「ここ映画館なんで・・・」アナと雪の女王の『みんなで歌おう版』で歌った観客が苦情を受け激怒 - NAVER まとめ
人気のディズニー映画、アナと雪の女王がヒットしている中、ゴールデンウィーク特別企画として「みんなで歌おう版」が上映されている。
だが、とある観客が実際に歌ったところ、苦情を受けてしまうというトラブルが起きたようだ。その投稿によると、劇場内で歌っている客がそもそもほとんどおらず、せっかく歌と映画を愉しもうとしたのに、貴重な休日が台無しになってしまったようだ。
しかし、こうした問題は今に始まったことではないと思う。そもそも現代を生きる日本人の文化的なレベルは実は驚くほど低い。礼儀正しく几帳面で誠実な点は世界に誇る民族性なのだが、どいつもこいつも、文化についてはあまりにシラケ過ぎなのである。 私はミーハーな湘南の人間なので、幼い頃から家族に東京ディズニーランドに連れていかれて育ったものだ。不思議だったのはキャスト(従業員)がいかに盛り上げようとも誰もノらないことだった。
たとえば「カントリーベアー・シアター」(原題はカントリーベア・ジャンボリー)という、クマがアメリカ民謡を演奏するアトラクションが開業以来存在している。上演がはじまると、ホスト役のクマが「さあみなさん手拍子足拍子」と言うのだが、手拍子はあっても、足拍子は誰もしないのである。
ちなみにこれが本国式のカントリーベア・ジャンボリーである。
幕が終わる度に拍手とともに指笛や「ヘーイ!」「イェー!」という具合に合いの手が入る。どんよりとした終わり方なら「あ~ぁ!」と落胆した声があちこちからこぼれるなど、合いの手は内容を反応したものだ。最終幕が終わり、退場となるとひときわ大きな拍手が巻き起こっているようだ。これが本来の観劇マナーであり、この光景が40年以上続いているのである。
私は物心ついたばかりの20年前から今にかけて、こんなに刺激的なカントリーベア・シアターは一度たりとも見たことがない。冒頭に手拍子があり、最終幕でささやかな拍手がある程度なのである。
東京ディズニーランドのあらゆるアトラクションやイベントに言えることなのだが、キャストがいくら盛り上げようとしても、一緒に歌おうとか、踊ろうとか呼びかけても、基本的には誰一人としてノらないのだ。パークでのあらゆる娯楽は拍手だけしていればいいと考えている人がとにかく多い。下手をすれば、ニコニコ微笑むキャストの顔すら見ない。
本国アメリカのみならず、アジアをはじめ世界中から多くの外国人観光客も訪れる東京ディズニーランドが、開業以来30年経ってもこのザマであることに、私は一人の日本人として恥ずかしさしか感じられないのだ。
湘南の小学生のクラスメイト同志の悪ふざけを見ていた方がノリがよくて楽しいレベルである。
また、これも自分の過去の体験なのだが、高校時代にチャリティーのオーケストラ演奏を見に行く機会があった。公会堂を貸し切った演奏があまりに素晴らしく、私は演奏が終わったちょうどよいタイミングで「ブラボー!」と叫んだのだが、となりの席にいたクラスメイトに舌打ちされて怒られてしまった。
クラシックの世界では、良い演奏があれば客がそうやってこたえる作法があることは有名なのだが、しかし、それを知っている同級生が誰一人いなかったのである。皮肉にも注意した彼はブラームスとマーラーをこよなく愛する音楽通で、県内でピアノの演奏会に出演したことのある子だった。
私の声に気づいた識者は舞台そでまで駆け寄って「ブラボーだべ!?音楽のすばらしさが伝わって、とてもよかったよ!」と喜んでいた様子だったので、結果的には良かったのだが、私はこのとき、真っ暗な観客の中で感じたせせこましさと、ステージの華やかな賑わいの断絶っぷりに心が引き裂かれそうな気分だった。クラシックは、こんなに陰気で冷たい文化ではないはずなのに。
世界的なピアノ奏者であるキース・ジャレット氏が大阪でコンサートを行ったところ、客席から大きな咳払いや指笛などが相次ぎ、あまりのひどさにキース氏は何度も演奏を中断し、しまいにはコンサート自体を打ち切ってしまったという。
