Name    : Awaji
E-mail  : 
Title   : 救世観音と「書紀・家伝」??
Comments: 
みなさん、今日は。Awajiです。
チョット音無しの日が続いていますので、「書紀」製作に関して掲載
を準備していた部分をUpします。ご参考までに・・・

以下の部分は「入鹿事件」に関する「書紀」と「家伝」の比較です。

@(家伝)
後崗本天皇四年歳次乙巳、夏六月、中大兄詐唱三韓上表時人以為、信
然。於是、謂山田臣曰、「三韓表文、使公読白乗其之怠擬殺入鹿」山
田臣許之。策既定矣。

(書紀)
六月丁酉朔甲辰、中大兄密謂倉山田麻呂臣曰、「三韓進調之日、必将
使卿読唱其表。遂陳欲斬入鹿之謀。」麻呂臣奉許焉。

A(家伝)
戊申、帝臨軒、古人大兄侍焉。使舎人急喚入鹿。入鹿起立著履、履三
廻不著。入鹿心忌之、将還彷徨、舎人頻喚。不得巳而馳参。大臣甞知
入鹿多疑、昼夜持剣。預教俳優方便令解。入鹿咲而解剣、参入侍座。

(書紀)
戊申、天皇御大極殿。古人大兄侍焉。中臣鎌足連、知蘇我入鹿臣、為
人多疑、昼夜持剣、而教俳優、方便令解。入鹿臣咲而解剣。入侍干座。

B(家伝)
山田臣進読三韓表文。於是、中大兄、命衛門府、一時倶閉十二通門。
時中大兄、自執長槍、隠於殿側。大臣、持弓矢為翼衛。賜箱中両剣於
佐伯連古麻呂、稚犬養連網田曰、「努力努力、一箇打殺。」以水送飯、
咽而反吐。

(書紀)
倉山田麻呂臣、進而読唱三韓表文。於是、中大兄、戒衛門府、一時倶
金巣十二通門、勿使往来。召聚衛門府於一所、将給禄。時中大兄、即
自執長槍、隠於殿側。中臣鎌足連等、持弓矢而為助衛。使海犬養連勝
麻呂、授箱中両剣於佐伯連子麻呂、與葛城稚犬養連網田曰、「努力々
々、急須応斬。」子麻呂等、以水送飯。恐而反吐。

C(家伝)
大臣、嘖使勤励。山田臣、恐表文将尽、古麻呂等猶未来、而流汗浹身、
乱声動手。鞍作恠問曰、「何故慄戦。」山田臣曰、「近侍御前、不覚
流汗。」中大兄、見古麻呂等、畏入鹿威、便旋不進、咄瑳之。

(書紀)
中臣鎌足連、嘖而使励。倉山田麻呂臣、恐唱表文将盡、而子麻呂等不
来、流汗浹身、乱声動手。鞍作臣、怪而問曰、「何故掉戦。」山田麻
呂対曰、「恐近天皇、不覚流汗。」中大兄、見子麻呂等、畏入鹿威、
便旋不進曰、「咄瑳。」

D(家伝)
即与古麻呂出其不意、以剣打傷入鹿頭肩。入鹿驚起。古麻呂、運手揮
剣、斬其一脚。入鹿起就御座、叩頭曰、「臣不知罪、乞垂審察」天皇
大驚、詔中大兄曰、「不知所作、有何事耶。」中大兄伏地奏曰、「鞍
作尽滅王宗、将傾天位。豈以帝子代鞍作乎。」天皇起入於殿中。古麻
呂等、遂誅鞍作焉。是日雨下、潦水溢庭。以席障子、掩鞍作屍也。

(書紀)
即共子麻呂等出其不意、以剣傷割入鹿頭肩。入鹿驚起。子麻呂、運手
揮剣、傷其一脚。入鹿転就御座、叩頭曰、「当居嗣位、天之子也。臣
不知罪。乞垂審察。」天皇大驚、詔中大兄曰、「不知所作、有何事耶
。」中大兄伏地奏曰、「鞍作盡滅天宗、将傾日位。豈以天孫代鞍作乎
。」天皇即起入於殿中。佐伯連子麻呂・稚犬養連網田、斬入鹿臣。是
日、雨下潦水溢庭。以席障子、掩鞍作屍。

E(家伝)
時論以為、応天誅逆而豊浦大臣猶在、狡賊未平。即入法興寺為城、以
備非常公卿大夫、悉皆随焉。使人賜鞍作屍於豊浦大臣。於是、漢直等、
ハ聚族党AEB甲持兵、将助大臣分設軍陳。中大兄、使巨勢臣徳陀告
曰、「吾家国之事、不依汝等何為違天抗捍自取族滅哉。」賊党高向臣
国押、謂漢直等曰、「吾君太郎、已被誅戮大臣徒然待其誅決耳。為誰
空戦、尽被刑乎。」言畢奔走。賊徒亦散。

(書紀)
古人大兄、見走入私宮、謂於人曰、韓人殺鞍作臣(謂因韓政而誅)吾
心痛矣。即入臥内、杜門不出。中大兄即入法興寺、為城而備。凡諸皇
子諸王諸卿大夫臣連伴造国造、悉皆随侍。使人賜鞍作臣屍於大臣蝦夷。
於是、漢直等、ハ聚眷族、環甲持兵、将助大臣処設軍陣。中大兄使将
軍巨勢徳陀臣、「以天地開闢、君臣始有、説於賊党、令知所赴。」於
是、高向臣国押、謂漢直等曰、「吾等由君大郎、応当彼戮。大臣亦今
日明日、立俣其誅決矣。然則為誰空戦、盡被刑乎。」言畢解剣投弓、
捨此而去。賊徒亦随散走。

F(家伝)
己酉、豊浦大臣蝦夷、自尽于其第氛HI除、犲狼鼠伏。人々喜躍、皆
称万歳中大兄歎曰、「絶綱更振、頽運復興者、実公之力也。」大臣曰、
「是依聖徳、非臣之功。衆咸服、其不自伐焉。」

(書紀)
己酉、蘇我臣蝦夷等臨誅、悉焼天皇記・国記・珍宝。船史恵尺、即疾
取所国記、而奉献中大兄。是日、蘇我臣蝦夷及鞍作屍、許葬於墓。復
許哭泣。

一見して、極めて類似していることが、お分かりだと思いますが、明
らかに相違している部分があります。

A・・・家伝では、入鹿が事前に不安を感じていた伏線がある。
B・・・家伝では、「海犬養連勝麻呂」に関する記述が欠けている。
D・・・家伝では、「当居嗣位、天之子也」「稚犬養連網田」の部分
        が欠けている。
E・・・家伝では、古人大兄に関する記述が欠けており、高向臣国押
        を明確に賊徒としている。
F・・・家伝では、天皇記・国記に関する記述が欠けているが、事件
        に関する鎌足の功績を称える天智の言葉と、鎌足の皇室に対
        する讃辞が記述されている。

つまり・・・全体として「書紀」の方が詳しく記述されており、これ
は藤原家以外の資料が存在し、それを参照したためと考えられる。

特に古人大兄部分については、記述者自身が充分その意味を理解して
いないにも係わらず敢えて記載したのは、カット出来ない原資料(皇
室系?)に由来するものだと思われる。

またFの部分は藤原家にとって最も名誉ある部分であるが、「書紀」
ではカットされている。(これは会話部分であり、後世藤原氏が付加
したとは考えにくい)これは藤原氏の「書紀」関与が如何なるもので
あったかを示していると思われる。

等から見て・・・概ね次のような製作経緯が感じられますが、如何で
しょうか?
          
