、安全な家と優しい家族がいて、それでも尚これほど孤独なのだとしたら、じゃあ一体どうしたら孤独から救われるのだと。
レイモンド・カーバーがこのような詩を遺している。
「Late Fragment」
And did you get even so?
you wanted from this life,even so?
I did.
And what did you want?
To call myself beloved,to feel myself
beloved on this earth.
「おしまいの断片」
たとえそれでもきみはやっぱり思うのかな、
この人生における望みは果たしたと?
果たしたとも。
それで、君はいったい何を望んだのだろう。
それは、自らを愛されるものと呼ぶこと、自らをこの世界にあって
愛されるものと感じること。
この詩からは、満たされたの中に尚ある壮絶な孤独を感じる。
そして、その孤独の中にあってこそ、誰かに「愛される」=「存在をそのまま受容される」という願いが生まれるのであり、それを「果たせた」といえることは何にも代え難い喜びなのだと。
何度でも書く。人は本質的にはひとりぼっちで生まれて死んでいくのだ。誰かと分かり合うなんてことはできない。孤独から救われるということは、ありえない。
でも、人と人とは、互いに影響しあうことができる。互いの世界に、参加しあうことはできる。そしていろいろな気持ちを、経験を、世界を、互いに分け合うことはできる。その分け合う気持ちの中にはきっと「分かり合いたい」という気持ちも含まれており、「分かり合えるわけがないものを『分かり合いたい』という気持ち」を分け合うということは、きっとひとりぼっちで生きていくというときに、大きな喜びと勇気を与えてくれる。分かり合えない相手の存在を、それにも関わらず受け止めるからこそ、分かってもらえない自分の存在を、そうであっても受け入れてもらえるからこそ、そこにはえも言われぬ感動があるのだ。
魂の暗黒の闇の中にいるみたいな眠れずにいる本物の午前三時に、誰にも分かってもらえない当たり前のわたしの世界の中で、そんなことを考えていた。