キース氏は10年前にも池袋での大規模なコンサートの最中、携帯電話の着信やくしゃみや余韻を打ち消す拍手に悩まされ、やはり演奏を二度中断したようだ。そして、2000人の観客に向かってこう話したという。
私は出羽守系論客は嫌いなので、日本が文化的に遅れていて欧米のすべてが進んでいるとは思わない。どんな先進諸国でも、DQN層はマナーがなく、文化的程度も低いことだろう。
それよりむしろ、キース氏が10年前に嘆いたように、日本人が本来あるはずの文化が落ちぶれてしまったことに憂いのような感情を抱いてしまうのだ。つまり、自らが体験しに行く文化の形態を意識し、同じ空間を共有する観客として表現者に対するリスペクトをする姿勢の消失である。
新築された歌舞伎座の杮落し公演、勧進帳、松本幸四郎の弁慶 Japanese Traditional Kabuki - YouTube
たとえば歌舞伎には「大向う」から声が掛かる文化が歴史的に存在している。演歌にも似たようなものがあると思う。
観客も劇場の参加者として存在することで、歌舞伎の舞台は成立するのだ。ただ上演を妨害するような掛け声をしたり、あるいは誰もがシーンとするような「粋」でない振る舞いはに非難されることだろう。
インタラクティブ性の面ではカントリーベアー・ジャンボリー(というか西洋の劇場文化)と本質は同じなのである。
日本人は戦後、経済的な成長を成し遂げたが、文化的にはむしろ「無粋」になってしまったように思えてならない。
けっして程度の低い層ではない、むしろそれなりに恵まれた人たちが全く文化的な面においてレベルが低い光景を見ると残念な気持ちになってしまうものだ。それは日本人の伝統からみれば凋落であり、グローバルスタンダードに照らし合わせると恥ずべきガラパゴスである。
こうした事例はあげればいくらでもあるはずだ、ノーベル賞のセレモニーで日本人受賞者だけが舞踏会に参加せずに帰ってしまうことは、盆踊りや阿波踊りといったダンス文化に慣れ親しんだはずの日本人だというのに、ましてや「場の空気を読む」ことは人一倍得意な国民なはずなのに、そのエリート層がノブレス・オブリージュの欠如があるという現実に、日本人として、とても恥ずかしい気分になるものだ。
フランスのガイドブックを読んでいると、お店では店員に挨拶するのがフランスでのマナーと書いてある。日本人は客に店員に対する礼儀を求めるのは失礼と思う人間もいるが、しかしこういった当たり前の部分で、文化としての格の違いを見せつけられた気分になる
— UMAヲ級 さ〇てんだぁ (@TTTtaku) 2014, 5月 5
お店の従業員に挨拶をし、尊重をするというコミュニケーションはヨーロッパやアメリカでは一般的だ。そして、日本でも昔は、共同体の中にある親戚ぐるみで地縁の付き合いのあるようなお店や、たとえば市場の賑わいの中に人情が存在しているのが当たり前だったのだ。
飲食店で「ごちそうさま」を言う客が非難されるようなことは、「三丁目の夕日」の時代には存在しなかったはずである。客は店員の仕事の迷惑にならない程度に世間話を差し込むことで、店員からすれば朗らかな気分で仕事に精を出していただろう。
飲食店で「ごちそうさま」も言えない人間は、劇場にやってきても、舞台の上に立つ表現者(役者でも、演奏者でも、芸人でも、サーカス団員でもなんでも!)に対する「ごちそうさま」の態度を示すこともなく、置物のように無表情で黙って観ているだけなのだ。
それは演者からしたら自分の表現が良かったのか悪かったのかがわかり辛く、ただソワソワしてしまい、今後の向上にもつながらないはずだ。ましてや大声での咳払いなんてされたら悲しい限りである。だが、そんな文化的な感性の壊死したような「彼ら」が少数派ではないのがこの国の現状なのだ。
とまれ、文化的なコミュニケーションはというと、日本にはもはや王国民のようなオタクたちの世界にしか存在していないのだ。こんな体たらくがいつまでも改善しないくせにクールジャパンを自称していることはあまりにもバカバカしい。
そして、自国の伝統からも世界標準からも逸脱し、閉鎖的で、冷たくなった日本人の中のもっとも不寛容で底辺な部類が、おおよそ文化的な要素が片鱗も存在しないヘイトスピーチ(差別扇動)を匿名インターネットやデモで行っているのである。