藤原資料ーー┬ーーーーーーー┬ーー→家伝
           ├ーー→書紀ーー┘
其他資料ーー┘

Time    : 2000/ 3/ 4(土) 11:35:55

Name : 西孝二郎 E-mail : west219@m09.alpha-net.ne.jp Title : やっぱり義経はジンギスカンでした。 Comments:  はじめまして。  私、最近,文芸社から『それでもやはり成吉思汗は源義経である』という本を出しました〜。  モンゴルの史書『元朝秘史』の漢字文を解読して,そこからまさに義経の一生を取り出すことに成功したものです。  『元朝秘史』は現存するものは漢字で書かれたものだけで,それは中国人によって翻訳されたものであるというの が定説になっていますが,しかし,その確証はなく,現に今でもこの漢字文『元朝秘史』こそ原典であるという説を主 張するモンゴルの学者もいます。私もこの説を支持する立場にたち,その根拠を示して,その上で,成吉思汗という名 や『元朝秘史』漢字文の解読を行ったのですが,そこから浮かび上がってきたものは間違いなく,日本における義経 の一生でした。徹底的に解読してますので,読んでいただけたらうれしいです〜。   ここに、この本の中にあるたくさんの解読結果の中から、一つだけ分かりやすく面白いものを書いておきたいと思 います。  モンゴル王の呼称は『汗』ですが,この字は三水と干で成り立っています。三水は言うまでもなく「水」ですが、一方、 干という字は「もと(む)」という読みがあります。従って、汗=「水もと」であり、それはまさに「源」です。  さらに、「汗」という字の三水を横にして干という字の上に持ってくると,カタカナの「ギ」という字になります。すな わち、「義」なのです。  もういっちょ。「汗」は水と干の組み合わせで出来ていますが,干は火に音通であります。しかも、火を意味する易の 卦「離」について,「説卦伝」は「離を乾くの卦となす」といっていますから、やはり乾くという意味である干は離,すなわち 火ということになります。  つまり,汗という字は水火の結合した形を持っているわけですが,中国の五行思想において水は北,火は南です。とい うことは汗=南北ということになりますが,この意がまさに「経」という字と一致します。なぜなら,「経」は縦糸,すなわち, 南北という意味だからです。  さらに、汗の三水は「三」,干は十干だから「十」で、合わせて「十三」ですが,この数がやはり「経」という字と結び付きます。  というのも、十三経という言葉があるからで,この十三経とは,儒学の十三種の基本経書のことです。  つまり,汗=経なのです。    以上のことから,汗=「源・義・経」ということになるのです。  もちろん、この成吉思汗という名は後の時代に,中国人によってつけられたものに過ぎないなどという反論もある でしょうが,その問題については本の中で詳しく述べて,この漢字名の解読が有意義であることの根拠としています。 それをここで述べるのは無理です。  ともかく、汗という字からは源義経という名が取り出せるということです。  しかし,この名前の解読は,成吉思汗=義経のごくささいな根拠に過ぎません。もっともっとすごい根拠がたっくさんあります。  どーか,井沢さんに読んでいただいて,反論していただきたいで〜す。  それでは失礼します。 Time : 2000/ 3/ 5(日) 00:41:47
Name : 西孝二郎 E-mail : Title : すいません Comments: 下,改行するの忘れて横に長くなってしまいました。。すいません。 Time : 2000/ 3/ 5(日) 00:44:42
Name : Awaji E-mail : Title : 救世観音と「ジンギスカン」?? Comments: 西孝二郎さん、はじめまして。Awajiと申します。 ご意見に関する、ササヤカな疑問ですが・・・・以下 @>>三水は言うまでもなく「水」ですが、一方、干という字は「もと(む)」 という読みがあります。従って、汗=「水もと」であり、それはまさに 「源」です。 確かに「干」には「求(もと)む」という訓読みがありますが、その他 「乾(ほ)す」「(ひ)す」「尽(つ)く」「犯(おか)す」「背(そむ )く」「悖(もと)る」「触(れ)る」「反(はん)す」・・・等いくら でも有ると思うのですが?? 「求(もと)む」の「もと」と「水」をクッツケて、汗=「水もと」=「源」 ならば・・・「水ほ」=「渉」、「水ひ」=「汨」?? A>>「汗」という字の三水を横にして干という字の上に持ってくると,カタ カナの「ギ」という字になります。すなわち、「義」なのです。 「汗」=ギ ならば、「汁」=ヂ・「汀」=デ・「氾」=ビ になるので しょうか?? 「可」=プ(口を○とする) もありますね? そうすると「可汗」=プギ≒溥儀(清朝最後の皇帝)ナンテのも?? B>>汗=南北ということになりますが,この意がまさに「経」という字と一致 します。なぜなら,「経」は縦糸,すなわち,南北という意味だからです。 「干」は「楯(たて)」の意味がありますから、「縦(たて)」=「経」 でも(音訓ゴッチャニすれば)可能なんですが?? C>>汗の三水は「三」,干は十干だから「十」で、合わせて「十三」ですが、 この数がやはり「経」という字と結び付きます。 「干」が「十干」で「十」ならば、「行」は「五行」で「五」、「支」は 「十二支」で「十二」、「曜」は「七曜」で「七」デショウか?? D「汗(khan)」は、5世紀初めにモンゴルを支配した柔然の族長の称号 である「可汗(Khaghan)」との関連性があると言われていますが・・・ 「汗=源義経」ならば「可汗=源義経なる可し」でしょうか? そもそも、「可汗(Khaghan)」と「汗(khan)」の関連を如何お考えなの でしょうか?? 「干」→「楯(たて)」→「立(たつ)」ーー→「汗」=「泣」と言うの が率直な印象です。 なお、本件に関するご回答を求めているものではありませんので、念のため。 Time : 2000/ 3/ 5(日) 11:52:08
Name : Awaji E-mail : Title : 救世観音と「汗も汁もジンギスカン」?? Comments: 西孝二郎さん、みなさん、今日は。Awajiです。 ジンギスカンに関する追加疑問ですが・・・・「汗」が「源義経」ならば、 「汁」も「源義経」になり得るかも知れません・・・以下。 まず「サンズイ」の置き換えで、「汗」=ギならば・・・「汁」=ギと も言えますね。 さらに「汁」は、ややこしいことを言うまでも無く「十三」ですから、 お説によれば、「経」になるんですね。 「十」は「ト(ウ)」と読めますから、「度=ト」になり「汁」=「渡」 です。つまり、「海を渡ってきた人」ですね。 「原」には「重ねる」という意味がありますから、「十(ジュウ)」は、 「重(ジュウ)」であり「原」になります。よって「汁」=「源」です。 「汁」は「牛」になるかも知れませんね?(カナリシンドイ(^0^)") 従って「汁」は、「海を渡ってきた」「源」の「義経」で源義経。牛若 丸である。ナ〜ンテことにならないでしょうか? Time : 2000/ 3/ 5(日) 16:36:05
Name : 傍観者 E-mail : Title : そういえば、 Comments: 朝娘の「恋のダンスサイト」は、「ジンギスカン」の替え歌だとか・・・ Time : 2000/ 3/ 5(日) 20:01:03
Name : 西孝二郎 E-mail : Title : 「汗=源義経」疑問に対する答え。 Comments: 西です。反論というか疑問を書いてくださってありがとうございます。 まず、汗という字は他にもいろいろな読み方が出来るから, 汗=源義経と解するのはおかしいというご意見のようなのですが、 これについては、次のように答えることが出来そうです。 たとえば、ここに井沢という人がいて,彼がその名をもじって, izawa→awazi→awajiという形で,awajiという名を自分の別名にしたとします。 そして,誰かがこのawajiは井沢という名を逆にしてawaziとし、 さらに、そのうちのziを同音のjiに置き換えて作ったものである ということを見抜いたとしますね。 ところが、そこへ、別の人がやってきて, いや、awajiは並べ替えると岩屋(iwaja)とも読める。ちょっと変だが,味輪(ajiwa)とも読める。 このように,他にもいろいろな読み方が出来るのだから, awaji=井沢と解するのは間違いである、などと言ったりしたとしたら,すごく変ですよね。 しかし、awajiさんのご指摘というか疑問はまさにこんなもので、 正直言ってくだらないです。 しかも、私は汗=源義経と読めることだけをもって ジンギスカン=義経だといってるわけでなく、この名前の解読は 他の多くの解読と合わせることで、その正当性が証明されるようなものですから、 このご指摘には苦笑を禁じ得ませんでした。 また、それとは逆に、源義経と読める文字は汗だけでなく、 他にもいろいろあるということについてですが、 そんなことがなぜ疑問になるのか私にはさっぱり分かりません。 なぜなら、そりゃ他にも同様な意味を持ち得る文字はいくつもあるでしょうが、 でも、だからといって、 なぜその同様の意味を持ち得る文字を全て使わなければならないでしょうか? 何か一つを選んで使用するということは当たり前のことじゃないでしょうか。 最も気に入った文字を選んで自分の名とすることがどうしていけないでしょう? 他の字を使っても源義経という名は表現できるから、 汗は源義経の意を表現したものではないというのは論理として成り立っていません。 最後に可汗と汗の関連性についてですが、 ジンギスカン以前のモンゴルの歴史は全くもって謎が多く、ほとんどの解釈が憶測の域を出ないものです。 従って、ここはまだある程度自由な解釈が許される領域で、まずは可能な解釈を次々に出して、 その中から正しいものを見分けていくという作業が必要です。 確たる証拠もないのに、早急に断定的な結論を下して、 全てをそれに合致するかしないかだけで、取捨していくのは危険です。 awajiさんがおっしゃるように 可汗との関わりというのも、そういわれているだけで、確証があるわけではありません。 従って、汗を源義経の代字として解釈する自由はあります。 しかし、可汗という称号との関係はありとして次のように考えてみてもよいでしょう。 汗は源義経という名を表すことが出来ると同時に、 可汗という族長の称号をも表すことが出来る。 すなわち、汗はこの二つの意味が集約された字である。 従って、汁などという字ではなく、汗という字こそ王の源義経にふさわしい。 だから、王の名を汗としよう、とこうなったんじゃないでしょうか。 要するに、可汗と汗の関連性を持ち出したとしても、 汗=源義経という解釈が否定されるわけではないということです。 なお、汗は他に逆から読んでも源義経と読めますし、さらに、牛若丸とも読めます。いくつもの意味が集約された 文字であるということです。 こういったことは全て本に書きましたが、ここではあまりに長くなるので書くのはやめます。 それでは。妄言多謝。 Time : 2000/ 3/ 6(月) 04:55:24
Name : TAKATOKU E-mail : Title : 輔住さんへ Comments: 忙しくて返事が遅れました。すみません。 Hozumi-san wrote (2/16): > 自分の想像力の無さを棚に上げ、少し厳しいことをいいます。 批判は大歓迎ですが、説教・おせっかいは無用です。それから批判 のための批判も無用です。(笑) Hozumi-san wrote (2/16): > 『国史大辞典』を読んだことはありませんが、 > 誰だって歴史の分厚い本を読んでたら「おや?」と思う部分はあると > 思います。 つまり、輔住さんは『国史大辞典』の怨霊信仰の記述は部分的に間 違いと言うのですね。「自分さえよければ子孫は皆殺しされても何 も思いません」ということですか。しかも、この輔住さんの意見に KANAK氏も同意している、と言いたいのですか? Hozumi-san wrote (2/16): > どうもあなたの言うことは極端すぎてなにが言いたいのか分からないです。 極端?? 最初の頃は怨霊の定義が文脈によって変化する事を述べ ました。次に、『国史大辞典』とKANAK氏の意見が矛盾してい ない事を述べたつもりですが。。 どこが極端なんでしょう? “『国史大辞典』は部分的に間違っている”という輔住さんのご意 見の方がよっぽど極端に見えますが。。 これ以上の議論は無駄なようです。これで終わりにしませんか? Time : 2000/ 3/ 6(月) 17:59:56
Name : Awaji E-mail : Title : 救世観音と「汗=源義経に関する疑問再説」?? Comments: 西孝二郎さん、みなさん、今日は。Awajiです。 >>izawa→awazi→awajiという形で,awajiという名を自分の別名にした >>とします。 >>誰かがこのawajiは井沢という名を逆にしてawaziとし、さらに、その >>うちのziを同音のjiに置き換えて作ったものであるということを見抜 >>いたとしますね。 >>他にもいろいろな読み方が出来るのだから,awaji=井沢と解するのは >>間違いである、などと言ったりしたとしたら,すごく変ですよね。 >>しかし、awajiさんのご指摘というか疑問はまさにこんなもので、正 >>直言ってくだらないです。 論点が歪んでいると思いますが、取り敢えずこの件について・・・以下。 西さんは、誰かが「Awaji」が「izawa」を置き換えたものだと「見抜く (いた)」可能性があるとお考えなのですね? この前提となっているのは、「Awaji」が何らかの言語操作で作られたと 言うことですが、そう言う発想自体が、トンデモナイ誤解であり得るとは 思われませんか? 具体的に申し上げましょう・・・・ 「Awaji」は先祖の出身地が「淡路島」であること。加えて「千鳥」の ようなか細い声で鳴くこと(ささやかな意見を述べること)、幾夜寝覚 めぬこと(夜更かしをしてRESをUPすること)等から命名したものです。 従って、幾ら是を捻くりまわしても、その他の意味を「見抜く」ことは 有り得ません。 つまり置き換え推理は、「見抜いた」どころか詰まらない言葉遊びに基 づく、全く「見当違いのくだらない推理」に過ぎません。これはAwaji本 人のHNについて、本人が証言しているのですから、議論の余地はあり ません。 それでは、何故このようなトンデモ推理が生じたか・・・「他にもいろ いろな読み方が出来るのだから・・・間違った」のではありません。他 人のHNを何の根拠も無く、何らかの言語操作によるものと決め付け、 無理に逆読みされたからでしょう? 仮にAwajiが、「西孝二郎」さんについて「西孝=最高」と読み、ついで に「二=ふ」「郎=男=マン」として「最高(に)不満」と「見抜いた」 ら如何でしょうか? 「背高自慢」「咲いた花振ろう」「西高二浪」「 西行浮浪」でも良いんですが・・・ これが「見抜いた」のかどうかを議論する事自体がナンセンスだとは思わ れませんか? そもそもAwajiが「汗=源義経」の疑問点として申し上げているのは・・ 「汗」の「サンズイ」を捻くって「ギ」と「見抜く」ことに何らかの説 得性があり得るのか?(「汗」=ギ ならば、「汁」=ヂ・「汀」=デ・ 「氾」=ビ になるのか??・・・「汁」=ギ も同様?) 「汗」は「十三」を意味すると「見抜く」ことが出来得るのか? (「干」に「十干」という慣用句があるから「干」=「十」と解釈出来 得るものなのか?・・・正直言って全くナンセンスだと思います。) 「十三」は「経」を意味すると「見抜く」ことが出来得るのか? (「十三」には「十三経」という慣用句もあれば「十三夜」「十三州」 「十三宗」「十三仏」「九里四里美味い十三里」もあり、逆に「四書五 経」と言う、より一般的な慣用句もあります。 この慣用句から「四」は「書」を意味し、「五」は「経」を意味すると 「見抜ける」のか?・・・全くわけが分かりません。) 「汗」は「南北=縦」を示し「経」を意味すると「見抜く」ことが出来 るのか? 「汗」は「源」を意味すると「見抜く」ことが出来るのか? (「干」は「求(もと)む」と読み得るので、「汗」は「水もと」= 「源」であると「見抜ける」のか?) と言う事です。これらについて皆さんが成る程「汗」は「源義経」を意 味すると「見抜」かれるのならば、Awajiは特段申し上げることもありま せん。どうぞご自由に・・・と嘆息するのみです。 Awajiが「汗」が「源義経」であれば、「汁」も「源義経」であると申 し上げたのは、「漢字」には訓読を含め様々な取り様があるので、言葉 遊びをすれば何とでも付会出来得るというくだらない例であって、「源 義経」を暗示するために「汗」より「汁」が妥当であると言う意味では 有りません。 Awajiの管見ながら、「ジンギスカン=源義経」説は・・・ 末松謙澄「ジンギスカン・義経同一人説」 小谷部全一郎「成吉思汗は源義経也」 高木明光「成吉思汗の秘密」 等でオボロゲナガラ承知しています。しかし流石に「吉を成し、水干を 思う」には恐れ入ってしまった記憶があるのみで、他の空虚な論点は全 て忘れてしまいました。 Awajiは、全くの門外漢ながら・・・ジンギスカンは、ドブンバヤン= アランゴワの後裔を称する草原貴族で、イェスゲイバアトル=ホエルン の子、ベクテル・ベルグテイ・ジュチカサル・カウチン・テムゲを兄弟 姉妹として育ち、1188年 タイチュウト部を降して名を挙げ、1189年 ク リルタイにおいて部族連合の長としてのモンゴル部族伝統の称号である 「Khaghan或いはkhan」に推戴された可能性がある・・・生っ粋のモン ゴル人と考えるのが最も自然であり、何故この人物が1189年に奥州で藤 原泰衡に襲撃された(殺害されたかどうかは知りません)源義経と関係 づけられるのか、サッパリ分かりません。 正直・・・こういった主張が、いまなお出現すると言う不思議な生命力 には驚きを禁じ得ませんが・・・ (ただし、Awajiが驚こうが嘆こうが、西さんがそれを主張されるのは、 勿論ご自由です。) Time : 2000/ 3/ 6(月) 23:02:42
