2014/04/27

修士論文を書きながら気づいた3つのこと

 卒業が迫り、修士論文と格闘する日々が続いている。
 私が選んだテーマは、「産業用太陽光発電のFIT(Feed-in Tariff: 固定価格買取制度)に関する費用対効果の分析」だ。最近は、寝ても覚めてもFIT、FIT、FITの単語が頭の中をぐるぐる回っている状態で、フィットネスクラブ(FITNESS)や任天堂「Wii Fit」の広告にも敏感に反応してしまう始末である。

 改めて力説する必要もないかもしれないが、論文を書くという行為は、決して簡単なものではない。実感としては、黄濁色の泥沼をかきわけるようなもので、そう易々と前には進めない。なかには途中で力尽きて沈んでしまう人もいる。
 しかし、物事というのは往々にして、泥まみれにならないと本当のところはわからない。私も身を投じてみて、ようやく気づいたことがいくつかある。
 今回は、自らの備忘も兼ねて、ここに3つほど記載しておきたい。


1.情報収集に拘泥しすぎないこと
 GSPPが「政策立案の技法」で掲げる8つのステップのうち、一般に最も多く時間を要するのが、ステップ2:証拠を集める(Assemble Some Evidence)である。関連書籍・論文、先行事例、新聞記事、各種統計、専門家へのヒアリング・・・。情報収集の対象は、探せばいくらでも出てくる。ダウンロードしたpdfファイルは増加の一途を辿り、印刷した資料は積み上がって天に届く勢いだ。

 具体例を挙げよう。
 私の論文では、太陽光発電のコストが将来どのくらい下がるか、その予測モデルをまず組み立てる必要があるのだが、そのために参照すべき資料として、援用できそうな「経験曲線」の理論、各種機関の分析結果から、各国における支援政策の相違点、最新の技術動向に至るまで、ちょっと網をかけるだけで数百件の資料が引っかかる。

 それらすべてを読破し、内容に通暁してから、次にやることを考えるべきだろうか?

 情報収集の危険なところは、その行為自体はアウトプットとしてはゼロなのに、なんとなく、「おれ、がんばってる」感を味わえてしまうことだろう。しまいには手段が目的化して、情報を集めるために集める、ということになってしまう。
 この点、政策分析界の重鎮ともいうべきGSPPのユージン・バーダック先生は、以下のように喝破されている。

 質の高い思考をすることは困難でフラストレーションがたまる一方で、データ収集に走り回ることは、生産的に見えるし、自分もそう実感できる。しかも、あなたが忙しくデータ収集をしていると、報酬を支払っている側は給料に見合った仕事をしていると感じられるものなのだ。
  (「政策立案の技法」より抜粋)

 なるほどそのとおりである。そのとおりすぎて、読んでいて身体の一部がムズ痒くなってくるほどだ。

 これを避けるには、やはり、第一稿に早く手をつけることだろう。
 材料は、足りなくていい。むしろ足りない方がいい。どの部分が肝となるか、どの部分を掘り下げるべきか、そういうのは書き進めるうちに自然と見えてくるものだ。そしてその方が結局は効率的なのである。

 書くことは、考えること。まずは何かを形にしてみること。
 修士論文も、出願エッセイも、ブログも、その本質に違いはないのかもしれない。
 

2.自分の考えを積極的に外に出すこと
 論文を書くというのは、基本的には孤独な作業である。自分で集めたデータを、自分で分析し、自分でロジックを組み立てなければならない。当然のことながら。
 ただし、それを練り上げる過程では、むしろ(意識的に)人の助けを借りた方がいい。アイデアは野菜と同じで、溜めすぎると腐る。何気ない会話からでも、開けてくるものはたくさんある。
 
 GSPPのクラスメート、教授陣、論文の著者、関連する組織の職員。私もこれまで、いろいろな方面に教えを乞うた。そしてありがたいことに、ほとんど誰もが親切に応えてくれた。たとえいままで一度も会ったことのない人であっても。

 バークレーのいいところは1,000個くらいあるけれど、そのひとつは、基本精神としてみんながgenerousであるということだ。なんというか、「親切心のキャッシュフロー」の絶対値がものすごく大きいんですね。こうした風土に私は何度も救われてきたし、また今後の自身のあり方についても(というと大げさだけど)、しみじみと考えさせられるものがあった。
 

3.「手持ちの時間」と「集中できる時間」を混同しないこと
 劣等生にありがちな失敗のひとつに、作業に要する時間をうまく認識できない、というものがある。

 「5ページのレポート?」
 「1ページを1時間として・・・」
 「ま、5時間もあればできるだろ」
 「まだ時間があるな」
 「それまでは遊ぼう」

という、この負けパターン。あなたは身に覚えがあるだろうか。私は、ある。死ぬほどある。
(関連記事: 「32時間プロジェクト」の苦しみを楽しんだこと

 いざ作業に入ってみると、当然、集中力が続くはずもなく、くだらないサイトを見たり、ノートの余白にウンコを描いたり、柳家小さん(五代目)の真似をしたりしているうちに、時間は容赦なく流れてゆく。〆切が迫ってくる。成果は残らない。残るのは灰色の後悔だ。

 こうした人間の心の弱さについて、我が心の師である植木等先生は、以下のように喝破されている。

 わかっちゃいるけど やめられねぇ
 ア ホレ スイスイ スーダララッタ
 スラスラ スイスイスイ
 スイーラ スーダララッタ
 スラスラ スイスイスイ
 スイスイ スーダララッタ
 スラスラ スイスイスイ
 スイスイ スーダララッタ
 スーダララッタ スイスイ
  (「スーダラ節」より抜粋)

 心に響く名言である。しかし、「今日の反省を明日に活かす」という観点からは、残念ながらあまり役には立ちそうにない。というか、まったく役に立たない。
 やはり、自分の頭で考えるしかなさそうだ。

 失敗の本質は、どこにあるのか。
 私の豊富な体験に照らしてみると、それは、

 【T: 集中できる時間】 = α × 【t: 手持ちの時間】
 (αは係数。0≦α≦1)

の方程式において、「α=1」と勘違いしたことにある。ところが、実際のαはせいぜい0.3程度。状況によっては、限りなくゼロに近いこともある(そういうときは、もう寝た方がいい)。

 αを向上させる努力も重要だが、現在のαがどのくらいか(心身の状態にも左右されるだろう)を正しく把握することも同じくらい重要である、と私は思う。少なくとも、自分のαが1ではないと認識することからはじめたい。


 この記事を書きながら、もうひとつ気づいたことがある。
 こんなことをやる暇があるなら、さっさと修士論文をやれ、ということだ。
  

2014/04/19

停電


 「おまえのおじいちゃんって、ぜったいあたまがおかしいよな」と、よくいわれる。
 おじいちゃんになってボケてきたから、じゃなくて、むかしからそうなんだという。