ぼくが迅速に決断を下せる理由:自分は5年後には死んでいると、信じています

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最近はいい意味で常識が歪んできたようで、「今度○○するんですよ〜」という話をすると「えっ!そんなすぐに!迷わないんですか?」と驚かれることが増えてきました。


だって、5年後死んでるしね

比較的、決断の早さには自信があります。なぜかといえば、ぼくは「5年後、死んでいる前提」で行動しているからです。

ぼくは今27歳なので、5年後は32歳です。うーん、多分死んでますよ!ヤバい!焦ってきた!

何が起こるかわかりませんからね…。実際、ぼくの同級生で若くして亡くなった人もいます。ぼくが5年後死んでいたとしても、不思議さはゼロです。ごく当然の話です。

5年後どころか、今日死んでも別におかしくはありません。日常的に酒飲みなので、そろそろ身体が腐り始めている気がします。小学生の頃には、原因不明の心臓系の病気もやっています(川崎病)。祖父はふたりとも胃腸系の癌で亡くなっていますし、親父は糖尿病だし、うーん、早めに死ぬなこれは…。


…そんな感じで日々を捉えているので、ぼくは決断が早くなるんだと思います。だって、死ぬわけですよ。不意に。当然じゃないですか、それは。

いつ死ぬかわからない。どうせ生きているんだから、やりたいこと、やるべきことはやり尽くしてから死にたいです。死の間際に「ま、やることやったし、別にいいか」と思ってポックリ死にたいです。

どうせ死ぬんだから、世の中に爪痕を残して死にたいです。長い目で見れば人類も地球も宇宙も滅びるのでしょうけれど、だからこそ、引っ搔き傷くらいは残したい、と。数千年にわたって語り継がれるような作品を残せたら、けっこう面白いじゃないですか。


ぼくは死を恐れているわけではありません。エピクロスの名言にあるとおり、ぼくが死んだとき、もはや死を観測できる「ぼく」は消滅していますから。

「私が存在する時には、死は存在せず、死が存在する時には、私はもはや存在しない(エピクロス)」

死というのは、人生のどこにも存在しないのです。ということは、死は恐るるに足らず。「死んだ後」なんて観測することができないのですから。強いていえば、痛いのはイヤですけどね…。


散文的な記事になりました。最後に、すでに亡くなっている、池田晶子氏の生きた言葉を紹介。

死は人生のどこにもない。そう認識すれば、現在しかない、すべてが現在だということに気がつくはずです。

人は死があると思って生きているから、生まれてから死に向かって時間は流れていると思っています。社会もその前提で動いています。このことを、とりあえず前提としてそういうふうにやっていると自覚していればいいのです。

真実はそうではない。死がないとわかった時、時間は流れなくなるのです。そうすると、現在しかなくなってしまう。

そうなれば、過去もこの現在にあるということに気がつく。それが、年齢を重ねることの面白さでもあるのです。


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