Name : 西孝二郎 E-mail : Title : ジンギスカンについて・3 Comments: >西さんは誰かが「awaji」が「izawa」置き換えたものだと「見抜く」 >可能性があるとお考えなのですね? >この前提となっているのは、「awaji」が何らかの言語操作で作られたと >言うことですが、そう言う発想自体が、トンデモナイ誤解であり得るとは >思われませんか? 私はこの掲示板に登場してくるawajiさんのその名が 井沢という名から作られたといっているのではなく、 実際に井沢という人が、izawa→awaji→awajiという形で、awajiという別名を 作り、それを名乗っている場合のことを言っているのです(ちゃんとそう書きました)。 そして、この場合に誰かがそのawajiをizawaという名から作られたものであると 考えたならば、それは正解なのですから、見抜くという表現が正しいものです。 >つまり置き換え推理は、「見抜いた」どころか詰まらない言葉遊びに基 >づく、全く「見当違いのくだらない推理」に過ぎません。これはawaji本 >人のHNについて、本人が証言しているのですから、議論の余地はありません。 しかし、実際にはこのような言語操作で別名を作る人はたくさんいます。 たとえば、谷久志(たにひさし)というある素人作家は、西久太(にしひさた) というペンネームで、投稿雑誌に作品を発表していました。 この場合、にしひさたの順番を入れ替えるという言葉遊びで、 彼の本名が「見抜ける」わけです。 詰まろうが詰まらなかろうが関係ありません。実際にそう言うことはあるのですから。 そして、ご本人がそうおっしゃるのなら、 確かにこの掲示板のawajiさんの名は井沢という名から作られたものではなく、 従って、その名に置き換え推理を適用することは見当違いかもしれません。 しかし、それはawajiさんの名前の場合についてそう言えるのみであって、 他の場合には置き換え推理で読み解ける場合もあります。 私も、漢字の置き換えを使って、別名を作って名乗ったことがあるので、 それは明白です。 この場合はまさに漢字の置き換え推理こそ私の本名を解く鍵となります。 このときに誰かが、漢字の置き換え推理など詰まらない言葉遊びに基づいた 見当違いのくだらない推理だなどと言ったとしたら、それこそ見当違いということになるでしょう。 そして、成吉思汗はawajiさんのように本人自ら、 私の名はくだらない言語操作で作られてはいないなどと言ってはいないのですら、 この場合は言語操作という可能性を否定してはならないのです。 最後にジンギスカンの生まれについてですが、 私は『元朝秘史』を徹底的に解読したのでよく知ってますが、 たとえばジンギスカンの祖は青い狼ですよね。 また、アランゴアは光に感応して子供をはらんだことになっています。 いったいawajiさんはこれらをどうお考えになるおつもりなのでしょう。 「元朝秘史」などに書いてあることを全くそのままに受け入れてしまうなんて それこそ「トンデモナイ」ことだと思われませんか? Time : 2000/ 3/ 7(火) 00:33:31
Name : 輔住 E-mail : Title : TAKATOKUさんへ Comments: みなさん、お元気ですか? TAKATOKUさん返信ありがとうございます。 >つまり、輔住さんは『国史大辞典』の怨霊信仰の記述は部分的に間 >違いと言うのですね。「自分さえよければ子孫は皆殺しされても何 >も思いません」ということですか。しかも、この輔住さんの意見に >KANAK氏も同意している、と言いたいのですか? 私自身の意見は日本の怨霊信仰はオオクニヌシの頃には 始まってると思っていますし、その頃から子孫断絶よりも殺されたりした 本人の恨みの方が強いと思っています。 ただKANAKさんがこの意見に同意してるなんて、 一言も私は言ってないですよ。 あなたの投稿を見ると 「KANAKさんは『国史大辞典』の内容を信じて疑わない人」と 思っているように受取れたのです。 それは間違っていると思うのであのように書いたのです。 >これ以上の議論は無駄なようです。これで終わりにしませんか? 別にそれでかまいません。ただ私は 1.私は引用方法が間違っていると思う。 2.あなたの意見の内容がよく分らない。 と言っただけです。私は「議論」というより「質問」のつもりでしたが。 Time : 2000/ 3/ 7(火) 11:55:05
Name : Awaji E-mail : Title : 救世観音と「ジンギスカン=平知盛説」?? Comments: 西孝二郎さん、みなさん、今日は。Awajiです。 >>最後にジンギスカンの生まれについてですが、私は『元朝秘史』を徹底的に >>解読したのでよく知ってますが、たとえばジンギスカンの祖は青い狼ですよ >>ね。また、アランゴアは光に感応して子供をはらんだことになっています。 >>いったいawajiさんはこれらをどうお考えになるおつもりなのでしょう。 >>「元朝秘史」などに書いてあることを全くそのままに受け入れてしまうなん >>てそれこそ「トンデモナイ」ことだと思われませんか? 西さんは、祖神神話と系譜伝承の関係を、いったいどのように理解され ているのでしょうか? 東アジアにおける多くの王朝(民族)が、トー テム神話(檀君神話等)、太陽感生神話、卵生降臨神話をもって祖先 (祖神)を彩っている事はご存知のとおりです。(倭国も同様です) 例を「高句麗」で見ても・・・明かにこの様な先祖(祖神)神話を有し ていますね。(勿論Awajiはそれが歴史的事実とは思っていません) それでは、祖先神話が信じられないから、「三国史記」その他「史書」 に記載された「高句麗王」の系譜は全く出鱈目(トンデモナイ)とおっ しゃるのでしょうか?  処女懐胎は生理的に信じがたいからと言って、単純にジーザスの存在を 否定ですべきでしょうか? 言うまでも無く、祖神神話(神話的潤色)とその後の系譜・事跡は、全 く別の観点に立って考察すべきものです。これが史料考察の基本では無 いでしょうか? ジンギスカンの縁族・姻族にとって、彼との繋がりを示す族譜は、富と 権力に直結するものですから、些かも軽視出来ないものでしょう。それ が簡単に捏造出来ると考えるのは、余りにも無理があるとは思われませ んか? こう言う議論に対し、すぐに出てくるのは「養子論」です。この場合は 「義経」はイェスゲイバアトル=ホエルンの養子になったので、義兄弟 姉妹関係は事実だとするものです。しかしこれは本末転倒でしょう・・ 実子である事が明確に否定出来ない限り、養子概念を安易に持ちこむべ きものでは無いと思います。 さて、Awajiはここでジンギスカン=平知盛論について申し上げます。 @「平」は「八干」と書き、「汗」は「三干」と書きます。これは「汗」 が「平」から「五干」を除いたことを意味するのですが、「五干」は 即ち「五感」=人間的感情なのです。  つまり、平知盛は一切の人間的感情を投げ捨て、「平」を棄て「平( 安)」を破壊し、暴乱に活きることを「汗」の1字に示したのです。 A「汗」は「カン」と読みます。「干」は「干戈」と言う言葉が示すと おり、「武」です。従って「汗」は「カン武」と読むことが出来ます。 つまり「桓武平氏」を意味していることは、明らかです。 B「平氏」の中心人物は「○盛」という名乗りを持っています。平知盛 はその誇りを示すために、「成吉思」の冒頭に「成」を掲げたのです。  「吉思(よくおもう)」が「知」である事は言うまでもありません。  つまり「成吉思」は「知盛」そのものなのです。 C「成」には「平(らげる)」と言う意味があります。冒頭に「成」を掲  げたのは、当然ながら「平(氏)」の意味を含ませたものでもあります。 D1189年4月「義経」が奥州から脱出したとしても、弁慶はじめ股肱の臣 を失った「流人」に過ぎません、一方「知盛」は再起を期して1185年3 月「壇ノ浦」から船団とともに脱出したので、沿海州を席捲し内陸部に  達しうる兵力を有していました。 (個人的戦闘力において「知盛」が勝っていた事もご存知のとおりです。) E彼の名「知盛=TOMOMORI」はO 母音が重なり、モンゴル人には発音が 困難でした。そこで彼は「TOMO」を活かし、モンゴル風に「TOMOーJIN」 と名乗りました。これが訛ったのが「TEMUーJIN」となったのです。 F彼は、大陸において1185年〜1187年にイェスゲイバアトル=ホエルンの 養子となって、1188年タイチュウト部を降し、1189年 クリルタイにお いて草原の王者「カーン」となったのです。  (1189年4月以降に国外に逃れた「義経」よりも、1185年3月に戦線を離 脱した知盛に、時間的に妥当性があるのも、ご納得頂けると思います。) Gそして、「成吉思 汗」と名乗り、祖国に向かって「桓武」の末裔「平 知盛」ここにあり・・と大声で叫んだのです。 さて・・・こう言う即興の言語操作(ジョーク)は、お気に召さないでし ょうか???  「サンズイ」を振り分けて「ギ」にしたり、「干=十」「十三=経」にし たり、「求む」を「原む」にするより、少しはましだと思いますが?? Time : 2000/ 3/ 7(火) 22:32:46
Name : きんたろう2001 E-mail : Title : まさに天才とはスタンダードを作る者 Comments: なのである。 こんんばんは、みなさん。^^ 今週号のポストの逆説の日本史の中でこの言葉が使われています。 心の中でエコーが掛かったような感じです。(いい言葉や、笑) 思わず書き込みをしてしまいました。^^;; Time : 2000/ 3/ 7(火) 23:17:36
Name : 西孝二郎 E-mail : Title : 最後にもう一回、ジンギスカン。 Comments: こないだも書きましたが、私がジンギスカン=義経を主張しているのは 名前の解読結果だけに頼っているのではなく、これはほんの些細な傍証に過ぎないものです。 私は「元朝秘史」を最初から最後まで徹底的に解読し、ジンギスカンだけでなく そこに登場してくるほとんど全ての重要人物について細かく論じているのですから、 私がこういう場でも簡単に述べられるものと考えて提出したに過ぎない名前の解読だけを あなたが躍起になって馬鹿にしたり否定したりしようと実は全然痛くも痒くもなく、ただ笑えるだけなのです。 この名の解読は私にとって『歩』の駒みたいなものですね。 また、「元朝秘史」全体の解読をしたと言っているのですから、 当然私はそれの神話的部分にも明快な解釈を下しています。 しかし、もちろんこんな場所で論じるほど簡単なものではありません。 ジンギスカンの祖先に関する記述や全半生の記述をそのまま信じるわけに行かないというのには、 また、別の理由があります。 それは、「元史」「集史」「元朝秘史」というモンゴル史の三大史料の話が全く食い違っていることで、 これによってジンギスカンの前半生は今もって謎のままであり、確かな史実だといえるのは ジンギスカンが40歳ぐらいのときに行った西夏征討あたりからに過ぎないということです。 よくジンギスカンの生涯についてはすでにはっきりしたことが分かっていて、 それ以上穿った見方をするのを無意味のように考える人もいますが、実際には まだまるで分かってはいないのです。 今日はちょっと疲れているので大体こんなところで終わりです。 また、あまり有益な議論でもないような気がするのでたぶんもうやめます。 そいじゃおやすみなさい。 Time : 2000/ 3/ 7(火) 23:29:53
Name : 大阪JF生 E-mail : Title : お久です。また、お邪魔します。 Comments:  皆様本当にお久しぶりです。 あまりの長期休暇で、すっかり過去の人化していました。 時々このHPをチェックはしていたのですが、意見を述べる余裕が まったくありませんでした。さらに、意見を書きこまないでいると、 億劫になって、ずっと無口になっていたのですが、 きんたろう様の書きこみに勇気付けられて、 (小生の方はホントくだらない個人的感傷なのですが) 一言述べてみます。  ポストの記事で、きんたろう様が引用された語句も良かったのですが、 井沢先生がこのHPの事を取り上げられていたので、小生は心動かされました。 非常に初期の事で、記憶されている方も少ないかもしれませんが、 しばらく投稿されていた女医さん(名前はゆみこ様だったような・・) の「医者の穢れ」についてのご意見でした。 また、このHPでの意見が取り上げられる事を楽しみにしています。 Time : 2000/ 3/ 8(水) 10:33:45
Name : ina E-mail : Title : ohisasiburi Comments: 大阪JF生さん、お久しぶりです。またよろしくお願いします。 Time : 2000/ 3/ 8(水) 14:54:02
Name : きんたろう E-mail : Title : おひさしぶりですね^^ Comments: こんばんは、大阪JF生さん。久しぶりですね。^^ inaさん、いよいよ今年ですね!! 大阪JF生さんも書かれていますが私もここのところずっと抜け殻状態(笑)が 続いていました。 このような状態と比べるとAwajiさんのスタミナには驚かされています。 まるで尽きることのない究極のエネルギー(^^)をその体に秘めているのでは ないかとさえ思ってしまいそうです。 まるで人間機関車と言われたザトペックを彷彿とさせるようなイメージがあります。 (勝手なイメージです、すみません) 四海を海で囲まれた、つまり空間的限界がはっきり分かる世界である日本という 島国社会で生きる者の知恵として農耕が選ばれたのではないかと思っています。 例えば人間が肉食をするために動物を飼育する場合には飼育にかかる穀物の量は 食糧として得られる動物の肉の何倍も必要になります。 これでは制限された空間に住んでいる者にとって効率のいいのではありません。 そのため農耕民族としてより進化??していったのが私たちの先祖なのではないで しょうか?? 「医者の穢れ」についてから脈絡もなく連想してしまいました。^^ Time : 2000/ 3/ 8(水) 22:19:09
Name : Awaji E-mail : Title : 救世観音と「讖緯説再掲」?? Comments: きんたろうさん、大阪JF生さん、おひさしぶりです。Awajiです。 (今日は、代休です) ・・・きんたろうさんのHPに関するスタミナこそ凄いです! (時々覗かせて頂いています。) Aさんもお元気のようですね・・・ところで、最近「讖緯説」につい ての話題が出ていましたが・・・ >>確か,易で言う全てが始まる年です。甲子の親玉みたいな感じだと >>思います。 と言うのは誤解です。この問題については、1999/ 6/18に「讖緯説」 で解説していますので、機会があればAさんにお伝え下さい。 要するに「絶対年期」ではなく「周期」の問題なのです。 ・・・以下に一部再掲します。 ****************************** 中国で漢代〜六朝に道教(五行説)と習合して盛行したもので、戦国期の 時令説・天人感応説等とも関係したものですが、隋の煬帝により禁圧・焚 書され、その後は衰微しました。 干支60年のうち、革運は戊辰・革命は辛酉・革令は甲子に起こることを予 言しています。(一種の政変周期説です) 日本においては、三善清行の「革命勘文」による紹介が良く知られており、 「延喜」年号等は、この説により改元されたものです。 近代では、那珂通世の研究が著名です。 「日本書紀」との関係では、神武即位「B.C.660年」を算定したのは、こ の「讖緯説」によるものとされています。 即ち、大変革は「1蔀」周期で起こるとされているので、この周期を適用 したと考えられているのです。 ただ、この周期が21元か22元かと言う点では以下のとおり見解が分かれて います。 三善清行「革命勘文」1元=60年 1蔀=21元(21*60=1260)? 三善清行・・・・・・1元1蔀=22元(22*60=1320)? 那珂通世・・・・・・1蔀=21元(21*60=1260) これを「書紀」制定当時に当てはめると、次の関係が生じます。 革運・・・戊辰 688 608 548 488 428 ・・・・・-653 革命・・・辛酉 721 661 601 541 481 ・・・・・-600 -660 革令・・・甲子 724 664 604 544 484 ・・・・・-597 541年・・・欽明2 任那復興 544年・・・欽明4 601年・・・推古9 聖徳太子斑鳩宮 604年・・・推古12 十七条憲法制定 661年・・・斉明7 斉明崩御 664年・・・天智3 冠位二十六階制定 そこで、 1260年説であれば・・・601年推古9 聖徳太子斑鳩宮 1320年説であれば・・・661年斉明7 斉明崩御(百済滅亡の翌年??) を神武即位算定の起点にしたのでは無いかと、考えられているのです。 しかし、Awajiの見解は少し違っています。(以下妄想オマケ) ・・・・・ ****************************** Time : 2000/ 3/ 9(木) 09:49:00
Name : きんたろう E-mail : Title : 72年!! Comments: こんばんは、Awajiさん、皆さん。 西暦紀元前660年が紀元にされた理由についての説明をありがとうございました。^^ 私は中国の春秋戦国時代に何かヒントがあるのではないかと思っていました。 東周の遷都が770年ですからこれこの110年前になりますよね。 讖緯説については実はほとんど何も知らなかった(名前くらい)のですがお陰様で よく分かりました。 さらにその詳細となるとなかなか奥が深いものなのだと思います。 ところで、2003年3月には私の住んでいる近所で金砂神社の第17回目の 大祭礼が行われます。 これは任寿元年(851)に第一回目が開かれていますから実に1100年以上の 伝統を持つ有数の行事なのです。 何故それだけの長い伝統を持ちながらまだ16回しか行われなかったのかと言えば、 何と72年に一度というもの凄く長い(ちょっと信じられない、笑)周期で開かれ るものだからなのです。ハレー彗星みたいですね。笑 ですから普通は一生に一度しか(運が良ければ二度??)見ることは出来ないという 極めてレアな行事です。^^;; 皆さんも2003年には是非ご覧になってはいかがでしょうか?? 開催される周期が72年に一度である理由についてですが、実ははっきりとは分かって いないようです。 でもこの讖緯説が深く関わっているような気がして来ました。^^(個人的意見です、笑) ちなみに金砂神社とは東金砂神社と西金砂神社の総称になります。 この二つの神社はともに大同元年(806)天台沙門宝珠上人が近江の国比叡山 日吉権現を勘請したものです。 下記のアドレスは大祭礼について詳しく書かれている方のページです。^^ http://www.net-ibaraki.ne.jp/o-isaka/ Time : 2000/ 3/ 9(木) 18:31:49
Name : Awaji E-mail : Title : 救世観音と「藤原道長の遺体」?? Comments: みなさん、今日は。Awajiです。 今日、出張の新幹線の中で、「逆説の日本史」第42話を読んだのですが、 チョット驚くべき記述を見ました・・・以下 「平安時代の中頃は、あの大権力者藤原道長ですら、いったん『死体』 となると『死穢の汚染物』として山の中に捨てられていた」 Awajiの記憶では、宇治陵域内(藤原基経により藤原一門の墓域と定め られ、道長は一門菩提寺として『浄妙寺』を建立)と推定されていたと 思うのですが、「山中に捨てられた」と言うのは、一体如何なる根拠に 基づいておられるのでしょうか? そもそも、十二月七日夜、勅使差遣の内に鳥辺野で荼毘にふされ、藤原 章信の首にかけられて木幡(宇治陵域)に向かった遺骨が、山中に捨て られたのでしょうか? 勿論、四十九日の間盛大な法事が営まれたことも明らかなのですが、死 体を山中で野犬や烏に食い散らすに任せながらの法事だったとのでしょ うか? 何とも理解し難い記述なのですが、みなさんはどの様にお考えでしょう か? また、以下の部分・・・ 「名前に『阿弥』をつけるのは時宗の信者(時衆)の習慣である・・・ しかし、観阿弥・世阿弥父子が時宗の信者だという証拠はないし、・・ 『僧に準じた』と考えればいいだろう。」 この部分も理解し難いのですが、そもそも名前に『阿弥(陀仏)』をつ け始めたのは、俊乗房重源(1121〜1206)の筈です。 東大寺再建に関して、彼を庇護した関白「九条兼実」は、重源を賞賛し ていますが、この件についたは流石に批判的な意見を日記に記述してい ますし、東大寺過去帳にも当時の人物として、「御堂修理材木施入専阿 弥陀仏」等の「XX阿弥陀仏」の名前が多く残されています。 勿論、僧尼と思われる人物が多いのですが、優婆塞の可能性もあります。 慶派の快慶が「安阿弥(陀仏)」と称したことも、あまりにも有名な事 実です。 つまり、時宗開祖の一遍(1274年より布教開始)より約半世紀前に、こ の習慣が始まっているのですから、大和出身の観阿弥父子にとって、時 宗とは関係なく名乗り得たのでは無いでしょうか? 勿論「観世」と言う名前自体が「観世音菩薩」に関係していますし、「 能楽」の基となる「猿楽」は寺社の宗教演芸に由来していますから、彼 等が一種の「宗教人」であったことは、誰しも認めるところですが・・・ Awajiには井沢さんの「宗教史」に関する認識がマスマス分からなくなり ました。 Time : 2000/ 3/11(土) 00:16:11
Name : 大阪JF生 E-mail : Title : Awaji様、質問ばかりになってしまいました・・ Comments:  皆様おはようございます。 復帰に関し、暖かいお言葉の数々ありがとうございました。  Awaji様、ご無沙汰しておりましたが、 今回の記事、いつも以上に興味深く拝見させていただきました。 まったく知識のない部分ですので、解説頂き非常にありがたいです。 そこで、2、3質問をお許し願います。 >宇治陵域内(中略)と推定されていたと・・ というのは、道長の墓のことでしょうか? またその領域は、「山の中」なのでしょうか? まったく地理的感覚も乏しいので、詳しく述べて頂けたら幸甚です。  また、俊乗房重源が阿弥陀を名乗りはじめたのは、なぜでしょうか? さらに、九条兼実がどのように批判したかにも興味はありますが、 当代一流の方がそう言われているにもかかわららず、 なぜこの風習がやまなかったのでしょうか? 二条良基らは、なぜこの名前に批判的ではなかったのでしょうか? ・・・  すみません、また質問魔になってしまいました。義満は他の猿学者、たとえば、 近江猿楽の犬王もごひいきだったと聞きますが、このひとも「道阿弥」という 別名をもっていたと聞きます。この辺の事情よくわからないので、つい質問を 連発してしまいました。適度に neglect して頂いてかまいませんが、 ご存知の事が有りましたら、ご教示ください。 Time : 2000/ 3/12(日) 08:59:54
Name : Awaji E-mail : Title : 救世観音と「死穢思想」?? Comments: 大阪JF生さん、みなさん、今日は。Awajiです。 ご質問に関し不充分ながら・・・以下。 *「宇治陵域内」について・・・ 宇治市北部の「木幡」にあり、「御倉山」とも言われていますが、山中と いうより低い丘陵地帯です。 この地帯には、5〜6世紀の古墳が点在していますが、藤原基経(836〜891) がこの一帯を一門の墓所と定めたことにより、以降摂関クラスや入内した 藤原家の女性達の墓所となっています。(ただ、道長を含め個々に誰の墓 と言う特定は、なされていません。) 1005年には藤原道長が菩提所として木幡三昧堂(浄妙寺)を建立していま すが、後に藤原師実・藤原(松殿)基房等の別業地(別荘)ともなってい ます。 藤原氏の墓域一帯は、近代に陵墓地(宇治陵域)に指定され、宮内庁の管 理下にあるため科学的調査はなされていません(と思います)。 なお当時の貴族にとっては、墓所よりも菩提寺を重視していたと、思われ ますが、道長は「法成寺」という壮大な寺院を築いていますので、墓所自 体はそれ程意識されていなかったのでは無いでしょうか? 「重源」について・・・ 重源は、本来は醍醐寺(真言宗)系の勧進聖ですが、法然房源空とも親交 があり、浄土門に帰依していました。彼は東大寺総勧進職大和尚として、 東大寺再建を成し遂げましたが、晩年において「南無阿弥陀仏」と名乗り、 その風習を広めています。 九条兼実の実弟である天台座主「慈円」は、これについて「はては法然が 弟子とて、かかる事ともしいてたる、誠に仏法の滅亡相うたかひなし」と 非難していますが、既に仏教界の長老として独自の地位を築き、貴賎聖俗 から尊敬されていましたので、それ以上の問題とはならず、むしろ彼の名 声とともに広まったのでは無いかと思います。 彼が敢えて「阿弥陀仏」と名乗った理由は分かりませんが、「我・弥陀共 にあり」という境地によるものでは無いでしょうか? 二条良基については良くわかりません。 ところで、井沢さんが週刊誌で述べておられる「『死穢の汚染物』として 山の中に捨てられ・・」云々は、おそらく既に何れかの部分で述べられて いる様に感じるのですが、どの様な根拠を示しておられるのでしょうか? 平安期の日本人の「死=葬祭」思想を論じるに当って、極めて重大な問題 だと思いますので、ご存知であればご教示願います。 (Awajiには全く信じられない思想であり、その様な事実が立証されている とは考えられないのですが・・・) Time : 2000/ 3/12(日) 12:11:55
Name : Awaji E-mail : Title : 救世観音と「仮面劇」?? Comments: 大阪JF生さん、みなさん、今日は。Awajiです。 引き続き「逆説の日本史」第42話に関してですが・・・ 「歌舞伎にしても、この延長線上にある。最大の違いは、歌舞伎に出て くる小野小町は歴史上の有名人であっても、亡霊ではないということだ。 だから、役者はそれに扮するのに化粧はするが面などはつけない。」 これはチョットおかしいのでは無いでしょうか? 例えば「船弁慶」は、能狂言から河竹黙阿弥が歌舞伎に再編したもので 、明らかに「平知盛」の怨霊を題材にしていますが、仮面はつけていま せんし、その他にも亡霊を扱った演目はありますが、基本的に仮面はつ けていなかったと思います。 従って、小野小町を亡霊として扱っていないから、面をつけないのでは なく、亡霊であろうと無かろうと、演劇様式として面をつけないと考え るべきものです。 つまりは、歌舞伎に関していえば、亡霊憑依の危険性を仮面で防止する との考え方自体が認められないと思うのですが・・・? さらに翻ってみれば、能においても本当にその様な考え方があったので しょうか? 単に生身の人間とは異質の物(神・仙人・精霊・亡霊等) を表現する手段として、伎楽以来の伝統に従って仮面をつけたと考える べきでは無いでしょうか? (そもそも、仮面劇そのものが本来の人格とは別の人格を表現する手段 とし仮面を用いたことから出発したものです。従って別人格を表現する 手段として、仮面を用いなくなっても、別霊格を表現する手段としては 依然として仮面が用いられた・・・歌舞伎においては、別霊格を表現す る手段としても仮面が用いられなくなった・・・と考えるのが、最も自 然では無いでしょうか?) Time : 2000/ 3/12(日) 21:16:25
Name : 大阪JF生 E-mail : Title : Awaji様、お返事ありがとうございました。 Comments:  いつもながら、丁寧にご回答頂き、ありがとうございます。 尋ねる方は気楽ですが、お答え頂くのは大変だと思います。 恐縮しながらも、つい甘えてしまってすみません。  道長の方は、大まかにイメージできました。 丘陵地帯なら、「山」はいいすぎかもしれませんね。  また、重源という人物、その後の受け入れ状況もよく分かりました。 その様子では、二条良基もおそらく批判的ではなかったと推察されます。  また、ご指摘のように井沢先生は、ほかのところでも 「山の中に捨てられ・・」云々・・の話はされていたように思います。 調べてみたのですが、残念ですが今のところ見つかっていません。 このあたりの事情をまとめて述べてあるのは、逆説の日本史では、  第3巻 第2章  桓武天皇と平安京編  第4巻 第6章  武士はなぜ生まれたのか編 だと思うのですが、見当たりませんでした。ただ、ここで述べてあるように、    ケガレ意識の芽生え        ↓   桓武の正規軍・死刑廃止        ↓   (平安時代の一定度安定(?)した時代)        ↓   ケガレ意識・「貴族」意識の確立 ・・・→ 部落差別発生        ↓         ・・・→ (自衛隊等)軍備への忌避      武士の発生 という流れを井沢先生は主張しておられ、同様の文脈で 道長のことも例に挙げられていたように思います。 (不確かな記憶で、全く井沢ファンとしては失格ですね。) この中では、意識の変化として、 (歴史・文学にも疎いので、出典が分からないのですが)   宮中に鳥の死骸が見つかっただけで大騒ぎ という例示をされていました。 たとえ身内といえども「血塗られた歴史」があったのに、大違いですね。 そこで、道長の件は  「現在と違って、死者をホトケ様とは言いがたい扱いをしていた」 という主張に修正すれば、いかがなものでしょうか。 表現が正確さを欠くという点を割り引いて、この様に捉えても、 なお歴史認識としては無価値なのでしょうか・・。  なお、歌舞伎にも疎いので、仮面の事はよく分かりませんが、 小町はネガティブな例で、井沢先生の主張は   「面をつける事で、亡霊を表現した」 の方ですので、余りAwaji様レベルの方がこだわるほど重要な例示では ないように思います。確かに好例ではありませんが・・。 Time : 2000/ 3/13(月) 09:54:10
Name : 大阪JF生 E-mail : Title : 再び、「倭」 Comments:  全く関連のない話なのですが、ある本を見ていて 引っかかった事について、皆様にお尋ねします。 (実際はAwaji様宛の質問になりそうなのですが、 あまりにお一人ばかりに負担をおかけするのは気が引けて・・ でも聞きたいけれど・・うーむ ambivalent !)  倭について、以前話題になりましたが、 (そのときに既に論じ終わっていたら申し訳ありません)   中国の「燕」(B.C.3C.頃)の南の方に「倭」という属国があった という記述が「山海経」の「蓋」の記述に出てくるということが、   司馬遼太郎・陳舜臣・金達寿「歴史の交差路にて」講談社文庫 に載っていました。この本では同名異国として述べられていますが、 本当に何の関連もないのでしょうか? 解釈としては、  全くの誤記  実際に同名異国で無関連  倭のルーツ  倭の親戚 等、いろいろ有ると思うのですが、以前論争を呼んだAnon様は、この国と 日本の倭を混同されて議論しておられたのではないでしょうか? 当時は出典がよく分からず、議論がかみ合わずに残念だったという記憶のみ 残っています。 興味をお持ちだった方、ご存知の方はご意見頂けませんでしょうか。 Time : 2000/ 3/13(月) 10:25:09
Name : 輔住 E-mail : Title : よく分らないですが、 Comments: お久し振りです。大阪JF生さん! >この本では同名異国として述べられていますが、 >本当に何の関連もないのでしょうか? どうなんでしょうね?邪馬台国論争でも明らかなように どこか間違っている所があるのは確かだが どうすれば正しい記述になるかは?という感じですねえ。 ただ、「倭」にしてもこっちが名乗ったというより 中国側の当て字という可能性が高いと思います。 となると別の国に同じ字を当てたというのは 考えにくいです。 万が一2つ同じ国の名前があったとしてもややこしいので 中国の方での呼び名は「南倭」「東倭」などと国号の前に 方向などをつける気がします。 Time : 2000/ 3/13(月) 16:58:57
Name : Awaji E-mail : Title : 救世観音と「倭記事等」?? Comments: 大阪JF生さん、輔住さん、みなさん。今日は。Awajiです。 「山海経」については、みなさんのコメントを参考にさせて頂きます。 (なお、ご参考までに、中国書籍に見られる「倭(?)」関連記事。を 掲載します。・・・( )は記述の時期です。) 「礼記」(周代?)・・東方、夷と曰う。被髪文身、火食せざる者あり。 「尚書」(周代?)・・島夷、皮服す。 「論衡」(後漢初)・・(周)成王の時(B.C.1115〜1079)、越裳雉を献じ、 倭人暢草を貢す。 「山海経」(戦国?)・・ 蓋国は鉅燕の南、倭の北に在り。倭は燕に属す。 *蓋国が朝鮮北部であれば、倭は朝鮮南部から日 本列島を意味していることになります。 「漢書」(後漢初)・・然東夷天性柔順、異於三方之外、故孔子悼道不行 設浮於海、欲居九夷、有以也夫。 樂浪海中有倭人、分爲百餘國、以歳時来獻見云 。 (地理志) 「後漢書」(5世紀)・・倭在韓東南大海中依山島爲居凡百餘國自武帝滅朝 鮮(B.C.108)使驛通於漢者三十許國。 建武中元二年(57)倭奴國奉貢朝賀使人自稱大夫倭 國之極南界也光武賜以印綬。 安帝永初元年(107)倭國王帥升等獻生口百六十人 願請見。 「三国志」(3世紀)・・魏志東夷伝倭人条(邪馬台国記事) 魏志鮮卑伝・・壇石槐(117年頃)聞倭人善網捕、 於是東撃倭人國、得千餘家、徙置秦水上、令捕 魚以助糧食。(倭は汗の誤写とも・・・) ところで、「道長遺体問題」ですが・・・ >>「現在と違って、死者をホトケ様とは言いがたい扱いをしていた」 >>という主張に修正すれば、いかがなものでしょうか。表現が正確さ >>を欠くという点を割り引いて、この様に捉えても、なお歴史認識と >>しては無価値なのでしょうか・・。 仏教思想と固有思想との妥協的関係において、各時代で霊魂や遺体を どのように位置付け、葬祭(墓制)儀礼をどのように解釈するかと言 う問題に係るものでしょうね。(これを論じると長くなりますので、 差し控えておきますが・・・) いずれにしても、「道長の遺体が山中に棄てられた」というような良 く分からない事実認識に立って、当時の「死穢」思想を論じるのは、 いささか見当はずれである様に思います。 「仮面演劇問題」については・・・ >>井沢先生の主張は「面をつける事で、亡霊を表現した」・・・ のであれば、単なる表現形式の問題ですから特段申しあげることも無い のですが、井沢さんの論点は・・・ 「能においては、面をつけることで、亡霊の憑依を避け、演劇化に成功 した・・・これは観阿弥の天才的発想である・・・」 とされ、その対極として歌舞伎において・・・ 「亡霊では無い歴史上の人物としての『小野小町』は素面である」 と主張しておられるので、それはチョットおかしいのでは・・・と申し 上げたものです。 Time : 2000/ 3/13(月) 23:21:14
Name : 大阪JF生 E-mail : Title : 輔住様、コメントありがとうございます。 Comments:  ご意見ありがとうございました。 貧乏暇なしで、ご無沙汰しておりました。 またちょくちょくお邪魔します。  実は小生も同様に感じましたので、 さらりと「同名異国」で処理された事に不満でした。 といいますのは、すぐ次の話で、司馬氏は  中国内陸部では一字の国名が普通だが、  周辺国家は二字が普通 という事を述べておられるからです。 ただし、「明らかな蔑称を除く」として、 倭の場合はこれにあたるという事で、一応筋を 通してあるのですが、いまいち納得できませんでした。 「韓」にしても、馬韓・弁韓・辰韓というように 中国側の記述では区別していたのですから、 輔住様のご意見は至極ごもっともなのです。 同じように感じる方がいて安心しました。 Time : 2000/ 3/14(火) 09:36:47
Name : 大阪JF生 E-mail : Title : Awaji様、解説ありがとうございます。 Comments:  山海経周辺の記述について、まとめていただき、大変感謝しております。 こういう基本的な知識も、我々素人にとってはなかなか得がたいもので、 非常に参考になります。 > 仏教思想と固有思想との妥協的関係において、・・ の問題はかなり重たそうな印象を受けますが、 Awaji様の余裕のあるときにじっくり解説頂ければ ありがたく存じます。単なる読者になりそうですが・・。  道長や仮面の問題についてのお立場は、理解しているつもり(?)です。 井沢先生の癖だと思うのですが、悪く言えば、都合の良い例ばかりを 余り検証せずによく引かれるところが確かに有ると思います。 それは、KANAK様との議論でもたびたび出ていたと思います。 我々ファンは「クロッキーだから、多少乱暴でも・・」というように 甘い採点をついしてしまう、あるいは井沢マジックにころりと 引っかかってしまうというような面があります。 Awaji様としては、もう少しフェア−な立場で、   「たとえ反対者でも認めざるを得ない確実性の有る例示」 を要求され、そういうスタンスで警告されておられるのだと理解しています。 したがって、ご指摘は余り意味がないというつもりは全くありませんし、 むしろ「ああそうなのか」とマジックからさめる思いで受け止めさせて 頂いております。 ただ、あまり引きずると「批判のための批判ではないか」という あらぬ誤解をAwaji様が受けそうなので、前回の最後のような発言に なりましたことをご了承願います。  実は、Awaji様がポスト連載の記事について発言されたのは 記憶が新鮮で、real time な「学習」効果があり、個人的には うれしく思っていました。(今週号では仮面の問題について 日韓の比較を試みられています。) また、(毎週はたいへんですので)機会がありましたら連載記事に ついてのご意見も伺えたら幸いです。 Time : 2000/ 3/14(火) 10:07:23
Name : 輔住 E-mail : Title : ありがとうございます Comments: Awajiさんへ 「山海経」について、開設ありがとうございます。 いつものことながら頭が下がります。 大阪JF生さんへ >悪く言えば、都合の良い例ばかりを >余り検証せずによく引かれるところが確かに有ると思います。 確かに、そういう部分もありますね。 「間人」などの個所もそうでしたね。 いつか「逆説の日本史」の訂正部分などを井沢先生が出してくれると ありがたいですね。 Time : 2000/ 3/14(火) 17:01:55
Name : TAKATOKU E-mail : Title : 引用間違い?? Comments: 輔住さん、どうもです。 > Hozumi-san wrote (3/7): > 1.私は引用方法が間違っていると思う。 おやおや。(苦笑) KANAK氏の同じ文面を読んで、『国史大辞典』と整合している か、矛盾しているかという議論です。引用が正しいとか、間違いと いうことではなくて、単に感性の問題では? > 2.あなたの意見の内容がよく分らない。 そりゃそうでしょ。私は輔住さんの感性が全く分からないのですか ら。お互い様です。(笑) そこで妥協?案として、『国史大辞典』とKANAK氏の意見が矛 盾しているという、輔住さんの主張を尊重して、ご自由にどうぞ! と述べています。どこが不満なのでしょうか? > ただKANAKさんがこの意見に同意してるなんて、 > 一言も私は言ってないですよ。 不同意ならば、私と意見が一致しますね。。 何が言いたいのでしょうか? > その頃から子孫断絶よりも殺されたりした > 本人の恨みの方が強いと思っています。 現在の文脈では、強い弱いの話ではありませんね。 それから、前回の発言では『国史大辞典』を部分否定していました が、肯定に変更したのでしょうか? 肯定ならば論点は消滅です。 > 「KANAKさんは『国史大辞典』の内容を信じて疑わない人」と > 思っているように受取れたのです。 それは誤解です。「怨霊」に関して、KANAK氏の意見と『国史 大辞典』は矛盾していなかった、と述べただけです。 Time : 2000/ 3/16(木) 18:20:08
Name : まいご E-mail : Title : 結局 Comments: TAKATOKUさんが、もっと意味の解りやすい文章をかけばいいだけだ とおもうんだが?? みなさんはどう思いますか? Time : 2000/ 3/16(木) 22:41:34
Name : 輔住 E-mail : Title : TAKATOKUさんへ Comments: TAKATOKUさん、返信ありがとうございます。 >> 「KANAKさんは『国史大辞典』の内容を信じて疑わない人」と >> 思っているように受取れたのです。 >それは誤解です。「怨霊」に関して、KANAK氏の意見と『国史 >大辞典』は矛盾していなかった、と述べただけです。 それは申し訳なかったです。 ただ文脈からそのように受取れましたし、太子怨霊説を否定している KANAKさんがまるで逆の立場のようにいっているとも 受取れました。 >現在の文脈では、強い弱いの話ではありませんね。 私もそんな話をするつもりではありませんでしたが TAKATOKUさんが下記のように質問してきたから 私の怨霊信仰に対する考えを述べただけです。 >「自分さえよければ子孫は皆殺しされても何 >も思いません」ということですか。しかも、この輔住さんの意見に >KANAK氏も同意している、と言いたいのですか? これで「強い弱いの話ではありませんね。」と言われても困りますね。 何の意見も言えなくなりますよ。 >それから、前回の発言では『国史大辞典』を部分否定していました >が、肯定に変更したのでしょうか?  以前話した通り、私は『国史大辞典』のような性格の本の 部分否定は大抵の人にあると思っています。 だから代わってません。また『国史大辞典』自体を 直接よんだわけではないので。(何かの本や投稿の引用ぐらい) Time : 2000/ 3/17(金) 11:53:17
Name : Awaji E-mail : Title : 救世観音と「観阿弥の死」?? Comments: 大阪JF生さん、みなさん、今日は。Awajiです。 今日・・・出張帰りの新幹線で「第42話」を読みました。 特段の話はありませんが、以下・・・・チョットした感想です。 「観阿弥」と楠木正成の関係ですが、Awajiは事実であった可能性が高 いのでは・・・と思っています。 それは、足利将軍家(義満)が「観阿弥」を贔屓にしたのは、彼の天才 を愛でただけでは無く、「観阿弥」が楠木一族に繋がるものであった故 と想像することが出来るからです。 まず、観阿弥の生母が正成の妹であったとしても、彼の生家である上嶋 家が南朝方とは限りません。一族が南北に分かれた例は幾らでも在りま すし、もともと姻族は一族ではありませんから。 しかし、上嶋家がどちらに属しようが、足利家にとって最大の敵であっ た楠木正成の甥を、自己のお側衆とするのは、政治的に大きな意味があ ります。 仮に、楠木家の全盛期において、上嶋家がその幕下に在ったならば、マ スマス「観阿弥」の利用価値は高くなりますね。つまり正成の甥でさえ 南朝を見限り、義満に仕える役者になったのですから、彼の権勢を天下 に示すことに成るからです。 (性格・程度は異なりますが、織田有楽斎が秀吉に仕えたことで、秀吉 が天下人であることを誇示するようなものです。) 杉本さんは・・・ 「楠木の血を濃く受けついだ危険な親子を、なぜ三代将軍があれほど寵 愛するのかと、日頃苦々しく思っていたところへ、無防備に観阿弥一座 が領内に入ってきた。そこで入道が観阿弥を殺害、しかし入道も観阿弥 の仲間に殺されてしまったというフィクションを組み立てた」 そうですが、これは逆でしょうね。仮に入道が観阿弥を殺したならば、 義満は黙ってはいなかったでしょう。 寧ろ、南朝の残党が将軍のみならず、今川入道にまで媚びを売る観阿弥 の裏切りを誅し、入道もそれに巻き込まれた・・・将軍・今川家は、こ れが公になると世情不安と将軍家の権威失墜になるので、これを伏せた ・・・と言うフィクションの方がマコトシヤカだと思いますね。 なお、観世元雅(〜1432年)の客死に関してですが、この当時の北畠家 は南朝方ではありません。伊勢国司であった北畠満雅が南北合体の違約 を不満とし小倉宮を奉じて挙兵・敗死(1428年)以降は北朝方(と言う より合体方?)となり、その子北畠教具(六代将軍義教の諱名を受ける) は、後に伊勢国司兼従二位権大納言になり、応仁の乱では足利義視を保 護しています。 また観世元雅は、義教に疎まれ演能を禁じられて、大和越智氏(高取) の元に仮寓していた折りに、天川弁財天に復職祈願を行ったと伝えられ ており、当時の天川弁財天を南朝方(敵方の神社であり、元雅は決して 足を踏み入れてはならない場所の筈・・・)と考えるのは、チョット無 理があると思います。(越智氏は義教と不仲であり、これを頼ったのが 不味かったとは思いますが・・・・時代の主軸は南北朝の対立というよ り、室町幕府内の対立に移っていたと見るべきでしょう。) Time : 2000/ 3/18(土) 23:01:50
Name : Mura E-mail : muragishi@mug.biglobe.ne.jp Title : はじめてカキコします Comments: はじめまして。「逆説の日本史」読んでる者です。 卑弥呼の章(1巻)で、「なるほど、こんな考え方もあるんだな」というのが 第1印象です。 で、皆既日食が政変のきっかけとするのであれば、その皆既日食に遭遇できる 地域を調べれば、邪馬台の所在に更に1歩踏み込めたのに、と思いました。 Time : 2000/ 3/21(火) 13:53:37
Name : 輔住 E-mail : Title : 観阿弥(およびその一族)南朝スパイへの疑問 Comments: Awajiさん、「観阿弥の死」??を読ませてもらいました。 確かに楠木正成と血のつながりがあったからといって 南朝方とは限らないですね。 井沢先生自身もこの時代は身内が敵味方に分かれることは多いと おっしゃってましたね。 私は観阿弥(およびその一族)がそのスパイだったかどうかは よくわかりません。 井沢先生は「スパイだった」とおっしゃってますが 「断定」するには、少し根拠が弱いと思っています。 また「天皇になろうと将軍」によると義満暗殺実行犯は世阿弥です。 その可能性はあると思いますが、黒幕は北朝の摂関家としています。 だとすると暗殺理由として「南朝スパイ」は関係ない気がします。 Time : 2000/ 3/21(火) 16:59:13
Name : Awaji E-mail : Title : 救世観音と「義満暗殺説」?? Comments: 輔住さん、みなさん、今日は。Awajiです。コメントありがとうございま した。 >>また「天皇になろうと将軍」によると義満暗殺実行犯は世阿弥です。 >>その可能性はあると思いますが、黒幕は北朝の摂関家としています。 ああ・・・そうなのですか。 これはチョット無理がありますね。世阿弥には動機の点で必然性があり ませんし、摂関家としても通謀の危険を犯して、敢えて彼に暗殺実行を 持ちかけるとは想像出来ません。 (義満無き後は、義持・義教に疎まれ凋落の一途ですしね・・・) 庇護者無き暗殺者が、配流の地から無事に帰京し、81才の天寿を全うす るとも思えません・・・当然消されてしまうでしょう。 Awajiは、「義満暗殺説」そのものに疑問を感じますが・・・仮にそう だとすれば、最も怪しいのは寧ろ「義持」「義嗣」の跡目争いに関係し た「義持」支持派の武家かも?(斯波義将辺りが臭い??ナ〜ンテ) なお、義満が皇位を簒奪する意図が有ったかどうかですが・・・一縷の 希望を持って、その布石を打った(これも疑問です)かもしれませんが ・・・客観情勢からして、おそらくそれが可能とは判断していなかった と思います。 (その気があれば、南北朝合体以降も南北両統を更迭させ、公家勢力を トコトン対立させておいて、天皇家の権威・勢力を更に失墜させたと思 うのですが・・・) もちろん義満の腹の内は、分かりませんが・・・少なくとも客観的には 諸武将の納得が得られる状況には無く、皇位簒奪の可能性は殆ど無いと 思うんですが? (後20年位、生きていれば、可能に成ったかもしれませんが・・・鱈の 肝臓はチョット不味いヨウデ) Time : 2000/ 3/21(火) 23:24:22
Name : 大阪JF生 E-mail : Title : Awaji様、連載の解説ありがとうございます。 Comments:  ポストの連載記事について、意見を述べていただいたのに レスが遅れて申し訳ありません。輔住様が、いいたいことは 述べてくださったようで・・  ただ、連載記事の(中身もですが)終り方からみて、 「天皇になろうとした将軍」の時よりも、世阿弥犯人説には ちょっと慎重になっておられるように感じましたが、 それは小生だけでしょうか。 なお、(いつもながら)あつかましいのですが、   >なお、義満が皇位を簒奪する意図が有ったかどうかですが・・・一縷の >希望を持って、その布石を打った(これも疑問です)かもしれませんが >・・・客観情勢からして、おそらくそれが可能とは判断していなかった >と思います。 のくだりは、小生には少し分かりづらいので、もう少し詳しく述べていただけると ありがたく存じます。  それにしても、歴史考察における「たら」「れば」批判を >鱈の肝臓はチョット不味いヨウデ・・ と表現するのははじめて聞きましたが、Awaji様のオリジナルでしょうか? Time : 2000/ 3/22(水) 09:39:16
Name : 輔住 E-mail : Title : 義満の死 Comments: Awajiさん、今日は。返信ありがとうございます。 私は世阿弥が関与していたかはともかく「義満暗殺」は かなり可能性が高いと思います。皇位簒奪を義満が計画していたことは ほぼ確実だと思っています。 その大きな理由として義満の死後、太上天皇の位を贈ろうとしたこと があります。皇族以外にそんな例はなかったし、その後もない。 義満鎮魂のため贈ろうとしたと思いますが、それは やはり「生前望んでいた」と判断したからでしょう。 またどこか朝廷の後ろめたさもこれには感じます。 だから朝廷により暗殺された可能性が1番高いと思っています。 ただ義持(及び義持派)により暗殺された可能性が0とは言えないでしょうね。 義嗣ため地位はあやうかったし、義満と義持は不仲ですから。 なんにしても自然死にしてはあまりにもタイミングが良すぎなので、 疑っています。 Time : 2000/ 3/22(水) 12:14:16
Name : Awaji E-mail : Title : 救世観音と「皇位簒奪」?? Comments: 大阪JF生さん、輔信さん、みなさん、今日は。Awajiです。 大阪JF生さん・・・・ >鱈の肝臓はチョット不味いヨウデ・・ つまらない駄洒落でスミマセン。確かにオジンギャグにしても寒す ぎますね。 義満が義嗣に皇位を継がせ(皇位簒奪)る客観的可能性ですが・・・ (勿論、義満の真意は分かりませんが) まず、将軍として半ば後継者としての地位をかためつつあった義持及 び彼を支持する中央有力武将は、義嗣の下風に立つ事を絶対に承服し なかったと思います。(後日に義持・斯波は義満の太上法皇尊号を辞 退していますし、上杉事件にからめて義嗣を誅殺していますね。) 勿論、南朝の遺臣(北畠等)が承服する筈がありません。 (伊勢北畠もなお小倉宮を擁して決起する実力を有していました。) 地方武将達も足利家が権力(武力)と権威を兼ね備えた絶対権力者と して君臨することは、自己の地位を脅かされることになるので、容易 には承服しないものと思われます。 鎌倉公方も必ずしも将軍家に従順とは言いきれませんし・・・。 義持は、後継者を指定しませんでしたが、これは「たとえ自分が遺言 しても、重臣達が用いなければ何にもならない・・・重臣達の協議に 委ねる・・・」と言うことでした。義満が義持・義嗣の何れかを指定 しなかったのも同様の理由とされています。 この様な将軍家の権力構造の中で皇位簒奪を強行出来る程の武力と権 威を義満が確保していたかどうかは、チョット疑問です。 彼がこれらを諸問題を排除するために、どの程度の期間を要したかは 分かりませんが(充分な期間があれば排除し得たかも知れませんね) ・・・恐らく源氏のお家芸とも言うべき一族相食む抗争が生じたでし ょう。 つまり義満は・・・ 「なるならぬは、時運の到るに任せるが、なればなりうる布石は打つ」 と言う程度の心境では無かったかと想像しているのです。 (これは小松左京さんがSF小説で、義満インタビューとしておっし ゃっている言葉ですが・・・正確には忘れました。) 輔信さん・・・・ >>なんにしても自然死にしてはあまりにもタイミングが良すぎなの >>で、疑っています。 まことにご尤もなのですが、歴史は時としてこう言った演出をします ので、真相は良く分かりません。 (清盛・秀吉・孝明天皇等もある意味ではタイミングが良すぎる面が ありますので・・・) >>皇位簒奪を義満が計画していたことはほぼ確実だと思っています。 これに関しては、上記感想のとおりです。 >>その大きな理由として義満の死後、太上天皇の位を贈ろうとした >>ことがあります。皇族以外にそんな例はなかったし、その後もな >>い。義満鎮魂のため贈ろうとしたと思います 例が無い措置としては、まず1406年に義満正室の康子を准母にしたこ とでしょう。これにより義嗣を准親王的に遇する道がひかれ、義満も 准父(准法皇)的に振る舞う道がひかれたのだと思います。 なお、義満に遺贈されようとしたのは「太上天皇」ではなく「太上法 皇」だと思いますが? この差には公家らしい姑息な手段ではありますが、重要な意味がある と思います。つまり飽くまでも「天皇遺贈」でも「太上天皇遺贈」で も無く「(准)法皇」経験者であることを「遺贈追認」しようとした のでは無いでしょうか? 従って、これを持って「朝廷の後ろめたさ」から「義満鎮魂のため贈 ろう」としたかどうかは、チョット判断できないところだと思います。 Time : 2000/ 3/22(水) 23:32:34
Name : 輔住 E-mail : Title : 遺言への妄想 Comments: Awajiさん、返信ありがとうございます。 >まず、将軍として半ば後継者としての地位をかためつつあった義持及 >び彼を支持する中央有力武将は、義嗣の下風に立つ事を絶対に承服し >なかったと思います。 そうでしょうね。そうなると義満(義嗣)対 義持で戦争になり 戦国化が早まってしまったかもしれません。 もちろん、おっしゃるとおり公家・有力守護・関東公方なども反発は必至ですが。 しかし義満はいままで強引に様々な政策をやりましたから多少(?)自分を過信してたかも。 >義持は、後継者を指定しませんでしたが、これは「たとえ自分が遺言 >しても、重臣達が用いなければ何にもならない・・・重臣達の協議に >委ねる・・・」と言うことでした。 これは完全な私の妄想ですが義満は遺言を残したが守られなかった というか義持は守らなかったのでは?とか考えました。 病死にしろ・毒による暗殺にしろ、少しは死ぬまで時間がありますから、 口頭で遺言を言ったかもしれません。(義持の後は義嗣を後継者にとか) 義持自身、遺言を無視したことがあるとすれば、自分が遺言しても 無駄と思ったのかも! (始皇帝・豊臣秀吉の例のように遺言が守られない場合もありますから) Time : 2000/ 3/23(木) 12:15:12
Name : TAKATOKU E-mail : Title : 怨霊から南朝正統論へ?? Comments: 輔住さん、どうもです。 Hozumi-san wrote (3/17): > 太子怨霊説を否定している > KANAKさんがまるで逆の立場のようにいっているとも > 受取れました。 そうですか。チョット(訂正:かなり! です)驚きました。 2月1日の私の文は読んでいますか? それとも「文脈に応じて言葉の定義が変化する」と思わないんでしょ うか? I wrote (2/2): > ここでの「太子怨霊説」での「怨霊の定義」は何でしょう? 無条 > 件ですか? それとも歴史を語る文脈の中ですか? もちろん、後 > 者ならば完全否定されています。 2月2日にはこのように述べましたが。 昨年2月24日のKANAK氏の文(他にもたくさんあったと思い ますが。。)は『国史大辞典』と自説の整合性を述べた文としか、 私には読めません(この点、輔住さんとは正反対です)。素朴な意 味での太子怨霊説は否定しない。しかし、その鎮魂方法に歴史的な 価値はない。例えば、法隆寺の件等。従って、歴史を語る上では怨 霊とは「呼ばない」。怨霊「ではない」でなく怨霊と「呼ばない」 です!! つまり、歴史を語る文脈では、太子は怨霊説を否定する ことになります。 蛇足ですが、「怨霊」の定義が文脈に応じて変化するのは仕方ない 思ってます。というのも、素朴な意味での「怨念を残した(と思わ れた)霊」と定義すると、歴史上の人物の数%?が怨霊となってし まい、無意味です。やや循環型の定義ですが、歴史の文脈において は、「歴史的な意義のある怨念を残した(と思われた)霊」を怨霊 と定義してもよいと思います。また、必然的にみなさんそうしてま すね。 もちろん、「歴史的な意義のある怨霊」の基準は人それぞれ。 井沢先生の基準とKANAK氏の基準が全く違うのは言うまでもあ りません。従って、議論が噛み合わない。。(悲笑) Hozumi-san wrote (3/17): > これで「強い弱いの話ではありませんね。」と言われても困りますね。 > 何の意見も言えなくなりますよ。 いえいえ、そうではなくて。強い弱いの話ならば『国史大辞典』と 矛盾していません。従って、部分否定になっていないのです。 Hozumi-san wrote (3/17): > 以前話した通り、私は『国史大辞典』のような性格の本の > 部分否定は大抵の人にあると思っています。 > だから代わってません。 『国史大辞典』は歴史学者がプライドをかけ、慎重に(史料至上主 義的に??)、かつ精根込めてつくったものでしょう。私のような シロウトが、そのような業績を易々と否定する気は毛頭ありません。 ところで、井沢先生が『国史大辞典』を「部分否定」している箇所 があったら、教えて下さい。もちろん、ここでは「部分否定」と 「慎重過ぎる(史料偏重による)故の不満??」は別物と考えて下 さい。あくまで、辞典としての性格を考慮にいれて、なお、否定し ているという意味です。 ◇余談です!!◇ ところで、輔住さん! なかなか冷静ですね。好感が持てます。 余りに言葉が通じないので、切り上げたかったのですが、輔住さん が冷静なので、議論にお付き合いさせてもらいました。ただ、我々 の間では言葉が通じないので、議論はしない方が良さそうですね。 しかしながら、ありがとうございました。 ただ、無意味な議論だとは思いません。『逆説の日本史』は歴史学 者が見落としてきた些細な情報を、通史的に考慮する事で補ってい ます。情報が些細なだけに、誤解も生じ易いのでしょう。今回の議 論において、「怨霊」という言葉の語感に、みなさんがこれ程影響 を受けているとは想像できませんでした。「批判のための批判」の オンパレードになるのもやむを得ないのかも知れません。しかも、 『逆説の日本史』を読まずに批判するのですから、なおさらです。 井沢説における「怨霊」には、加害者・加害意識は不要、祟りを恐 れる事も不要、そして明確な鎮魂意識も不要でしょう。何せ、日清 戦争以降の戦死者まで考慮に入れていますから。そして、現在の日 本の政治にも怨念の影響があると主張しているのですから。「南朝 正統論」における南朝正統論者についても似たようなものでしょう。 個々に見れば「怨霊」としての価値がなくても、通史的に見ると価 値があるのです。「南朝正統論」だけを考慮して、怨霊鎮魂思想の 影響というのは、非常に偏屈であり、井沢先生がそのように考えて おられるとは思いません。 “分裂時の正統論が朱子学のリゴリズムに基づくもの、合体時の正 統論は和式”とする考え方。これは「何故南朝が正統になったか?」 という当初の疑問に対する答えになっているとは思えない。単に、 問題がすり変わっただけである。何故なら、答えになっているとす れば、「南朝正統論者精神分裂病説」になるからだ。たとえ、 井沢説が信じられなくても、問題提起としては十分な価値があると 考えています。 ってな訳で、おしま〜い。 Time : 2000/ 3/23(木) 18:24:56
Name : 大阪JF生 E-mail : Title : Awaji様、少し御礼が遅くなりました。 Comments:  お返事ありがとうございました。 客観情勢として、義満が(もし望んでいたとしても) 非常に困難な事である事はよく分かりました。 それでも人間の欲は、底知れませんので、 >「なるならぬは、時運の到るに任せるが、なればなりうる布石は打つ」 >と言う程度の心境では無かったかと想像しているのです。 というところがうまく収まると思います。 また一つすっきりしました。ありがとうございました。  それから、「たら」の件は、そんなに寒く感じていませんでした。 そう言う言いまわしが歴史愛好家の中では常套句なのかどうかと 疑問を抱いただけで、他意はありませんでしたので念のため。 (ただし、小生のオヤジギャグは、子供たちからは寒いといわれますが・・) Time : 2000/ 3/24(金) 09:34:15
Name : 輔住 E-mail : Title : TAKATOKUさんへ Comments: 返信ありがとうございます。 私もこの議論はここで切り上げた方が良いと思います。 1999/2/24のKANAKさんの文章の解釈はあなたとは異なります。 それについては水掛け論になってしまうので これ以上はいいません。 この議論にでは色々と御迷惑をかけてしまったと思います。 どうもありがとうございました。 話は変わりまして >井沢先生が『国史大辞典』を「部分否定」している箇所 >があったら、教えて下さい。もちろん、ここでは「部分否定」と >「慎重過ぎる(史料偏重による)故の不満??」は別物と考えて下 >さい。あくまで、辞典としての性格を考慮にいれて、なお、否定し >ているという意味です。 慎重過ぎる(史料偏重による)...以降の意味が少し分りにくいので またあなたの意図する返答ではないかもしれませんが 「逆説の日本史」4巻「六歌仙編」で おおとものくろぬしについて「大友黒主」・「大伴黒主」どちらが 本名として有力かという部分で「大辞典」は近江の歌の関連から 「大友」が有力。井沢先生は「大友」より「大伴」が多いから 「大伴」が有力としています。(他の理由もありますが) これは慎重とかどうかとは別の観点からの否定に私からは 見えますがいかがでしょうか? Time : 2000/ 3/24(金) 12:02:59
Name : Awaji E-mail : Title : 救世観音と「義満の遺言」?? Comments: 輔住さん、大阪JF生さん、みなさん、今日は。Awajiです。 >>病死にしろ・毒による暗殺にしろ、少しは死ぬまで時間がありますか >>ら、口頭で遺言を言ったかもしれません。(義持の後は義嗣を後継者 >>にとか)義持自身、遺言を無視したことがあるとすれば、自分が遺言 >>しても無駄と思ったのかも!(始皇帝・豊臣秀吉の例のように遺言が >>守られない場合もありますから) 義満の死・・・「応永15年(1408)4月25日、義満は内裏で愛児義嗣の 元服の式をあげたころから病にかかったらしく、5月4日、危篤におちい った。一時もちなおしたが6日ふたたび悪化して酉刻近くに亡くなった。 年51歳であった。」ー「日本の歴史9南北朝の動乱」中央公論社 とされていますので、充分遺言の時間はあったと思われます。 としても・・・当時の義嗣は15歳の少年ですから、義持に対抗する力は 無く、輔住さんのおっしゃるように遺言は義持一派が握り潰したかも知 れませんね。 以下・・・各種遺言の想像です。 @世は「なるが如くになる」と達観し、黙して語らず。 A義嗣を、義持の後継将軍に・・・と涙乍らに懇願。 B将軍職は義持・義量(当時2歳)に、・・・義嗣は後小松の猶子として 皇位につけるべく努めよ・・・と厳命。 C「足利の家より天皇を・・・」と言い残して息絶える。 D天皇=祭政・将軍(義持)=武政・国王(義嗣)=外交の三権分立構 想を言い残す。(これは無いでしょうね!) @=35% A=35% B=20% CD外が10%・・・ナ〜ンテ(^0^)" Time : 2000/ 3/25(土) 11:44:38
Name : Daichan E-mail : mantra@deneb.freemail.com Title : はじめまして、Daichanと申します。 Comments: 井沢先生の著作は、いつも大変興味をもって読ませていただいております。逆説シリーズは全巻保有しております。 今後ともご活躍のほど、お祈り申し上げます。 Time : 2000/ 3/26(日) 02:51:23
Name : Daichan E-mail : mantra@deneb.freemail.com Title : はじめまして、Daichanと申します。 Comments: 井沢先生の著作は、いつも大変興味をもって読ませていただいております。逆説シリーズは全巻保有しております。 今後ともご活躍のほど、お祈り申し上げます。 ところで、「逆説」の技法は、精神分析の技法に似てますね。 Time : 2000/ 3/26(日) 02:52:13
Name : Daichan E-mail : mantra@deneb.freemail.com Title : はじめまして、Daichanと申します。 Comments: >井沢先生の著作は、いつも大変興味をもって読ませていただいております。逆説シリーズは全巻保有しております。 >今後ともご活躍のほど、お祈り申し上げます。 >ところで、「逆説」の技法は、精神分析の技法に似てますね。 すみません、クリックしそこないまして、2回送信してしまいました。 Time : 2000/ 3/26(日) 02:54:24
Name : 輔住 E-mail : Title : どうもありがとうございます Comments: Awajiさんへ私のつたない妄想へのコメントありがとうございます。 もし、遺言の内容がA〜Dのいずれかなら義持派にとっては困りますよね。 Time : 2000/ 3/27(月) 12:34:06
Name : Awaji E-mail : Title : 救世観音と「義満の尊号授与等」 Comments: 大阪JF生さん、輔住さん、みなさん、今日は。Awajiです。 引き続き、第42話 そのFです。 >>天皇家乗っ取りの成功寸前に、義満は急死する。何度も言うが、これ >>は状況から見れば確実に暗殺である。「皇国史観的」偶然は私は信じ >>ない。 こういう言い方は良くないですね。Awajiとて「皇国史観的」偶然は信じ ませんが、単なる偶然は信じます。歴史を彩る最大の演出者が「偶然」 であることは、歴史を齧ったものならば誰もが感じることです。 単なる「状況から見」て「確実」と考えるのは、歴史と人間(余りにも 儚い生命体)に関する無理解でしか無いと思います。 >>そして、もう一つ確実に言えるのは、この「暗殺」は公家勢力によっ >>て行われたということだ。確かに諸大名も・・・しかし暗殺したとし >>たら・・・なぜこれを断ったのか?・・・ >>ゆえに、もし武家勢力が義満を殺したとしたならば、せめて「供養( >>実は鎮魂の仏教的表現)のために、太上天皇の尊号授与つまり「幽界 >>において義満を上皇にする」ことに反対するはずがないのである。 この理屈は良く分かりませんね。仮に武家が暗殺したとすれば、それは 足利家が天皇家に準じた地位を獲得することに反対した・・・同時に義 嗣が准親王として将軍である義持を陵駕することに反対した・・・可能 性がありますから、尊号授与に反対するのが当然だと言う考え方もある 筈です。 なお、井沢さんは「太上天皇」の尊号授与とされていますが、これは確 実でしょうか? Awajiの知る限りでは「太上法皇」と考えたほうが妥当だと思います。 (東寺執行日記・臨川寺位牌は「太上法皇」、相国寺過去帳は「太上天 皇」) ・・・「法皇」は「法体の上皇」、「上皇」は「太上天皇」の略号です から(太上天皇は天皇位を譲位した場合の生前尊号)、「太上法皇」は 「太上・法体太上天皇」になりますが、これは奇妙過ぎる尊号です。 Awajiは、「太上法皇」と言うのは「天皇」と言う言葉を巧みに避け「准 三后」、「准三宮」と同レベルの「准法皇」を意味した公家の姑息な表 現では無いかと睨んでいます。 >>光源氏自身は准太上天皇になる、という出世物語なのである・・・ >>光源氏の生涯と義満の生涯には共通項がある。 これを出世物語と解される感性には、驚嘆するしかありませんが、それ は兎も角、生前の「准太上天皇」と遺贈の「太上法皇」では全く意味が 異なります。 光源氏の場合は、陰惨な運命により「准太上天皇」となるのですが、本 来彼は皇子であり、臣籍降下により皇位継承権を剥奪されたとは言え、 出生的には「皇族」なのですから・・・。 >>言うまでもなく、中国やヨーロッパであれば、金色堂は破壊され焼却 >>されていたに違いない。 よくこの様な言い方をされているようですが・・・同一文化圏における 勝者が敗者の建設した宗教施設を破壊する例がそれほど一般的に認めら れるでしょうか? 清は異民族の征服王朝ですが、それでも明時代の観・寺を破壊し尽くし たと言うような事は聞いたことがありませんし、ヨーロッパの王朝交替 によって破壊・焼却された教会も聞いたことがありません。 (あっても極く例外的な事例では無いでしょうか?) この井沢さんの認識は一体何に基づいておられるのかサッパリ分かりま せん。皆さんは如何お考えでしょうか? Time : 2000/ 3/27(月) 23:45:56
Name : 輔住 E-mail : Title : 義満&先代支配者の建物 Comments: Awajiさん、みなさんこんにちは。 私は「義満暗殺」はかなり可能性が高いとは 思ってます。ただ確実に公家の仕業とは いえないでしょうね。 (私は公家60%、義持グループ20%、偶然20%) 尊号授与に関してはAwajiさんの意見に賛成です。 どんな死因であれ、義持グループや有力守護は 反対したでしょう。 >>言うまでもなく、中国やヨーロッパであれば、金色堂は破壊され焼却 >>されていたに違いない。 >よくこの様な言い方をされているようですが・・・同一文化圏における >勝者が敗者の建設した宗教施設を破壊する例がそれほど一般的に認めら >れるでしょうか? これに関しては程々ではないかと思ってます。 確かに先代の支配は終わったことをアピールするため そういうことをやった例は世界・日本でもありますが 「必ず」とはいえないでしょう。 「必ず」なら文化遺産の数は格段に少なくなっているでしょうね。 また国を治めるためそこまでできない場合もあるでしょう。 (怨霊以外の理由でも) Time : 2000/ 3/28(火) 12:16:34
Name : 便所の火事 E-mail : Title : 権力者の交代とモニュメント Comments: 世界史においては,権力者が交代した場合, 前後で権力者のよって立つ思想が異なる場合, 物的・人的に徹底的な破壊がなされ, 前後で権力者のよって立つ思想が共有される場合, 権力のモニュメントは破壊よりはむしろ,のっとられる場合が多いようです。 前権力の王宮にそのまま新しい権力者が居座る。 それでも,前王朝の匂いを残すようなものは剥ぎ取られたりしますね。 両者の思想がほとんど同じでも, どうしても受け入れられない部分を体現するモニュメントは, 徹底的に破壊されるようです。 足利義満の北山御殿は破壊されましたね。金閣を除いて。 これはおそらく,義持が義満の貴族趣味を嫌ったからでしょう, 受け入れられない思想と言うわけです。 ただ一つ残された金閣をどう評価するかですね。 Time : 2000/ 3/28(火) 14:33:59
Name : Awaji E-mail : Title : 救世観音と「施設破壊のルール」 Comments: 便所の火事さん、はじめまして。 輔住さん、みなさん、今日は。Awajiです。 権力者の交代とモニュメント・・・ 要するにおっしゃるとおり、人心一新のため破壊する事もあれば、人心 安定のため保全することもある・・・その時の支配者の政治(民族対立) ・経済・社会・宗教・思想・性格・趣味嗜好等によるものであって、特 に日本的事情でもなければ、怨霊鎮魂によるものでもない・・・と言う 事で良いと思います。 源頼朝は、奥州藤原一族が義経を殺害し、恭順の意を表してもこれを許 さず壊滅させました。しかし東北地方の人心収攬のため、宗教施設や宗 廟はこれを保護修復させています・・・勿論、頼朝の神仏崇敬の念が篤 かったこともあるでしょう。(東大寺を焼き払った清盛ならば、違った 取り扱いをしたかも知れません)・・・それだけのことで、中国人でも 西欧人でも同様の措置を取る可能性もありますし、状況により様々でし ょうね。 「言うまでもなく・・・違いない」といった先入観にとらわれては、歴 史の真実から遠ざかるのみでは無いでしょうか?? Time : 2000/ 3/28(火) 22:09:04
Name : Awaji E-mail : Title : 救世観音と「尊号授与理由」?? Comments: 大阪JF生さん、輔住さん、みなさん、今日は。Awajiです。 さて・・・井沢さんは、義満に対する尊号授与を「義満暗殺説」に立っ て義満「怨霊の鎮魂」のためとされていますね。 Awajiは、「義満暗殺説」も全面否定はしませんが、どちらかと言えば 否定的です。(6:4で否定)また仮に暗殺としても、その黒幕は公家 ・武家(義持派・鎌倉派・南朝残党・大内残党その他)何れとも判断出 来ないと考えています。 それでは・・・義満が自然死だとした場合、何故に朝廷は異例極まり ない「太上法皇(天皇?)」の尊号を義満に対して与えようとしたのか ・・・と言う問題が生じます。(勿論、怨霊鎮魂とは無関係な理由です) そこで、単なる一つの思い付きですが・・・以下。 Awajiの考えでは朝廷(公家)は、この尊号授与をもって義持に対する 一種の踏絵とし、かつ義持・義嗣離反の楔とすることを意図したので は無いかと思います。(その他にも二三の解釈が有り得ますが、取り敢 えず最もラシイと思われる解釈です。) つまり・・・ @朝廷(公家)としても義満が(オリアラバ)皇位を簒奪しょうとして  いるのでは無いかと言う懸念を持っていた。 A既に将軍職にあり、一応彼の後継者と目されていた義持は、義嗣との  跡目争いもあって義満路線には批判的と見られていた。 Bしかし、朝廷としては義満亡き後、義持が義満の路線を継ぐのか如何  かを見極める必要があった。 Cそこで、尊号授与と言う足利家にとって名誉ある踏絵をつき付けた。 (踏絵ではあるが、形式的には足利家にとって名誉であり、これを持っ  て公家が報復される事はない。) D仮に義持がこれを辞退すれば、義持には義満路線を継承する意図が無  いことが明らかになり、かつ准親王的立場にあった義嗣の地位も崩壊  する。(天皇家・公家の地位は安定する) E当然に義嗣は、義持に反感を抱き二者の対立により足利家の力は弱ま  る可能性がある。(結果的に義嗣は義持に反旗を翻し誅殺されている) E逆に、義持がこれを拝受すれば、義嗣の地位が強化され、有力武将を  二分する後継者争いに発展する可能性があり、やはり足利家の力は弱  まる可能性が出てくる。(天皇家・公家は高見の見物を決め込む) F臣下に「太上法皇」尊号を授与すれば、後世から批判される恐れがあ  るが、義持は十中八九辞退すると読んだ・・・またイザとなれば「太  上天皇」では無く「太上法皇」だと言う姑息な逃げも用意しておいた。 ・・・結果として、おそらく内意の段階で義持はアッサリと辞退したた め、義嗣派も口出し出来ず義満後継者は義持に確定し、義嗣の地位は凋 落した。(後の反乱も大した規模にはならず、あっさりと誅殺された。) また、一方で足利家が天皇の地位を脅かす懸念は全く無くなった訳で、 この奇策(とすれば)は、充分にその効果を発揮したと言えるでしょう。 公家と言うものは「義満が死んだから万歳三唱」するような単純な生物 ではありません。その機を捉え己の保身(即ち天皇家権威の維持)の為 にあらゆる権謀術数を駆使する者であり、だからこそ大した武力も財力 も無く、独特の地位を保ち得たと考えるべきでしょう。 しかしながら、怨霊鎮魂と言うような偏った見方に拘っていては、こう 言った歴史(政治)解釈の様々な可能性を読み違えるのでは無いかと思 いますが、如何でしょうか?? (上記の解釈も当然ながら一つの可能性に過ぎません。) Time : 2000/ 3/28(火) 22:29:15
Name : 便所の火事 E-mail : Title : 「逆説の日本史」における「世界史」 Comments: 古典的な経済学では, 事業活動を行うにあたって利益極大化を目指し, 消費行動においては,効用(満足度)を極大にすると言う人間, 「経済人」(ホモ・エコノミクス homo oeconomics) を仮定しますが,(かじった知識です) 「逆説の日本史」において,井沢先生が,「世界史」と言うとき それは,上と同じように,井沢先生が「合理的」と思うところの行動によって出来る歴史, を意味する事が多いようです。 Time : 2000/ 3/28(火) 22:54:30
Name : 大阪JF生 E-mail : Title : 乗り遅れてドアがしまりそう・・・ Comments:  Awaji様が週刊誌連載についてせっかくご意見を述べておられたのに、 すっかり議論に乗り遅れてしまいました。どうもグズですみません。 施設破壊については、輔住様が程度問題とさらりとかわし、 便所の火事様(初登場でしょうか?)のご意見も受けられて、 一応カタがついたようなので、もう何も言いません。  それで、救世観音と「尊号授与理由」??において述べておられる 仮説は非常に面白いと思いますし、小生も支持したいと思います。 ただそれは、「怨霊鎮魂」の視点とコンパチブルだと思いますので、 >しかしながら、怨霊鎮魂と言うような偏った見方に拘っていては、こう >言った歴史(政治)解釈の様々な可能性を読み違えるのでは無いかと思 >いますが、如何でしょうか?? とのご意見はあまり説得的ではないと思います。  余り区別をしたくないのですけど、小生は理科系だからかもしれませんが、 「事実」をうまく説明する「理論」ならば、べつにどのような視点でも こだわりは有りません。もっというならば、  理論という「偏見」を通してしか見えない 事もある(というか大部分)と思っています。 このことは、以前小生が試みた科学談義で主張していた事でした。 Time : 2000/ 3/29(水) 09:42:12
Name : 輔住 E-mail : Title : 尊号問題と怨霊史観 Comments: Awajiさん、大阪JF生さん、みなさんこん@@は。 「尊号授与理由」??を拝見させてもらいましたが 面白いと思うし、説得力のある説です。 >後世から批判される恐れがあるが、義持は十中八九辞退すると読んだ・・・ >またイザとなれば「太上天皇」では無く「太上法皇」だと言う姑息な逃げも用意しておいた。 このような姑息さも朝廷らしいです。 私は尊号授与には義満鎮魂も大きな理由だと思っていますが、Awajiさんの理由も ありそうですね。 後、怨霊鎮魂という見方はすぐれていると思います。この見方だといままで分らなかった部分で 謎がとけた(あるいはその土台ができた)ということもあります。 しかしこの見方が強くなりすぎるのも問題があるでしょう。強くなりすぎると他の視点が ぼやけてしまう場合もあるでしょう。 Time : 2000/ 3/29(水) 12:19:04
Name : 輔住 E-mail : Title : 尊号問題と怨霊史観 Comments: Awajiさん、大阪JF生さん、みなさんこん@@は。 「尊号授与理由」??を拝見させてもらいましたが 面白いと思うし、説得力のある説です。 >後世から批判される恐れがあるが、義持は十中八九辞退すると読んだ・・・ >またイザとなれば「太上天皇」では無く「太上法皇」だと言う姑息な逃げも用意しておいた。 このような姑息さも朝廷らしいです。 私は尊号授与には義満鎮魂も大きな理由だと思っていますが、Awajiさんの理由も ありそうですね。 後、怨霊鎮魂という見方はすぐれていると思います。この見方だといままで分らなかった部分で 謎がとけた(あるいはその土台ができた)ということもあります。 しかしこの見方が強くなりすぎるのも問題があるでしょう。強くなりすぎると他の視点が ぼやけてしまう場合もあるでしょう。 Time : 2000/ 3/29(水) 12:19:53
Name : 大阪JF生 E-mail : Title : 輔住様、同感です。ご意見ありがとうございました。 Comments:  久しぶりのベテランによる「山彦の術」ですね・・・。  それはさておき、さすがに輔住様は、バランス感覚が秀逸と存じます。 ご意見に同感いたします。  小生のたとえで言えば、(特に昨今のプリンタの画像を思い浮かべて くだされば)写真や絵は単なる色つきの点の集まりに過ぎません。 それは虚心坦懐に見すぎると「点」以上のものでも以下でもありません。 しかし、人は「経験」から得られた知識でもって物を見ますので、 そこに建物や人物を読み取る事ができます。 もしそのような「知識」という偏見が無ければ、物を見るのは困難で、 コンピュータにそのような認識能力を持たせるのがいかに難しいか ご存知の方も多いでしょう。 ただ、それが行きすぎると、単なる節穴や模様までも「人物」に見え、 幽霊の存在まで読み取ったりしてしまうものです。 (念為:小生は幽霊やUFO否定論者ではなく、いてもかまわない立場です。) これが、科学談義的解説ですが、まさにやりすぎはいけませんね。 輔住様のご意見をよく心にとめておきたいと思います。 Time : 2000/ 3/29(水) 13:03:50
Name : 便所の火事 E-mail : Title : 座標を求めるには Comments: まず座標軸を引かないといけないのですね。 座標軸を引くことによって,いろいろな事象の位置が定まる。 座標軸がないと,何も見る事は出来ない。 物事の位置がわかれば、新しい座標軸を求める事もできるわけです。 ただその際大事なのは,座標軸の絶対値を等間隔にとる事です。 場所によって,座標の間隔が異なっては座標軸の意味を成さない。 マルクス史観はそのきらいがあった。 「逆説の日本史」が怨霊史観と言霊を座標軸とするのなら, 我々は,その間隔が等間隔かどうかを見ていかなければならないでしょうね。 Time : 2000/ 3/29(水) 20:49:45
Name : Awaji E-mail : Title : 救世観音と「井沢さんへのお願い」 Comments: 大阪JF生さん、輔住さん、みなさん、今日は。Awajiです。 RESありがとうございました。 >しかしながら、怨霊鎮魂と言うような偏った見方に拘っていては、こう >言った歴史(政治)解釈の様々な可能性を読み違えるのでは無いかと思 >いますが、如何でしょうか?? 3/25 awaji ・・・にかんしては、表現不充分だったかも知れませんが、要するに、 Awajiが、ここ数回の連載記事を拝読して感じたのは、依然として必ず しも充分な根拠がなく、かつ偏った論理展開によると思われる断定的 見解が多く見られますので、これでは読者の方々を誤誘導してしまう のでは無いかと言うことです。 例えば尊号問題に絞りますと・・・先ず、 >>天皇家乗っ取りの成功寸前に、義満は急死する。何度も言うが、これ >>は状況から見れば確実に暗殺である。「皇国史観的」偶然は私は信じ >>ない。 とされていますが、とても「天皇家乗っ取りの『成功寸前』」と断定出 来る様な客観的状況はありませんし、「状況から見れば『確実』に暗殺」 とも言えません。(可能性を全面否定するものではありませんが・・・) さらに「『皇国史観的』偶然」と言う表現では、あたかも偶然説をとな えるのは『皇国史観的』の信奉者であると言わんばかりの誤解を与え兼 ねないものです。 さらに、この「『確実』に暗殺」と言う認識に立って、 >>そして、もう一つ確実に言えるのは、この「暗殺」は公家勢力によっ >>て行われたということだ。 >>もし武家勢力が義満を殺したとしたならば・・・太上天皇の尊号授与 >>・・・・に反対するはずがないのである。 とされているのですが、既に述べたとおり武家勢力であっても尊号授与 に反対する可能性は充分有り得ますので、「反対するはずがない」とか 「『確実』に言えるのは、この『暗殺』は公家勢力による・・」と言う 表現(論理展開)も明らかに誤解を重ね兼ねないものです。 >>言うまでもなく、中国やヨーロッパであれば、金色堂は破壊され焼却 >>されていたに違いない。・・・日本人の「敗者に対する優しさ」とは、 >>実は「怨霊に対する恐怖」でもある。・・・ に関しても同様で、「言うまでもなく・・・違いない」と言う断定的表 現で、日本の特殊事情と決め付け、さらに「怨霊に対する恐怖」へと論 理展開されているのですが、これではトンデモナイ誤解を生じ兼ねませ んね。(言うまでも無く・・・この様な断定は成立しないでしょう?) 本題の尊号授与についても・・・ >>朝廷が義満に尊号を贈ろうとした、ということは、朝廷の側に義満の >>死に対する「後ろめたさ」があったということだ。・・・ >>公家社会は「あの大悪人がくたばった」と万歳三唱してもいいような >>状況だったのである。それにもかかわらず「名誉上皇」という「金メ >>ダル」まで与えようとしたのだ。 >>藤原氏が追放し憤死した菅原道真に太政大臣の位を追贈したのと、同 >>じことだろう。明らかに公家社会の犯行である。 という形で次ぎの論理を展開(結論付け)しておられますね。 「尊号授与」←→「怨霊鎮魂」←→「公家による暗殺」 ここには、Awajiが思いつきで申し上げたような「尊号授与」に関する様 々な可能性(現実政治の隠微な駆け引き等)は一切考慮されず、極めて 単純に「尊号授与=贖罪意識=怨霊鎮魂」に結び付けられていますね。 しかし、当然ながら「尊号授与≠贖罪意識」のケースを想定すれば「公 家による暗殺」と言う結論には到らないはずです。 (Awajiの想定がありうるならば、死因に関係なく「尊号授与」がなされ 得るはずです。) まことに失礼ながら、輔住さんですら、 >>「義満暗殺」はかなり可能性が高いと思います。皇位簒奪を義満が計 >>画していたことはほぼ確実だと思っています。 >>その大きな理由として義満の死後、太上天皇の位を贈ろうとしたこと >>があります。皇族以外にそんな例はなかったし、その後もない。義満 >>鎮魂のため贈ろうとしたと思いますが、それはやはり「生前望んでい >>た」と判断したからでしょう。またどこか朝廷の後ろめたさもこれに >>は感じます。だから朝廷により暗殺された可能性が1番高いと思って >>います。 朝廷による暗殺の可能性が高いと判断された「大きな理由」に、尊号授 与=贖罪意識=怨霊鎮魂 を挙げておられますね。まして一般読者の場 合は「確実に・・」「・・はずがない」「言うまでもなく・・」「明ら かに・・」と断定的な表現で畳み込まれては、完全にこの論理展開を信 じ切ってしまわれるのでは無いでしょうか? たかが週刊誌の連載じゃあ無いか・・・と言われる方もおられるかも知 れませんが、基本的歴史知識を備えておられない(若年の)一般読者に 与える影響力を考えると、やはりこういった井沢さんの表現(論理展開) には疑問(誤誘導の危険性)を感じざるを得ないのです。 何度も申し上げて恐縮ですが、もし井沢さんがこの掲示板をご覧になる ことがございましたら、是非ともご斟酌をお願いいたします。 Time : 2000/ 3/29(水) 23:10:50
Name : 大阪JF生 E-mail : Title : Awaji様、皆様へ Comments:  Awaji様、ご意見ありがとうございました。前回疑問に思った事が、 >Awajiが、ここ数回の連載記事を拝読して感じたのは、依然として必ず >しも充分な根拠がなく、かつ偏った論理展開によると思われる断定的 >見解が多く見られますので、これでは読者の方々を誤誘導してしまう >のでは無いかと言うことです。 という意味でしたらおっしゃる事はわかります。 井沢先生の表現が行きすぎている面がしばしば有る事はお認めしますし、 その点ではお怒りごもっともかと存じます。 ただ、以前にも述べたのですが、 >たかが週刊誌の連載じゃあ無いか・・・と言われる方もおられるかも知 >れませんが、基本的歴史知識を備えておられない(若年の)一般読者に >与える影響力を考えると、やはりこういった井沢さんの表現(論理展開) >には疑問(誤誘導の危険性)を感じざるを得ないのです。 の点は、もっと読者をお信じになった方が良いのではないでしょうか。 一応、週刊ポストの主な読者は、オジさんと呼ばれる年代の社会人が主体だと 思います。歴史的知識が乏しい人でも(もちろんしっかりした方は当然ながら) 一般常識・分別を備えた人々と考えますので、通常は問題提起を含んだ一つの 仮説にすぎないと受け止められるでしょう。 題名からして、「これこそ真実」とはうたっておらず、「逆説」ですから・・。 それに、最初に宣言されたように、基本的には「怨霊鎮魂」の視点で歴史を見れば どうなるかという議論のされ方ですので、「あらゆる視点に基づき」といわれると、 不充分である事は否めないでしょう。その点は割り引いていただければと存じます。  このHPの読者は、少なくともAwaji様が皇国史観論者とは思いませんし、 もちろん唯物史観論者とも思いません。物事は多くの側面から検討した方が良い のは当然の事ですから、「怨霊史観によらない考察」も伺えるこのHPは非常に 貴重な場であると感謝しています。  ただ、不満なのはこの議論をAwaji様のように正面から受け止めて考察するので無く、 (ごく一部の反応を除いて)井沢先生の問題提起を歴史学者の方がまともにうけ とめないことです。通常の歴史書からでは、Awaji様がおっしゃるような結論は 当然出てきませんので、それもまた「不充分」な事は学者として認めるべきでしょう。 ある科学者が、 「科学の理論とは、天才にしか到達できないような境地を凡人に提供するものである」 というような事を言っていたと思いますが、歴史学者の皆さんが素人にもっと わかるように歴史を理論化して頂けなければ、科学という名に値しないでしょう。 (本家の自然科学もその点、相当怪しいです。近所にいますので痛感します。) その意味では井沢先生の方が努力はしておられると思います。 (もちろん、歴史学者を罵倒するのは良くないですが・・・)  ところで、 >さらに「『皇国史観的』偶然」と言う表現では、あたかも偶然説をとな >えるのは『皇国史観的』の信奉者であると言わんばかりの誤解を与え兼 >ねないものです。 とおっしゃるのを拝見して、Awaji様ほど論理的な方でもそうなのかと意外に 感じたのですが(実は、一般読者のレベルを考慮されたのかも・・?)、 これは日本語の欠陥なのでしょうか:  「AはBである」が正しくとも、「BだからA」とは限らない よくご存知と承知の上で話の都合上あえて解説しますと、後者は論理学では 「逆命題」と呼ばれる物ですが、日本語には区別の「は」もあり、論理的には  「AばBである」が正しくても、「AでないのでBではない」とは限らない はずの「裏命題」も、しばしば正しいと受け取られるようですね。 これはしばしば議論の障害になっているように思います。 皆さんもどのように感じておられるのでしょうか?  取り止めのない意見を書き連ねてしまいましたが、まともに怨霊史観についての 議論ができるのはここだけのようです。そう言う意味で、いつもながら示唆に富んだ Awaji様のご意見を伺っております。おそらく皆さんもそうではありませんか? Time : 2000/ 3/30(木) 10:41:21
Name : 輔住 E-mail : Title : 雑感 Comments: 大阪JF生さん、Awajiさん、みなさん、こんにちは。 確かに井沢先生の説を盲信することは少ないかも しれませんが、Awajiさんの危惧する気持も分ります。 歴史界の方々は馬鹿馬鹿しいのかあまり反論してませんから。 私もここを読んでなければ、井沢説を信じてる割合は 多かったかと思います。(100%盲信とは思いませんが) 私自身はこのBBSの投稿を読んで、井沢説の方が説得力があるなとか、 ここの部分は逆に井沢説はちょっと苦しいかなとか色々考えさせられました。 なんか先生のことを悪い風に書いてしまったみたいですが、そういうつもりはないです。 前にも述べたとおり怨霊鎮魂という考えかたから学んだことも多いです。 私はこのBBSに読んだり、投稿したりしてより井沢先生のファンになりましたから。 Time : 2000/ 3/30(木) 12:42:20
Name : Awaji E-mail : Title : 救世観音と「蘇莫者」?? Comments: みなさん、今日は。Awajiです。Kitunoさん、ご覧になっていますか? 大阪JF生さん・・・・おっしゃる意味は良く分かります。確かに歴史学者 は細部に傾斜しすぎている面があるでしょうし、もっと我々に分かりやす く情報を提供すべきだと思います。 ただ・・・以下の坂本論文(講演記録です)等は、とても分かりやすく法 隆寺や太子を解説し、怨霊説を批判されているのですが、おそらくこの書 籍を読んだ人は梅原さんの書籍を読んだ人の1割にも満たないでしょう。 Kitunoさんも努力なさったようですが、入手されていません。(坂本論集 には掲載されていると思いますが?) 一時、韓国語で万葉集を解読するトンデモ本が流行した時にも、真面目な 批判書が出たのですが、殆ど書店には並びませんでした。悲しい事ですが、 これが日本の出版界の現実です。つまりマスコミ受けしない書籍は一般読 者の目には触れないのです。Awajiは南北朝ー室町時代には興味が無いので 論文などは読んだ事がありませんが、おそらく尊号授与問題についてもカ ナリの論文が書かれたと思います。学者の間では今更議論すべき問題では 無いのでしょう。かといって教科書で取り上げる程の問題でもありません から、(限られた分量の中では取り上げ様も無いでしょう)井沢さんの意 見が新鮮に映るのでは無いでしょうか?  皇国史観については別途・・ さて・・・・ みなさんには場違いの掲載でご迷惑でしょうが、以前の「梅原太子怨霊説 」批判に関連して、Kitunoさんより「蘇莫者」についての提起がありまし たので、この場をお借りいたします。以下坂本論文にそってAwajiの見解を 申し上げます。(該当部分についての全文です) 四 舞楽蘇莫者の意味 舞楽の一つとしての蘇莫者は、法隆寺の聖霊会の大会のさいに舞われるも ので、昭和46年の太子千三百五十年忌の聖霊会にも法隆寺で行われた。 梅原氏はこれを見て、仮面をつけ山神に扮して踊り狂う蘇莫者を、太子の 怨霊の荒れ狂う姿をあらわしたものにまちがいないと見て、法隆寺怨霊時 説のしめくくりの有力な証左とした。しかしそれは氏だけの感想であって、 まず蘇莫者の山神を太子と見立てる人は、古今ともにない。 *古今ともにいないのは当然の事で、これ自体は梅原説の批判にはなりま せんね。                        Awaji註 蘇莫者についての説明は、例の『聖徳太子伝私記』に、舎利殿の中の種々 の宝物を挙げた中に、 「次尺八、漢竹也。太子此笛ヲ、自法隆寺天王寺ヘ御之道、椎坂ニシテ吹 給之時(蘇莫者楽)、山神御笛ニ目出、御後ニシテ舞ケリ。太子奇ンテ見 返給。爰ニ山神奉見、怖テ指出舌。其様ヲ舞伝テ天王寺ニ舞之。今云蘇莫 者」とある。 *「私記」は、太子自身が蘇莫者楽を吹いたことで、山神が現れたと記述 しており、少なくとも「蘇我(或いは太子)鎮魂の舞」と言うような認識 は全くあり(得)ません。さらに踊っているには飽くまで「山神」であっ て「蘇莫者」は舞曲名です。梅原さんは舞曲名と踊り手名を混同しておら れるのでは無いでしょうか? また、元々天王寺に伝えられた舞曲とされていますから、これを法隆寺怨 霊鎮魂説と結びつけることにも無理があると思います。    Awaji註 これは鎌倉時代の説であるが、それより前崇徳天皇の長承二年(1133)五 月大神基政の著した『龍鳴抄』下には、 「舞ひのてい金色なる猿のかたち也。撥をひだりに持たり。きなる蓑をき たり。よに人のいひつたへたることは、さうさむたうきゃくの、おほみね とをられけるに、笛を吹きけるに、ききて山の神の舞ひたるとぞ申す。お ほみねには蘇莫者のたけといふ所ありとぞ。山伏の人々かたらるる。さう さんはよかりける笛吹なり。管弦に心を深くえたる人なり。さもやありけ んとこそおぼえたれ」 これは笛の名手大神基政の言う所だから、平安時代の管弦家の間では、蘇 莫者を聖徳太子や法隆寺に結びつける説はなかったと見てよい。ここでは 山の神は蓑を着た猿の形だというから、今日見るようないかめしい白髭の 面をつけ、きらびやかな装束を着るのは、後世の扮飾であろう。 *「聖霊会」開始以降「私記」記述以前に、聖徳太子や法隆寺とは関係無 く、大峰山における「蘇莫者」伝承が記録されているのですから、この舞 樂をもって「蘇我(或いは太子)鎮魂の舞」と解釈するのは、どう考えて も不可能でしょう。                  Awaji註 蘇莫者はもともと中国渡来の楽である。河鱈実英氏著の『舞楽図説』では 、林邑曲の一つであり、天王寺特有の舞であったといい、羽田亮博士はこ れを西域音楽、いわゆる胡楽の一つと見る。 『唐会要』巻三十三雅楽下諸楽に、「天宝十三載(754)七月十日、太楽 署供奉曲名及改諸楽名。(中略)蘇莫遮改為感皇恩」 とあるから、蘇莫遮という楽が唐代に行われたことは確かである。唐代の 諸楽は日本に伝えられたから、蘇莫者もその一つであり、これを太子に付 会したのは鎌倉時代の太子信仰の所産であろう。 *「蘇莫遮(者)」は、唐時代に「感皇恩」と改名されたことからしても 、中国以外の国に淵源があると思われます。従って原名が中国で「音訳」 された可能性が高く(遮→者の表記の揺らぎもそれによるものでしょう) 、この点からも字義の解釈には余り意味が無いと思います。 (音訳に当って、山神を表すのに適字だったのかも知れませんが・・・)  なお、「感皇恩」と言う改名は、この舞楽が皇帝の徳を称えるものと意識 されていたことによると思われますので、聖徳太子の顕彰には正にふさわ しいものでしょう。                  Awaji註 恐らくこの楽は、笛の巧妙さとその功徳をたたえると共に、山神に扮した 人の舞の面白さとを示すことにあり、梅原氏のいうように山神の踊りが主 であり、笛は脇役までにも行かないと見るのは、独断であろう。 また面の物凄さばかりを強調して、それを太子の怨霊に見立てるが、雅楽 の中にはこわい面をつけた舞が、抜頭・胡飲酒・蘭陵王など、いくつもあ って、これらに怨霊のかけらもない。梅原氏は太子怨霊説に熱心の余り、 この山神を怨霊と見ただけであって、この舞を見た人々の二、三に聞いた 限りでは、それに賛成する人はいない。 *おそらく山神の面体の物凄さは、この様な恐ろしい神でも太子を畏敬し たという意味が強調されたものと思われます。 また梅原さんが「暴れ狂う」と表現されたのは、「欣喜雀躍」の様を誤解 されたのでは無いでしょうか?            Awaji註 氏が「蘇莫者とはどういう意味であろう。文字通りにとれば、蘇我の莫き 者、蘇我一門の亡霊という意味ではないか。蘇我一門の精神的代表者であ る太子の霊が、蘇莫者という名でよばれても不思議はない」というに至っ ては、氏のお好きな語呂合わせも極まった形で、まじめな学問的議論の域 外に逸脱する。唐では蘇莫遮と遮の字を使うのに、日本では者と替えた所 に相違があるといえば、また何をか言わんやである。太子を蘇我の莫き者 とどうして言えるのであろう。牽強付会も甚だしい。 *どこをどう解釈しても、太子や山背大兄を蘇我一門とか蘇我一門の精神 的代表者とする認識は有り得ません。坂本さんが「牽強付会も甚だしい」 とされるのはまことに当を得たものでしょう。   (傍観者さんのご指摘では、梅原さんご自身も本説を撤回されている様で すが・・・) さらに、これを「太子怨霊の鎮魂」では無く「蘇我本宗家の鎮魂」と見る のは、もっと無理があります。蘇我本宗家が山背殺害と言う暴虐を行った 地で彼らの鎮魂を行うことは、チョット考えられません。元々天王寺の舞 いとしても、やはり無理があるでしょう。 仮に「蘇我本宗家の鎮魂」を行うならば、「法興寺」→「元興寺」或いは 石舞台古墳、甘樫の丘で行うべきでしょうね。    しかしながら現実に、その様なものは何もありません。つまり藤原氏が蘇 我氏を畏怖し、鎮魂を行うべきものと認識した形跡は一切存在しないので す。 なお蘇我倉山田家に対する霊安鎮魂は、天武・持統が山田寺再建に尽力す ることで行われているのでしょうね。(怨霊鎮魂とは思いませんが・・・)           >>『日本書紀』は藤原氏による蘇我氏滅亡の歴史を正当化しようとした歴 >>史書であると言っても過言ではないような気がします。 繰り返し申し上げますが、大王(天皇)家の重臣の地位を巡る葛城・平群 ・大伴・物部・蘇我・中臣等の権力抗争(興亡)を「正史」において正当 化する必要は全くありません。 (何故に蘇我本宗家の滅亡を正当化しなければならないのでしょうか?) 『日本書紀』はあくまで神国思想に基づき、天皇家の天壌無窮(万世一系) 支配を正当化する思想的歴史書と考えるべきものです。 >>「聖霊会」において「蘇莫者」とは「蘇我氏の血を引くものの怨霊」で >>あり、太子の笛の音によって踊り狂い、最後に僧達の読経によって鎮魂 >>されるのです。 太子の子孫を殺害した者達の「怨霊」を、その惨劇の場所において、太子 の笛の音によって踊り狂わせ、鎮魂する・・・チョット考えられない鎮魂 儀礼では無いでしょうか? 以上ですが・・・出来得れば梅原説から一歩距離を置いて、ご再考されん ことをお勧めいたします。(本件につき議論をするつもりはありませんの で、ご回答は不要です。) Time : 2000/ 3/30(木) 22:27:27
Name : 大阪JF生 E-mail : Title : 正直な感想をお許しください。 Comments:  ご感想ありがとうございました。 今回の記事は、小生には関係なく、またAwaji様のご気分を害する恐れがあるのですが, 正直に、少し感想を述べさせていただきたいと存じます。 坂本氏のこの論文は、Awaji様には分かりやすいのかもしれませんが, 小生にはさっぱりです。やはり、歴史書とは言え、小生がもし編集担当でしたら, 一般向けの本としては出版は見送ると思います。 失礼かもしれませんが,正直なところ,Awaji様の詳しい解説がついていなければ, まったく分かりません。もちろん,必要最小限の抜粋でしょうから, 独立の文章としての判断はいけないのかもしれませんが・・・。 まず引っかかるのが、オリジナルな説に対し, >しかしそれは氏だけの感想であって、・・古今ともにない。 という言い方です。(少なくとも理科系では)わざわざこう言うのは, 真実を追究する学者とは判断されません。また、 >梅原氏は太子怨霊説に熱心の余り、この山神を怨霊と見ただけであって、 >この舞を見た人々の二、三に聞いた限りでは、それに賛成する人はいない。 についても同様です。首をひねる文章です。さらに >今日見るようないかめしい白髭の面をつけ、きらびやかな装束を着るのは、 >後世の扮飾であろう。 >これを太子に付会したのは鎌倉時代の太子信仰の所産であろう。 という推論においては,小生の読解力では、まったく根拠が読み取れません。 (どう変っていったかはかいてありますが,結論自身の根拠不明です。) これでは,前回小生が危惧したとおり、素人には相手にされないように思います。 Awaji様ほどの歴史的知識があるなら別ですが,「常識」とされる膨大な知識を 前提にされたら、まったく素人向けではありません。 ちょっと坂本氏に失礼な部分があったかもしれませんが,正直な感想です。 小生はほとんど梅原氏の著作は読んでいませんし,別に支持も不支持もありませんが, 井沢先生の文章と比較しても,かなり問題のある文章だと感じました。 Time : 2000/ 3/31(金) 13:28:46
Name : 便所の火事 E-mail : Title : 怨霊の宗教学的定義と蘇莫者の舞いの意味の可能性 Comments:  蘇莫者を,蘇我氏の怨霊と仮定し,その踊りを怨霊鎮魂とした場合,それは宗教学的に 一体どういう現象なのかを私なりに考えてみました。  まず,怨霊と言うのは,アニミズムの一種ではないかと考えられます。「宗教学」(小口 偉一編)から,抜粋しますと, …最古の人間は,夢や死のような出来事の反省から,人間にはその宿っている身体を離脱 できる人格的な実体霊魂(soul)が存在するとの観念を持つにいたった。この霊魂観念は,人 間のみでは無くあらゆる生物から無生物にまで及ぼされた。ここに精霊(spirit)観念が生じ た。したがってタイラーの意味における精霊とは,人間以外の所存在に認められた霊魂で ある。人格的な霊魂・精霊は,人間と同じように喜怒哀楽の心意を持って,人間に様々の 影響を与えるものとされ,人間はこれらに対処するため,これを崇拝・慰撫したり,除祓 したりする。ここに宗教が生じた…今日でも各地に見られる魂呼びの習俗や憑き物信仰, 葬送儀礼や年忌法要などは,アニミズム的な性格の強い営みであると言えよう。…  死者の霊魂が,生存時の記憶を持ったままこの世に残るのが怨霊と言えましょう。  原始的社会において,権力者と言うのは強力な霊力(マナと呼ばれる事もある,ただし マナは個人の霊固有のものではなく,人から人,あるいは物へと移動する)を持つと信じ られています。  精霊は,その霊力によってこの世の現象に様々に影響する。当然生前強力な権力を持っ ていたものの霊はこの世に強力な作用を及ぼすと考えられる。しかも,そう言った精霊が 怨霊である場合,この世に悪しき影響を与えるので,鎮魂が必要になる。ここまでは,日 本ならずとも,多かれ少なかれ世界中で見られる現象ではないかと思われます。  日本の神道や,神話,天皇家と言う特異な性格を持つ(原始的な王の概念が良く保存さ れているのでしょう)王家などを考えると,古代の日本と言うのは上のような部族宗教的 な世界観を強く持っていたと考えられます。だとすると,怨霊もまた古くから,おそらく 早良親王以前から存在したと言えるでしょう。  「逆説の日本史」ほど怨霊の影響を認めないとしても,古代日本の宗教にとって,怨霊 を鎮魂する事は大きなテーマであったでしょう。  さて,蘇我本宗家と言うのは一族滅亡の憂き目にあい,さらに一時は天皇にとって代わ るほどの権力を持っていましたから,怨霊となって,この世に悪しき災いをなす可能性は 高いわけです。どのような方法かはわかりませんが,鎮魂はきっとなされたことでしょう。 もし,「蘇莫者の舞」が怨霊鎮魂だとしたら(仮定です)それはどう言う意味で鎮魂と言え るのか考えてみます。  まず,仮面をつけて踊ることにはどのような意味があるのでしょうか?再び「宗教学」 から抜粋いたします。 …かつて太平洋諸島を踏査した民俗学者マレット(R.R.Warett)は,未開人が宗教を「舞い出 す(dance-out)」と指摘した。太古に世界を生み出して人間生活の秩序を造り,今も部族を 訪れてくると言う文化的な英雄や始祖についての神話伝承が生きている社会では,彼らの 姿をまねて仮面をかぶり,仮装して祭場でしかるべき所作をすれば,演技者達は英雄や祖 先に同一化してその場に神話的世界が実現する。神話の生命は,祭式的な舞いのリズムと 言葉の旋律から実現する。神話は,祭式つまり人間をより高い領域に高揚させる芸能の, しかも荘厳な所作なしでは考えられない。リズミカルな祭式の所作と音楽的な神話の詠唱 があいまって,神聖な光景が出現する。歌舞のリズムこそが,人々の精神を高揚し,共同 の想像力を働かせて,普段では見られない目覚しい世界を開示する…だが,こうした神話 的世界を再現する儀礼には,それが宗教だからと言って必ずしも崇拝(worship)の行為を特 徴とはしない。登場する神話上の英雄や祖先は、何よりも人々の祭式的演技によって体現 されるべき存在であって、必ずしも神々として礼拝し祈願すべき対象ではないのである。 それらは、確かに太古の神聖な世界で活躍する存在であるから,なるほどある種の神秘的 な能力を持ち、その姿を形どっている仮面や装身具にも異常な呪力(マナ)がこもってい るとみなされる。だから日常の俗な状態では,人々がそれらに近づいたり触れたりすると 危険であり,普段は一定の禁忌(タブー,taboo)によって隔離されている神聖な存在であ る。…  これは,シャーマニズムにもつながります。古代の芸術が宗教と一心同体であった事は 言を待つまでも無く,しかも寺院で行われる舞いには何か宗教的意味があったのでしょう (怨霊鎮魂かどうかは,知りません)。  さて,これで蘇莫者の舞いを踊る人物に,蘇我本宗家の怨霊が憑依する可能性はゼロで は無くなりました。では,思う存分踊ることと鎮魂にはつながりがあるのでしょうか?    これは,御神輿を考えてみれば良いと思います。わっしょいわっしょい暴れる御神輿は あらぶる御霊を思う存分暴れさせてガス抜きをする意味があると聞いた事があります。  蘇莫者が蘇我本宗家の怨霊だとすると,これを降霊し,シャーマンに憑依させて人畜無 害な形でそのエネルギーを発散させる事は,十分に鎮魂になるでしょう。  異常,怨霊は別に日本に特異なものではなく,さらに蘇莫者の舞いが怨霊鎮魂である(現 在井沢先生が「週刊ポスト」に連載されている能とも関連がありそうです)ことは,十分 ありえる事だと言えましょう。まあ,私は可能性を追求してみただけで,これを信じてい るかどうかは言いません。怨霊は世界的現象でありましょうが,特にそれが日本で発達し たかどうかも,ここで述べるのは差し控えましょう。 Time : 2000/ 3/31(金) 15:13:16
Name : Awaji E-mail : Title : 救世観音と「坂本論文」 Comments: 大阪JF生さん、今日は。Awajiです。一応坂本さんの弁護を・・・ >しかしそれは氏だけの感想であって、・・古今ともにない。 >梅原氏は太子怨霊説に熱心の余り、この山神を怨霊と見ただけであって、 >この舞を見た人々の二、三に聞いた限りでは、それに賛成する人はいな >い。 >>という言い方です。(少なくとも理科系では)わざわざこう言うのは,真 >>実を追究する学者とは判断されません。 おっしゃるとおり、これらは余り感心した表現ではありませんね。 ただここで注意して頂きたいのは、理科系と文科系のニュアンスの差とい いますか・・・文科系が対象とする多くの事象は、人間の行為に関するも のですね。そして歴史学においては過去の人間達が如何に考え行動したか ・・・それがどのような事象を積み重ねてきたか(それが現在にどう関わ っているのか、未来にどう関わるのか)を考察解明することが大きな課題 です。つまりは、人間考察の側面があるので多分に感性に係わる部分があ ると思うのです。 従って「蘇莫者」と言う舞曲の意味を、現在において考察する場合も、過 去において多くの人々がどの様にこれを解釈したかが非常に重要な参考要 素となり、また現在においてもこの様な舞曲を見慣れている人達の感性が 重要な要素となり得るのです。 (だからと言って、そればかりでは先入観によって新説を排除することに なりかねませんので、新説と「蘇莫者」に関する様々な史料との整合性を 併せ考察して、その蓋然性を判断しなければなりませんが・・・・それに 関しては別に説明されているのでは無いでしょうか?) 坂本さんと比べては不遜過ぎますが、Awajiもかって「源氏物語」の解釈 において同趣旨の発言を行って叱られましたね。しかし古典文学や演芸に ついては、やはり過去の多くの人達の感性も非常に重要な要素だと思って います。(我々は、過去の日本人の感性から、ある意味では余りにも離れ たところに置かれていますので・・・・。) >今日見るようないかめしい白髭の面をつけ、きらびやかな装束を着るの >は、後世の扮飾であろう。 >>という推論においては,小生の読解力では、まったく根拠が読み取れま >>せん。(どう変っていったかはかいてありますが,結論自身の根拠不明 >>です。) これについては、平安末期の大神基政の著した『龍鳴抄』下で、蘇莫者に おける山の神は「蓑を着た猿の形」と記述されていますので、一つの根拠 は示されているのでは無いでしょうか? 勿論、大神基政は法隆寺の「聖霊会(長期の間隔がある)」においては、 「蓑を着た猿の形」とは別の山神装束をもって演じられているのを知らな かった、と考える事も出来ますが、田舎の小寺ならばいざ知らず、法隆寺 という大寺の行事ですから、大神基政の博識を信じ、この記述を重視され たのでしょう。 >これを太子に付会したのは鎌倉時代の太子信仰の所産であろう。 これも同様ですが、大神基政の著書には「太子」の太の字も記述されてい ませんね。従って基政の知識に信頼を置くとすれば、平安末期には「蘇莫 者」は「聖霊会」においては演じられていなかったか、或いは通常行われ ていた「蓑を着た猿の形」で笛吹きも「太子とは無関係な人物」として演 じられていたので、特記されなかったと判断できます。 (当時「太子」に関係づけられていれば、当然に基政はそれを記述したで しょう・・・)従って鎌倉期にこの太子伝承が生まれたと推理するのは、 別に無理とは思いませんが? 勿論、坂本さんがそのように判断された背景には、平安末期から鎌倉期に 太子信仰が盛んになり、法隆寺の習俗文物が一新された・・・また舞楽( 芸能)等においても鎌倉期に変化が生じたと言う、一般的な認識もあった と思います。(ただし決して断定はしておられません。『龍鳴抄』を根拠 とした単なる推量の範囲に止めておられますね。) Time : 2000/ 3/31(金) 23:00:32
Name : kituno E-mail : Title : 蘇莫者について Comments: Awajiさん、皆さん、こんばんは。 お久しぶりです、kitunoです。 トピックを見て下さり、ありがとうございます。 それに対してのここでのRESにも感謝しています。 なかなかトピックに投稿出来ずにいるのですが、蘇莫者を含め「聖霊会」に ついてもう少し調べてみたいと思っています。 >(本件につき議論をするつもりはありませんので、ご回答は不要です。) そうですか。 残念です。 ひとつだけ質問させてください。 山背大兄皇子の一族は、何処に葬られているのでしょう? Time : 2000/ 3/31(金) 23:38:02